第16話
遠い視線の先にはお澄ましをしたような彼女。
特に仕事がないのか何もせずじっと座っている。隣の女性が近付き何か話して緩む口元も決して大声で笑うことも無く上品である。微笑とはきっとこんな感じなのだと思った。
通常よりも早く来てしまった本当の理由は、もしかしたらこれが見たいがためなのかとも考えたりした。
とは言え、今日で飽きつつある場内も終わりだと思うと、晴れやかな朝が一層爽やかに感じ、一つの区切りとして身が締まる気さえする。
暖かい日を象徴するようにストーブも静かで、ちょっとした物音でも聞こえてしまうほど室内は静寂に覆われていた。
時計を眺める。雑誌を読む。タバコをふかす。彼女を見つめる。
乗車までにはゆとり以上の時間があり、次第に退屈になり早すぎたことを後悔したりもする。勝手なものだと思った。
窓越しから外を眺め、朝の日差しに照らされたコースを瞳一杯に広げた。どこか記憶に留めようともしていた。
数台の教習車を目で追い、やがてトラックのあろう車庫へと移せば、二台とも出払っていて薄暗い陰に包まれている。
(良かった・・・・今朝は一号車も動いている)
何号車になるかはまだわからなかったにしても、とりあえず今日はあの日のようなことはないと、その光景に私は安心を覚えた。
新たな暇つぶしの相手として、いつぞや手にした本でもと近寄って目を走らせるものの、面白そうなタイトルは何一つ無かった。もともと熱心に活字を読むタイプではない私に、本を取らせようとする手持ち無沙汰な時間。仕方なく読み終えた車の雑誌を見ようと伸ばしかけたところで、あまりに古い内容に気も進まず、やり場に困った手が残った。
簡易的な棚に置かれた書物は盛観どころか間に合わせで、子供の頃に見た歯医者の待合室のような雰囲気を思わせた。経費で購入したのか疑いたくなるそれらは、個人で持ち寄ってきた古本が一冊また一冊と、いつの間にか溜まった感じさえ伺える。
それでも浮いてたり貧相に見えたりはしない。ここではそれですら溶け込むように調和しているのだ。
腰をまた下ろし時計を見た。十五分前だった。
つまらぬ雑誌なら原本でも見ていたほうがマシと、ふらり席を立ち彼女の方向へと歩き出せば彼女と目が合い、何げなく私は視線をそらす。
取り出すためのカードをわざとらしく手にしていたのは、予約に来たのではないからと示そうとしたためで、それによって仕事の手を止めなくてもいいという心遣いもあった。
機械を操作し取り出すと、静かな空間は騒音ともいえそうな音一色に染まり、気恥ずかしいまでにその音は響いて聞こえた。気のせいか彼女に見られている気がした。
せっかくだからと乗車券も持ち帰ろうとすれば、なにぶん早かったせいかバインダーには何も挟まれて無くて、
「あ、すみません。まだ出してないんです」
と、彼女は間の抜けたように立っている私を見て一言。
「いいんですよ。まだ早いですもんね」
自分が悪いとばかりに戻り掛けると、
「ちょっと、待ってください」
そう言って何かを始める。ちょうどカウンターに隠れて手元は見えず、私は言われたまま待っていた。やがてスッと小さい紙を差し出し、
「どうぞ」
と、私のナンバーの入った乗車券をカウンターの上に置く。ダークブラウンの中にポツンとあるピンクが一段と映えた。それを手にし彼女を見ると瞳が重なった。いつもとは違う表情にも感じた。
「あ・・・・どうもすみません」
ほんの親切心がした行為に過ぎないとは言え、なんだか特別扱いでもされたような気分で、自然と笑みがこぼれてしまった。
「いえ・・」
彼女のささやかな口調と軽い会釈の仕草が戻る間私の脳裏に揺れた。
腰掛け暇つぶしと広げた原本も、すぐ閉じてファイルに戻す程度でしかなく、一緒に乗車券も差し入れると、半透明にピンクが淡い色合いへと変わる。
五分前のチャイムを合図に、車庫へ向かおうと扉をくぐり抜ければ、そこには確かに朝があって、震えるまでもない肌寒さと、ほのかに暖かい日差しが包んでくれた。
少し歩いたところで、
「〇〇さ~ん。〇号車・・・・〇〇さ~ん。〇号車・・・・」
と、彼女の配車のアナウンスが始まり、朝の空に響き溶け込むように消えて行く声をずっと耳を傾けながら進んで行くと、その脇をトラックが風を引き連れて走り抜けて行く。
どうやら路上教習が終わって場内に戻って来たようだ。
「〇〇さ~ん。大型三号車・・・・」
自分の配車を示すアナウンスには聞き覚えのない名前が告げられていて、うっかり聞き逃してしまった。ただ、手帳に連ねた判の中に無い名前だったのには違いない。
(どんな人が来るんだろう・・・・・・)
と、心なしそれを楽しみ思い、緊張はそれほどでもなかった。きっと彼女の差し出した乗車券のせいだったのかもしれない。
車庫の前に立ち口臭スプレーをシュッシュッとやりながら場内を見渡す。もう一台の大型の姿もあり、やがてそれらはバックしながら車庫へと入って来る。
所定の位置に止まるトラックの窓には教習生と判を押す教官の姿。ちょうど自分の教習を第三者的に眺めている気がした。
時間もあまりないことから二人が降り、その姿が見えなくなると教官を待たずに次の教習に備え乗車し、椅子の位置などを合わせてエンジンを始動させる。すぐに水温の針は上がった。
────「ある程度すりゃ勝手にエンジン掛けて待ってたって大丈夫っすから」
そんな須藤の言葉では言い訳にも出来ないが、教官の山本さんが言ったとなれば、指摘されたところで問題になるまでもない。準備万端と待っていると助手席のドアが開き、スッと教官が現れる。歳にして七十を過ぎたと思われるベテランは、この教習所最年長と言った感じであるが、容易ではない大型の乗り込み方が他の教官と遜色無いほど軽やかで、つい薄い頭や刻まれた皺を忘れてしまうほどであった。背筋の伸びたすらっとした体型も理由の一つであろう。
「よろしくお願いします」
「あ、はいどうも。よろしくお願いします」
第一声は人当たりが良さそうな人で、まずはホッと一息。超ベテランイコール頑固と言う図式が、頭の片隅にでもあったようだ。後々、私は彼にベテランと名付けることにした。
「じゃあ、行きましょうか」
穏やかな口調につられ発進させようとした瞬間だ。
「あ~ちょっと待て!」
と、老眼鏡の中の目がキラッと光った。
「シートやミラーはもう合わせたのか?」
「はい。もう合わせました」
「ドアロックはしたか?」
「ドアロック!?いえ、ロックはしていませんが・・・・」
「してない!?駄目じゃないか。乗ったら必ずロックするように教えられただろう?」
ここで頭でも下げて謝ればそれで終わったのかもしれないが、私とて聞いていないものをうんとも言えず、
「いえ。それは聞きませんでした」
腹立たしいのを隠し、当たり障りのない口調で返す。
「聞いてない?それじゃ~今、初めて聞いたのか?」
「はい。そうです」
「・・・・・・それじゃ~教えるからよく覚えるように。まず最初に乗ったら椅子を合わせて、・・・・いや、その前にロックして、椅子とミラーを合わせてシートベルトを掛ける。それで初めて出発の準備が出来たってことになるんだ。これは試験なんかでもチェックすることだから、出来ないとすぐ減点になるからね」
「はい。わかりました」
「じゃ~ちょっと最初からやって見て・・・・まずは~乗る。まぁ~乗ってるからいいとして、乗ったらロックして~次に~椅子を合わせて~・・・・・・」
ベテランの声に合わせながら一連の動作を進めて行く。
「そう。それでいいわけだ。じゃあ、車出して」
「はい」
「本当に聞いてなかったのか?」
「ええ」
「まったく他の奴らはいったい何を教えているんだ・・・・」
若い者はなっとらんと言った調子でブツブツと吐き捨てている。私も少しカチンとは来たものの、納まり掛けた異様なムードを盛り返してはと、咄嗟にガラリと作戦を変え、
「だけど、ようやく教官らしい人が来ましたね」
と、お世辞と皮肉を半々に織り混ぜた。
「おっ、そ・・そうかね」
あまりに予期せぬ言葉に険しい表情が崩れ一瞬笑みが差し込むものの、一度見せた憮然たる顔は、そう簡単に変えられないと賢明に堪えているのが見て取れる。その表情は同時に、こいつ本物がどういうものか知ってるなと言わんばかりだ。それがまたベテランのプライドでもあったに違いない。
しかし、その一言で険悪なムードが一掃されたのは事実で、言葉の凄さというものを改めて実感すると同時に、気分の良い朝がそんな機転を私に与えたのだとも思った。
「はい。じゃあ、そこを左折しますから」
これが本来と思われる穏やかな口調に変わると、ベテランはまた話し易い人でもあり、会話は弾んだ。
「───もうかれこれ五十年は経つかね~。あなたがまだ生まれる前の、それこそお父さんたちを教習した口だから話も古くなるね」
「ここは長いんですか?」
「ハハ・・・・ここは創立から居るよ。あの頃は何にもない所だったけど、変わったな~。今じゃ~うちの孫なんかも車に乗ってるし、歳とるわけだよ」
「じゃあ、植木さんもよくご存じで?」
「ああ、彼の方が少し年下なんだけど入社は同期でね。・・・・植木さん知ってるの?」
「ええ、以前ちょっと二輪でお世話になったことがあるんです」
「お~そうかい。それもまた古い話だね。彼は真面目だから出世したな。本当は彼が所長になるときに私は定年だったんだけど、辞めないで居てくれって頼まれてね。教官も少なかったんで言われるまま続けてるんだよ。半分はバイトみたいなもんさ」
「そうですか~。それじゃ今までに相当な人を送り出したんでしょうね?」
「二万人は居るだろうね」
「二万人!?」
それはいくらなんでも言い過ぎだと、頭の中でざっと数字を弾き出したりした。
仮に年四百人として五十年。答えは一致する。恐らくそれは控えめな数なのかもしれない。
「これを見てくれ」
横目でベテランの差し出したものを見ると、ボロボロになったバインダーを手にしている。
「これは私の宝物でね。私が教官になってからずっと使っている物なんだよ」
「えっ!?ずっとですか?」
「そう。これには今まで教えて来た生徒達の思い出が染み付いてて、いつの間にか捨てられなくなっちゃったよ。みんなにはそんなボロ使ってないで、新しいの使えって言われるんだけどね。これは金で買えるものじゃないから・・・・」
「そうですか~。それにしたって物持ちが良いですね~」
「そうだな~よくもってると自分でも思うよ。まぁ、この用紙を挟むところのバネがいかれたら、いよいよ駄目なんだろうけど、意外とこれが丈夫でね」
ベテランは思い出深そうに笑った。素敵な笑顔だと思った。
場内を指示に従い走り続けていると、
ガッターン!タン!
と、縁石を乗り上げてそのまま越えて行く教習車が目に留まる。左カーブで早くハンドルを切り過ぎたために乗り上げたのだが、車内では教官と一緒に女性ドライバーも大きく跳びはねている。普段は見られない光景に、
「す、凄いですね~」
と、思わず声を漏らせば、
「フッ・・あんな連中だって、やがては路上に出て行くんだから、考えりゃ恐ろしい話だな」
半分笑いながら呆れたようにベテランは話した。
「そうしたら、今度は坂道を逆に行くコースで走って見よう。そして降りたら南へ出て行くんだけど、やや鋭角に戻る感じでちょっとハンドルが忙しくなるよ」
一通り走らせ腕を確認した後、今度はちょっと違うぞというコースを指示する。私としてもその道は初めてである。
「じゃ~東を通り過ぎたら~そう、そこから右折して・・・・」
曲がった直後に踏み切りがあり、窓を開けながら、
「坂道発進もした方がいいですかね?」
「まぁ、せっかく来たんだからやるかね」
「あ、わかりました」
そして坂道を下り終え、問題の場所へと差しかかる。
「あ~ここはゆっくりでいいよ。そうそう・・その辺から切り出して・・・・」
ミラーで左後輪と縁石の距離を測りつつハンドルを回せば、トラックは弧を描きながら左折して行く。狭い路地で曲がる感じだ。
トラックの頭が南に真っすぐなりかけた時、今度はハンドルを素早く逆に回す。戻し始めるタイミングが肝心で、早めだとセンターラインに掛かってしまい、まごまごしていると停車した時ハンドルが真っすぐに向かないのだ。なんせハンドルを戻し終わったと同時に、頭が停止ラインに達するので、短い距離の割には奥が深い。
気持ちでは出来ると思っていても、ラインに停止すると車は道路に対してやや斜めに向いていて、ハンドルの位置も中途半端だ。
「う~ん。うまいんだけど惜しいね~。ほら、右のミラー見るとラインと車が平行じゃないから、奇麗じゃないよね」
「はい・・」
「ハンドルも最後まで戻し切ってないから、次の発進時どうしても不自然な感じになる」
すべて壷を押さえた指摘は、これぞプロと思わせるもので、腹立たしくもなければ不快でもなく、むしろ本物の教官に出会えた喜びがあった。
────「ようやく教官らしい人が来ましたね」
強ち意味もなく出た台詞でもないのかもしれないと思った。
「じゃあ、もう一回やって見よう」
「わかりました」
坂を下るにつれ神経が研ぎ澄まされて行く。心地良い緊張だった。左右を確認した後、ゆっくりと進む。二回目は黙って眺めているベテラン。
ミラーの中の左後輪が縁石の脇を通過した途端、計ったようにハンドルを切り出す。
(まだだ・・まだだ・・)
戻すタイミングを心の中で呟く。
(よし・・今だ!)
それからはただハンドルを戻すこと以外は何も考えなかった。
停止線でブレーキ。
(どうだ!?とりあえずハンドルは元の位置になったみたいだが・・・・)
「よ~し!奇麗だ!!」
横から聞こえた一言がすべてだった。
「今度は完璧だよ。ミラーを見てごらん。縁石とラインとの距離が同じだろ。ピタリと真ん中で、ラインとボディが平行になってる。これは奇麗だ~。ハンドルの位置も決まってるしね」
出来て当たり前と思っていても、さすがに聞きながら顔が緩んでしまうのだった。
「じゃあ、もうじき修検だから、これからは試験を想定して同じコースをやってみようじゃないか」
「はい・・・・あ、コースはいくつかあるんですか?」
「あ~。全部で三コースあるな」
「三つもあるんですか?」
「な~に、すぐ覚えちゃうよ。じゃあ、車をあそこの線のある位置に止めたら、最初のコースから行ってみよう」
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