第10話
「おはようございます」
「おはよう。今日もあったけぇなぁ~」
「本当ですね。そういえば島さん、今日でしたよね」
「ああ、わり~けど夕方から頼むよ」
「任せといて下さい。だけど結構楽しみにしてるでしょ。顔に書いてありますよ」
「やっぱり圭ちゃんにはバレちゃうね~。ま、気楽にやってくっから」
小春日和に似た朝がウソのような薄ら寒い長椅子で、取り出したタバコに火を点ければ、煙の中に今朝の一時が浮かぶ。
見た目は冷静を装っても、やはり間際に迫る教習が気になるのだろう。今一つ落ち着けない気持ちを紛らすべく、辺りを見回したりして見るものの、視線はどういうわけだか彼女に向いてしまい、そこが唯一退屈しないで済む場所であるとばかり、何度と無く瞳に映し込んでいる。
少し早めに来たための若干長い待ち時間は、そんなことで消化されて行くが、不思議と仕事のことは頭から消え去って浮かぶことはなかった。言い換えれば、それが圭ちゃんに対する信頼でもあったのだろう。
時計を眺める。
そろそろ出掛けた方が良いかと今度は外に目をやる。コースには数台の教習車がまだ走り続けていた。いくらなんでもまだ早すぎるかとまた時計を見る。
迷っていた。
ギリギリに出て教官より遅かったでは洒落にならないし、何よりあの頃とは違うということを実践しなければならない。そんなことを頭に巡らせているうち、私はすっかり教習原本のことを忘れていることに気づくのだった。
原本とは言わば教習所の控えで、教習を受ける際には手帳と一緒に教官に差し出さなければならず、入所時にもそれを取り出すための札をもらっていたのである。
乗車券のことは頭にあったものの、そればかり考えていたせいか忘れてしまっていた。
初日からとんだ恥を曝すところだったと、彼女のすぐ近くにある置き場へと向かう。まだ時間に余裕があったのが幸いだと思った。
札と言えば古めかしいが、カードと言うには体裁が良過ぎるそれを取り出し、差し込み口に入れると、
ギー・・・・ガッチャン・・・・ギー・・・・。
やや騒がしい音と共に、一つのファイルが手前に押し出されて来る。時に間違えて出て来ることもあると聞かされていたので、引き抜きまず番号を確かめる。
確かに自分のファイルだ。
年期の入った他愛のない構造の機械にしては、なぜか感動さえ覚えると使い込んだ紙製の札を抜きながら思った。
そして今度は彼女のすぐ前に置かれたお手製のバインダーの中を探し、4019と書かれたピンク色の紙を手にする。実技で教官に渡す乗車券である。番号の他、三号車と印が押してあった。
(三号車かぁ~。そういや、須藤はどっちの車が乗り易いって言ってたっけな~)
以前聞いた話を思い出すように、乗車券をファイルにしまおうとすると、モノクロの写真が私の目を奪う。入所時に写した写真が原本に貼られてあったのである。
それを眺めながら先ほどまで座って居た場所に戻ると、もう椅子はひんやりとして温もりさえ消えていた。体を窄め自分の写真を眺めだしても、あまり好ましい写りではなかったため見たのはほんの数秒程度。だが、することがないというのは怖いことで、気が付くとまた写真を見ていたりするのだった。
どうしてこう写ってしまうのかという証明写真に対する疑問が、残り少ない待ち時間を消化させ、時計を眺めた私は手帳と原本をファイルに収める。
(よし。行こう)
何か身が引き締まる緊張が私を外へと足早に運び、真っすぐ大型トラックのある車庫へと向かわせる。緊張を楽しむように歩いた。
コースの北側にある車庫には、出番を待つかに二台のトラックが止められていて、その手前には教習を終えたばかりの教習車がずらりと整列している。間近に見るとどれもまだ真新しく、奇麗に磨き上げられていた。眩しい白の裏に担当の教官の苦労も甲斐見えたりするのだった。
その中、後片付けか次の準備か何人かの教官と顔が合い、頭を軽く下げながら挨拶を交わす。愛想を良くと言うよりは、無意識にしたことであった。
三号車は手前の西側に止まっていた。たどり着いて大きさなどを確かめるように見回し、
「これじゃ~ほとんど四トンだよ~」
と、微笑ましく一言。
確かに屋根前方には大型ならではのスピードランプもあり、ナンバープレートも大きい。しかし、ボディサイズは明らかに四トンのロングと変わらず、四トンの超ロングならこれよりもずっと長いであろう。いつだったかトラックを運転しているときに、実際に信号待ちで並んだ時、
「おいおい、これで大型かよ。大きさなんて変わんねぇじゃんか」
隣の車を見ながら、そんなことも呟いたこともあった。だがそれは乗れない者の戯言だったに過ぎず、同じようなあるいは小さいトラックとて、免許が無ければ乗れないのである。違和感の無い大きさに安心感も増したか、瞳がこれから走る場内へと移った時、チャイムの音が響いた。その直後、
「〇〇さ~ん。〇号車・・・・〇〇さ~ん。〇号車・・・・」
と、優しそうなアナウンスの声が、視界の中に溶け込んで行く。
(あれは彼女の声だろうか?)
他愛もないことを考えていたら、自分の担当者の名前を聞き逃していた。とは言え、聞いたところで面識も無いのだから、どうでも良かったことには変わりがない。
(さぁ、いよいよだぞ)
セカンドバックから口臭スプレーを取り出し、シュッと一吹きすると、良い緊張が口の中に弾け、担当者を探すように建物の方向を見ていた。
渋めのドアは開いては閉じの繰り返しで、次々と人が飛び出し、時々紺色の上着が混じるとその行方を目で追ったりした。段取りの良い数台の普通車が、前を通り過ぎて行く。
一向に現れない教官を待ち、ただ一人立ち尽くしていた。
随分のんびりしてるなと思いながらも、開始から五分も過ぎると、本当にこの時間で良いのかと不安も沸き、乗車券を取り出し確認する。確かに間違いはない。
こちらに向かって歩いて来る教官に気づいたのは、それから五分後だったろうか。
「大型の教習?」
と、遅く来たためか慌ただしいような口調で訊いた。
「ええ。よろしくお願いします」
「え~と、何回か乗った?」
「いえ。初めてですけど・・・・」
「初めてか。じゃあ簡単に説明するから助手席に乗って」
そう言い残し早々に乗り込むとエンジンを始動。植木さんとのやりとりがイメージに残っていたのか、もう少し大人としての扱いを期待していただけに、第一印象はあまり良くなかった。
ガラガラガラ・・・・・・。
ディーゼル特有の音と振動が伝わる中、渡した手帳に一瞬目を通すと、ギアを入れ発進させる。大きなフロントガラスに教習所らしい景色が広がっても、描いていたほどの感動は無かった。たぶん助手席に座っているからで雰囲気はどちらかというと、ツーマンで出掛けた運送屋を連想させたのだった。
半周ほど走った南の辺で教官は口を開いた。
「トラックは運転したことあるかい?」
「ええ。前に四トンに乗ってましたから」
「なら大きさは大丈夫だね?」
「はい」
「最初は外周だけなんで、スピード以外は特に気を付けることもないから・・・・」
やや白髪が目立ち始めた四十後半の教官は、教習所内でもベテランの域に入るだろうか。
走りだしてからの口調は穏やかで、人の良さそうな気配に安心感も芽生え出す。慣れ親しんだ車にしては、ギアが入れ辛いのか力が入る場面が何度と見られ、そのたびにエンジンはうなりを上げる。これから乗ろうという私は、もしや特有の癖でもあるのかと気になって、
「ギアが入れ辛いんですか?」
と、思わず尋ねてしまった。
「ああ・・・・冷えてるとこれが・・・・ん・・・・入んなくってな・・・・さっきまで動いていたんなら・・・・すぐ入るんだけど、教習がなくて止まったままだったから余計だ。な~に、温まればすぐ入るようになるから大丈夫」
やがて車は東側の建物の前を通過して、北側の車庫に向かおうと、緩やかに右カーブを終えた時だ。私の視線はあるものに釘付けになった。
出たときには全然気が付かなかったのだが、普通車の止めてある車庫のトタン屋根の一部が、道路上に突き出しているのである。
これにはちょっと驚かされた。
おまけにそれは高さもない。従って通常のコースを行けば間違いなくトラックの屋根をかすめるからラインを外すのだろうと考えていると、外すどころかそのまま屋根に向かって進んで行くではないか。
(平気なのか・・・・・・ぶ・・ぶつかる!)
景色も何も目に入らず、神経はただ一点に集中させられてしまった。
何事も無かったように通過した後、
「あの屋根は当たらないから、避けないで普通に走って大丈夫だよ」
「いや~なんだか怖いですね~」
「そうだな~。ちょっと慣れないと怖いだろうな。本当はあんなもん走るのに邪魔だし、たいして役してないから、取っぱらっちゃえばいいんだけどな」
「どのくらい余裕があるんですか?」
「計算上は五センチ空いてる訳になってるはずだよ・・・・それにまだぶつけたなんて話もないし」
「五センチですか・・・・・・」
あまりに平然と出る言葉に、余っ程屋根よりも怖い答えだと思ってしまった。
「じゃあ、運転代わって」
車庫を少し通り過ぎた辺りに車を止めると、そう言い残し教官はドアを開け降りて行く。急ぎの荷物でも届けに来たような、あまりに素早い動作だったため、私もつられて飛び降りてしまう。この反応も運送の習慣だったようだ。
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