第12話
渋いはずの扉はスッと軽く開いた。
期待通り、いやそれ以上に楽しめた教習が理由に違いないと思った。
親しい人でもいたら、つい騒いでしまいそうなテンションも、扉一つくぐり抜けた途端に、押し殺さなければならない雰囲気は相変わらずだが、それでもひっそりとする空間がいつもと違い、肌ではなく心に伝わる温かさとでも言おうか、それが妙に落ち着きを与えるのだ。
腰を降ろした長椅子も同様で狭苦しさは感じない。
ゆったりと身体を預けた後、タバコを燻らし、ため息混じりに吐き出した煙りを満足そうに眺めた。薄らいで行く白を見つめる穏やかな目には、ようやくここの一員になったのだという安堵感が漂っていたことだろう。
(しかし、面白かった~!)
心の底から沸き出すような感情に、何度か一人で笑いそうになるのを必死にこらえたりもした。関心をよそに移そうとしたところで、不慣れな実習を前に緊張顔の生徒には申し訳ないが、私自身きっと爽やかな顔をしていたに違いない。もしくはそんな顔を押し殺そうと努めた顔だったかもしれない。楽しいことも素直に現せないのはもどかしいことである。
ファイルから取り出した手帳をじっくりと見つめと、黒と白だけの世界に突然と現れた青が、とても新鮮に映った。
(原さんか・・・・・・)
終了印にある名前と、つい先ほど隣り合わせにしていた教官の顔を照らし合わせながら、二人で交わした会話や、目の前に広がったコースなどを回想していた。
少しするとまたファイルに戻し、退屈そうに辺りを眺めたりする。不意に視線を送った先にいる彼女の顔も、気のせいか穏やかに見え、することがなかったのか、同じようなことを繰り返した。
────「じゃあ、バックで車庫に入れるから、頭を向こうに振って・・・・」
初めての実技での車庫入れは、まさに大型ならではの話であり、そんなレベルの高さに心地よさも感じた。
「はい、そこで切って・・・・そうそう。はい戻して・・・・そのまま真っすぐ・・・・」
以前この手の駐車は何度と無く経験して来た私といえど、果たしてどこまで下がって良いものかわからず、ひとまず教官の声に従うことにした。
教習所であるからして、恐らく後に障害物があるとも思えないし、何か目安となるものがあるはずだと目を凝らすも、何分薄暗い車庫ゆえ徐々に下がるに従い、後にある壁との距離が気になって仕方がなかった。
「はい。もう少し・・・・オーライ・・・・オーライ・・・・」
ミラーで確認しながらも、頼りになるのは教官の声だけである。
「はい。この辺でいいよ。ほら、窓の中心とあそこが並んでるだろ?だいたいこんな感じで止めればいいから」
「お世話様でした」
「はい。ご苦労様でした」
ドアを開けた途端に吹き込む風は、寒いよりも爽やかに感じた。清々しさに覆われた心がそう思わせたのかもしれず、車まで向かった足取りとは対照的なほど帰りは軽やかであった。
振り返ることで体を温めるように、だんだんと全身に広がって行く充実感。すると、もっと早く来れば良かったという、後悔にも似た思いが沸き出すのであった。
ただそれも今だから思えることなのだろう。
結果として須藤の免許が引き金になったとはいえ、もしかしたら私をここに導いたのも、予め描かれていたシナリオだったのだろうか。そう考えると、全く面識のない教官から聞く他愛もない話とて、なぜか意味有り気に思えたりもする。
(もうじきだ・・・・)
続けて行われる教習の時間が迫るにつれ、ワクワクと体中に流れ出す気持ちの逸りを、押さえ込むようにお澄ましを決めたところで、つい時計に目が走ってしまう。
あまりにも頻繁だったのか、まるで壊れて止まっているのではないかと思う有り様で、ならばと今度は目を閉じたりして時の経過を待つことにした。
人が見たら瞑想か居眠りかは別にして、視界を閉ざすことにより得られる暗闇の世界は、若者犇めく場違い的な環境をも遮断するようで、ことのほか落ち着ける場所であることに気付く。
周りに居る生徒と同じ容器に入ったとしても、どうしても混じり合えない水。
それが掛け離れた年齢なのだろうかとも思ったりした。
本来、教習所とはそんな雰囲気が漂う場所だと言ってしまえば、広告のポスターなどで見受けられる爽やかなまでの免許取得の案内に、夢を描いている人に水を掛けるようだが、それもまた現実なのである。
数ヶ月単位の短い期間で、入所から卒業までがまちまち、その上、学科や実技の授業も一日のうち二、三時間程度では生徒間のコミュニケーションなど計りようがない。従って隣に座る人の名前を知らなくても当然と言える。
もっとも自動車学校側からすれば、それらは必要以外のことで、真面目に静かに教習を受けてくれれば良いということになるのだろう。
一人巡らせた思いは、見えない景色に広がり出す周囲の音によってかき消されて行った。
生徒同士のひそひそ話、あの低い声は教官だろうか、ゆっくりとしたテンポで歩く足音からきつそうに開くドア、独特の世界が浮かび出すにつれ、姿や仕草までもが見えるのではないかと、つい真剣になったりした。あちこちと徘徊させても誰に悟られることもなく、男がただ座っているだけにしか見えない。くだらない行為も見方を変えるだけで、不思議な楽しみ方が出来るものである。
集中するほど静かだと感じていた空間に存在する様々な音、つかの間だが何もかも忘れ夢中になった。やがて正面辺りからほんのり聞こえた声に、引き寄せられるかのように傾く意識、恐らく声の主が誰であるかすぐに察したからで、それまで聞こえていた音すら頭に残らないほど、聞き覚えある彼女の声で満たされてもいた。
予約のやり取りをしている光景がうっすら浮かんでも、内容はどうでもいいことだったのか耳には届かず、ただじっと穏やかな口調だけを受け入れようと耳を澄ませた。
物事をしっかり考えてから話すのではないかと思わせる僅かな間が、とても心地よく響き、淡いピンクの色に包まれた唇の動きまでが見えるような気がした。
時計の針が気になり目を開けたのは、その声が途切れた時でもあった。
幻想的な世界は一転し現実が視界に開ける。ちょうど五分前だった。
席を立ちカウンターに向かって歩きだしても、置かれた乗車券より声の主に近付くことの方が気になり、つい視線はその顔を捕らえてしまう。するとこちらを見る彼女と目が重なり合い私はじっと見つめ続ける。なぜか何か言いたそうなほどその目は私を引き込もうとしていた。
もちろんそれは他愛もない話でもしてみたいと、一瞬過らせた思いが見せた幻想に違いないことで、現実は世間話をする時間は愚か、何よりもそんなことを許さぬ雰囲気が彼女との距離を妨げてしまうのである。許されているのは自分のカードを手にし、次の教習に向かうことだけだった。
乗車券に押された三号車の印。
(また三号車か・・・・・・)
愚痴にも似た台詞も内心ではほっとしていた。トラックの癖を探るのが減る分、運転や話に集中出来ると思ったからで、今回はいくらか楽に乗れるだろうと、一つ鎖が緩められたゆとりを従え早々と車庫を目指した。乗り終えたばかりのトラックの横で場内を見渡していた私は、ふと先ほど見た彼女の目を思い出している。とても気になっていつまでも残像として揺れ続けた。
「よろしくお願いします」
荷下ろしでもして来た後か、ドライブインでつかの間の休憩の後のように、腰掛けた座席と一体になった。調整不要のポジションも連続して乗るメリットの一つである。
「はい、じゃあ出ていいですよ」
軽い口調の合図で先ほどと同様、外周へと車を走らせる。
「そうしたら南のところを右折してください」
ちょうど一周回った辺りで教官が言う。
「南ですか?」
私は答えながら方向を頭で整理していた。
一度中心にある交差点まで行くよう指示され、信号を左折し再び外周のコースに戻ると、先ほどとは逆の内回りになった。すると、左後輪と縁石との間に目が奪われ、写る映像の中に久しぶりである怖さと懐かしさが同居したせいか、進行方向から一転する景色の楽しみも減った。
特に四つあるコーナーは、開け過ぎず寄り過ぎずの距離、つまりは教官が望ましいとする間を保とうとミラーは多用される。
はじめは直線が短くスピードも出ない内回りが、どうして二時間目なのかと疑問だったが、走って見てなるほどと理解するのであった。
しかし気を遣うのもそこだけ。
数周もすればあとは前回同様で、緊張に至っては遥かに短かく、平凡なコースをただ黙々と周り続けた。正しくは回り続けなければならなかったというほど、逆回りだけでは刺激も少ない。おまけに内回りは一周も短いため自ずと周回数も増える。
飽きていらだちが顔を覗かせたとしても仕方のないことかもしれない。
口にはもちろん出さなかった。
だがそれを紛らそうとしたのか、走りながら視線はコース内にある、様々に形作られた道を眺めている。
以前乗っていたことから、S字でもクランクでも問題なく出来る自信が、かえって災いになったようである。またそれを紛らせてくれるような、個性あふれた教官でなかったのも理由として大きく、会話は上の空に混じり合うだけだった。
きっと終われば判を押すタイプという匂いを教官から感じ取れたので、尚更話も弾まなかったのだと思う。人間とは勝手なものだ。
あれだけ楽しみにしていた教習なのに、今は退屈でイライラしている。運転が散漫になってはと、気持ちを切り替えようと仕切りに何か別のことを考えるよう努めた。
建物付近を走るうち、なんとなく予約席の彼女が浮かび、乗車前に過ったことを思い出したりもしていた。通過しては忘れ、視界に現れると考える。
やがて、見えるかもしれないという意識に駆られ、正面に建物が広がりだすと、らしい場所を探して見たりもした。生憎、もっとも近付く頃には、ちょうど角のコーナーに差しかかるため、視線は反対側のミラーに追いやられてしまい、おちおちとよそ見をしているどころではなかった。何度かそんなことを繰り返していた。
滑稽だと思った。
見えたとして何になるのだと自分に問えば、あまりにも意味のないことで答えを探すまでもない。そう思った途端に彼女は霧のように消え、代わって予約という文字が頭にひらけた。恐らく彼女イコール予約と連想したようである。
思えば良くも悪くも教習を満喫していたせいか、この時間限りで後々の予約は白紙だということをすっかり忘れていた。そして思うように取れなかったあの日の光景が蘇って見えたりもする。
あれから何日経っているのか・・・・。まだ混んでいるのか・・・・。果たして次はいったいいつになるのか・・・・。
目まぐるしく浮かぶことは焦りを煽り立て、周回を続けるだけの教習を余計無駄に感じさせてしまう。走っている時間さえ歯痒かった。
(これが終わったらすぐ予約を取らなきゃ・・・・・・)
気分を切り替えて運転に身が入ったのは、皮肉にもそんなことを考えてからで、気が付けば横で終了印を押す教官の姿があった。
「あの~・・・・4019ですが、予約をお願いします」
「はい」
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