第14話
────今度訊いてみたらどうですか?
正直、私も同じことを考えたことがあるだろうか。ただそれだけの話を訊こうと思っても、教官のように共にする時間などない上、とりわけそんな話をするのに相応しい場所でもない。一人勝手に想像するか、もしくはこんな言葉か。
「明日の五時なんですけどどうですか?」
「五時ですね。ちょっとお待ちください」
カチャカチャカチャ・・・・。
キーボードを叩き彼女の目線が予約状況を表示したディスプレーに向くと、私はその涼しそうな目元を食い入るように眺めている。惹き込まれそうな瞳に画面が反射して一層きらびやかに映った。時の流れがその瞬間だけは感じられなく、何か忘れていた感覚が浮かんで来る気配がし、
「五時だと・・・・いっぱいですね」
と、思わずこちらが逸らしてしまうほど、この距離で重なり合う彼女の瞳は神秘的である。危ないというのか、魅力的だというのか、うまい表現はないがとにかく何かが伝わって来るのだ。
咄嗟に次の言葉をも失わせてしまうのではないかと視線を移し、
「六時はどうですか?」
「六時もいっぱいです」
次は眺める間もないほど即答だった。既に表示になった画面を見ているだけなのだから無理もない。
「一号車、三号車両方ですか?」
「ええ、両方です」
予約を取る者にとってはつれない返事にしても、それほど不快で無かったのは、会話をしている二人だけの空間を楽しんでいたからに違いなく、幸いにして次に並ぶ人も居ないのを良いことに、在り来りで他愛のない質問でも時間を延ばそうとばかりに訊いているのだと思った。
「じゃあ、あさっては?」
「あさっての何時でしょう?」
「同じ五時、六時です」
「ちょっとお待ちください。あさってもいっぱいですね」
「じゃあ、その次の木曜日・・・・あ、木曜じゃだめだから金曜日は?五時六時で」
「金曜・・・・いっぱいです・・・・ね」
「そうですか・・・・」
混んでいるだろうとは思っていたが、まさに思惑通りの展開に表情も優れない。
「次は?・・・・土曜日・・・・土曜じゃだめか・・・・じゃあ月曜。五時六時で」
「お待ちください。あ・・いっぱいですね・・・・」
まるで彼女に意地悪でもされているのではないかというくらい、返される答えは思わしくないものばかりで、声も気の毒そうなトーンで弱々しい。だが、空振り続きの光景が次第におかしくなったのか笑みを浮かべたりもする。満面とまではいかないまでも、間近で初めて見たにこやかな表情は、澄まして冷たい顔よりも彼女に相応しく私の心を和ませてくれるのだった。
一向に決まらない予約に焦りも感じだすと、
「え~と・・・・五時六時だったら、いつが空いてますか?」
「はい。六日でしたら空いていますけど・・・・入れますか?」
「六日ですか・・・・じゃあ、そこにお願いします。次の七日はどうですか?」
「七日だと、六時が埋まっちゃってますね」
「そうですか・・・・あ、そうだ。朝だったらどうですか?え~と・・・・水曜日は?」
「朝は何時がよろしいですか?」
「何時からでしたっけ?」
「八時からです」
「八時・・・・って言うと八時半からですよね」
「そうです」
「八時半か~・・・・ちょっと早いな・・・・じゃあ、九時・・・・あ、九時、十時で」
「・・・・お待ちください・・・・九時、十時ですと・・・・やっぱりずっと埋まっちゃってて、七日でしたら大丈夫ですけど・・・・どうしますか?」
「七日か・・・・いいです。そこにお願いします」
会話は割とスムーズで、ごく見かける予約のやり取りの一齣に過ぎなかったが、私にして見ればかなりの時間を要した気がして、四時間分の予約を取り終えたところで、さらに取るべきか思案していると、しばしの間が空いてしまい、
「あとはどうしますか?」
との彼女になぜか慌てて、
「今日はもういいです」
と、咄嗟に断る返事をこぼしていた。
あれだけ予約を取ろうと気を吐いていたのに、すっかり取れない状況に気分は滅入り、機械的な彼女の口調にもやるせなさを覚えたようである。
背を向け外に出ると、たとえ堅苦しい言葉であっても彼女との一時の余韻と、一瞬見せてくれた表情に何かが満たされ帰る足取りは軽やかだった。
ザッザッザッ・・・・ガチャッ、ガタッ!
「おはようございます」
静かな事務所内に、窓口の二人の女性の穏やかな声が新鮮に響く。爽やかな朝の音とも感じ取れた。
やや肌寒い時間に来る人を持て成すような温かさが心地よく、気が付けばちょうど階段を降りた辺りにあるストーブに火が入っている。薄暗い場所にほのかに灯る明かりは、どこか懐かしく、それでいて初めて見た光景でもあった。
どこに定まるとも無い視線が、つい予約の彼女の顔に向いてしまうと、化粧は同様でもいつもの涼しそうな目元は乱れ、まるで違う人のようにも見える。
なんだか見てはいけないものを見てしまった。そんな罪悪感の裏側に、普段見られないものを見て得をした気分もあっただろうか。
「おはようございます」
軽く挨拶を返した後、L字型に配置されたいつもの長椅子に腰を下ろし、煌々と燃える場所にうつむき加減に手を翳せば、効率の良い大型のストーブの熱風で、冷たい指先どころか衣服や顔までが熱くなり、思わず姿勢を戻したりした。
平日の朝とあって学生も数人程度。実際は学生かどうなのかは定かではなく身なりや雰囲気でそう思った。
静かな空間にストーブの音だけが聞こえている。
いつも以上に視線は彼女の腫れぼったい目元に向き、夜更かしして寝坊でもしたのかなどと一人あれこれ考えていた。それもすべて退屈な待ち時間がさせることだとも思った。
時折、目が合い視線を逸らす。私であったり、彼女の時もあった。
────今度訊いて見たらどうですか?
ふと浮かんだ言葉に出そうになった笑いを紛らそうと、手帳を袋から出し雑誌でも眺めるように開く。
昨日の夕方に乗った二時間を合わせ、既に場内の半分に印が押されている。
そして今日また二時間。
(圭ちゃんには悪いが、午前中はこれですっかり潰れちゃうな~。でもこの分だとあと一日で場内も終わりだ)
五分前を知らせるチャイムと共に席を後にした。
「おはようございます。よろしくお願いします」
「はい。おはようございます。エンジン掛けて」
「はい」
ギュルル~・・・・。
と、セルを回すと、すぐに目覚めたエンジンではあるが、ドドドッ、ドドドッっと普段よりも不安定で大きい振動を伴ったアイドリング状態になる。
「朝は冷えてると乗り辛いんで、今度から来たらエンジン掛けといていいから」
「あ・・はい」
(そういや須藤もそんなこと言ってたっけ・・・・だけどそこまでするのはさすがに後ろめたい気もするな・・・・)
振動を伴いながら揺れるタコメーターの針を見ながらそんなことを考えていると、
「安全確認して出て良いよ・・・・あ、最初だけちょっとスローが低いんで───」
もそもそっとした口調で話した言葉は、一先ずコースに出ることに意識が傾いていたせいか最後の方はよく耳に入らなかった。左右を確認しゆっくりと発進させる。
おかしい・・・・妙にアクセルが重い・・・・いや、重く感じるのは車である。踏んでいる割に前に進まず音だけがやかましいほど大きい。いつもと違う感覚にひょっとしてハンドブレーキでも戻し忘れたかと真剣に思ってしまうほどだ。
「いいよ、そのまま踏んでて・・・・ギアは変えなくっていいから」
騒々しく響く中に隣から僅かに聞こえた声も、なぜ進んで行かないのかという疑問の中では、耳に入っただけにしか過ぎず、このままエンジンをうならせた状態で走るのは、車にも悪いだろうとつい踏んでいる足の力を弱めた。
「いいんだよ!そのままで!」
教官の声がより大きく聞こえた瞬間、ガーッと凄い勢いでブレーキを掛けたかのような状態に、二人共思わず前のめりになってしまう。予想もしなかった動きにクラッチですら踏み忘れるところだった。
「だめだ~戻しちゃ!いいからずっと踏んでて!」
首を傾げたくなる挙動と教官の怒鳴る声に、こっちもイライラして言われるままぐっと足に力を入れ直し、騒がしくそれでいて重々しくトラックを走らせる。車庫から出て三十メートルくらいの出来事だ。
この調子でどこまで周り続けるのかと思った時、繋がれていた鎖でも外されたようにスッと車が軽くなり、
「あっ?」
と、普段の調子に戻ったというニュアンスの声を発した。
「よし、もう大丈夫だからギアを上げていいぞ」
車は何もなかったようにスムーズに進んだ。
「何か具合でも悪いんですか?」
「あ~、この車はいつも掛けはじめは調子が出なくってな」
「いつもですか?」
前回はならなかったという口調で訊くと、
「いや、一回掛かっちゃえばその日はもうならないんだよ。なるのは一日の最初だけでな、前の時間に動いてりゃいいんだけど、今朝は使ってなかったからな。たぶんアクセルの開くところでも悪いんだろうが、ちょっとした間だけなんで直しもしねぇみてぇだ」
「もう一台もなるんですか?」
「いや、なるのはこの一号車だけだ」
「はぁ~そうですか・・・・」
少々内装の具合からして型の古い一号車には、昨日初めて乗ったのだが、先程のような症状は見られなかった。どうやら夕方だったためらしい。
三号車に対して力不足のエンジンは、場所によって扱い易い所もあるにしろ、やはり全体を通して考えると、より大きいハンドルや昔風のポジションは、どうしても乗り辛さを隠せない。しかし、懐かしさでいくならこちらの方が上だ。
以前乗っていた感じと同様な運転席やトラックらしい癖は、あの頃という時代を思い起こさせ親しみも沸く。
それにしても会話が途絶えた時に包まれるこの雰囲気はなんだ。
やる気の無いような態度がそう思わせるのか、つまらなそうに窓の外ばかり眺めていて、今にも舌打ちしそうである。開始早々交わしたわずかな会話も、初対面の堅苦しさを和ませるどころか、傲慢そうな口調がかつての苦手な教官を思い出させ、嫌な予感が頭をかすめた。
しばらく外周を走り北の直線に入ると一気にアクセルを開け、スピードメーターの針をピタリと四十に合わせる。そのすぐ後ブレーキで減速。
教官が四十を確認するのは目の前にある赤いランプだけで、助手席には普通車のようにメーターは無い。四十キロに達すると、それが赤く灯る仕組みになっているらしい。
一般道では普通の四十キロというスピードも、短い直線のここではアクセルを遠慮気味に踏んでいると、間に合わずブレーキを踏まなければならなくなる。いかに思い切りよく踏むかがポイントなのだ。
似たようなことを繰り返し、いつまで続けるのかと思っていたら、
「クランクとS字はやったか?」
と、一言。
「ええ、昨日ちょっと・・・・」
「じゃあ、今日もその続きをやるから、もう一周したら北から入って交差点を右。そのままクランクに入る」
「わかりました」
命令するような言い方が引っ掛かったが、必要以外のことは喋らないといった簡潔な台詞も要因にあって、一味違う切れのようなものを感じさせた。
トラックがコースを一周する間、エンジン音と絡み合いながらボディの軋み音だけが車内に響いていた。緊張している。
走るスピードでも違うのではないか。それほど同じ一周が長く感じる。
────「はい。いいですね~~。そのまま、そう~バッチリです」
昨日の教官のように妙に愛想の良いのも考え物だが、無言のまま居られるのも重苦しいものだ。良いのか悪いのかよりも前にこの教官は今いったい何を考えているのか。運転よりもむしろその方が気になって仕方がなかった。もしかしたら相手も同じことを考えているのではという、腹のうちの探り合いにも似た空気が漂っていた。
はっきりと伝えるために首を大きく動かし左のミラーを確認。その合間に横目で様子を伺い音にならない程度にゆっくりと息を吐き出す。やれやれといった調子でも、緊張を落ち着かせようとしてのことでもあった。
建物のある西のカーブに差しかかった時、
「北ですよね」
と、念を押すように訊く。
「そうだ」
教官が答え終わる頃には、短い西の直線の半分を過ぎ、
「この辺から合図を出して」
言われるまま右に合図を出し後方確認のための首振り作業の後、交差点の信号に目をやるとちょうど青になっている。タイミングが良いとばかりにその勢いで曲がろうとすると、
「速いよ。もっと減速して・・・・もっとグーッと・・・・スピードを殺して」
がっしりとした体格から力強い声が届く。
コース中央にある交差点も南北の距離が短く、特にボディの長い大型だと曲がり終えた直後にすぐ信号に差しかかるため、どうしても一連の動作が忙しなくなる。
それ故にスムーズに走り抜けたくなるのは人の心理で、なんとか間に合うとアクセルを開けた瞬間、急に変わった黄色に慌ててブレーキを踏んだため、またしても二人で前のめりになってしまうのだった。
一瞬、乱暴な口調が頭に過り気が気ではなかったが、何を言うことも無く赤信号の合間にメガネを掛け直したりしている。とにかく何も言われなくて良かったと胸を撫で下ろした。
大人になって対等に世間話が出来ると思っていたのに、この教官には妙な威圧感があり、いつしか気分はすっかり十代のあの頃に戻ってしまったような緊張を覚える。だから尚更、怖い教官の像が頭に浮かんだのかもしれない。
ホッとした心は、やがて信号を待つ間にじわじわと体中に広がって行き、緊張の緩みさえ感じさせてくれる。ある意味、この停車は良い休息だったようだ。
田舎にポツリとあるような信号がいつ変わるのだろうかと、走り過ぎる車の無い交差点を眺めていた。路上教習が多かったのか場内も静かだった。
教習のために作られた交差点。
実際よりも貧相な信号機がただ黙々と仕事をこなしている。過去どのくらいの人に指示を与えて来たのだろうか等と考え出せば、無意識に通過してしまうよりも、僅かながらこうして指示に従う時間も良いものだと思った。
「どうぞ」
青信号はそう話したように見えた。
車の来ないのは見るに明らかでも、それらしく確認するのもまた教習所らしい所で、右折すると直ぐさま左折の合図と共にクランクに進入して行く。この位の角度ならばというコースが自然に浮かぶのは、以前乗っていた強みでもある。
忘れてしまったようでも未だ体に染み付いている感覚を改めて感じた瞬間だった。
両方のミラーに注意を払いゆっくりと通過して行く。初めて入った昨日よりも違った意味で緊張しハンドルを持つ手が汗ばんだ。低速ゆえのぎくしゃくした感じは心なし違いが感じられるも、これはトラックによる違いで、それ以外は何も問題は無く空きもせず寄りもせずの位置を保っている。出来て当たり前と思いながら、どうだと言いたげな顔に満ち溢れてもいた。
相変わらず教官は黙ったままで、
「出たら左」
と、一言。
既にやったのだからこの程度のことは出来るだろうと、見切ったように何食わぬ顔をしている。
「じゃあ、今度は西から入ってS字」
「次は南からクランクを逆に入るコースで行くから」
「東から入ってクランク」
口を開けば次の指示といった具合で、特に外周から進入する時に出す合図の指示は、絶妙と言うほどのタイミングで嫌みさえ感じさせる。
「合図出して~」
今、合図を出すために力を入れようとする時に、決まって横からそんな声が聞こえるのだ。度々言われるのも癪だと、次からは少し早めに出そうと考えクランクを終えて外周へと進む。指示された場所に近付くにつれ、神経はそのことだけに集中させていた。
(少し早くだ・・・・もう少し・・・・そろそろか・・・・今だ!)
「合図出して~」
「!?・・・・・・」
ひょっとしたら手元でも見ているのではないかとさえ思うのだった。
時間の限り技量を試されるかのように振り回された。こちらとしてももはや挑戦でも受けるかのように、言われるままただ黙々とこなし、どこのコースでも言い付けてくださいと言わんばかりの返事を繰り返す。
いくら圭ちゃんに相手に合わせるのがうまいと褒められても、これではそれどころの話ではない。また世間話など切り出そうとする雰囲気もなかった。
(参ったなぁ~・・・・まぁ、この時間だけの辛抱だし・・・・教官もいろいろだからこんなタイプの人もいるくらいに思わないと・・・・・・)
気のせいか終了印に重みを感じた。もちろん異様に疲れたのは言うまでもない。
次の時間には二度目となる原さんで安心したのか、楽な教習に思えてならなかった。先程の反動なのか手を抜いて運転もしていた。得てしてリラックスというのは、良い結果を生み出すものだと思ったりもする。
「お、随分慣れて来たみたいじゃねぇか」
横で原さんはそう言った。
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