第6話

「・・・・・・それから一番こちらには大型免許の人でお願いします」



 その声の後、室内は椅子を引く音などでざわめき、徐々にまばらだった人達が規則正しい列に変わって行く。たまたま座った場所が良かった私は、右へ一つずれる程度で済み、そんな人の動きを眺めていた。

 静寂を見計らったように始まる担当者の話を他所に、それまで居なかった斜め前方に座る女性に視線を移せば、私の目を長い髪が奪った。奇麗で鮮やかな髪だった。


 いつしかそれが順番を譲った彼女であることに気づくと、偶然のいたずらかまた私の手前にいることがなんだか面白かった。

 机の上には書類の他、徐に携帯電話が置かれ、ストラップやアクセサリーがジャラジャラと音が聞こえそうなほど付いていて、それがなんとも今風だと、まるで筆箱のように佇む携帯を見つめながら、室内に流れる話に耳を傾けている。


 やがて左に移した視線には、髪を染めた若い男が数人。だらしなく前かがみに座っていた。

 これもやはり今を象徴するファッションとばかり、ダボダボのズボンと服をまじまじと眺めれば、改めて違う世代の中に居る自分に気づくのだった。


 そこへ行くと同じ列の大型の二人は、私を少なからず安心させてくれた。

 いかにも運転手といういで立ちである彼は、恐らくどこかの運送会社で仕事の合間にでも来たのだろうと、背後からその作業服を見つめる。さしずめ仕事の都合で大型免許が必要になったに違いない。

 一番前に座る彼は普段着で、その色合いに若さがあったため、学生か何かとも思ったりもするが、先ほど見た今風とも異なる落ち着きや支度を見ていると、どうやらもう少し年がいってるようだ。


 いずれにせよ、どちらも私より若いことには違いなさそうである。

 つまらぬ詮索の合間にも担当者の話は軽快に流れた。

 思わず感心する話振りの裏で、何回こんな台詞を、繰り返して来たのか考えたりしていた私は、肝心の所以外は耳から耳だった。

実際に聞いていたのは進行という流れに過ぎず、周りの人や室内に掲げられた文字や絵、それと学生に戻ったと思わせる机や椅子の雰囲気を楽しんでいる。


 ある意味、免許の取得で来たことさえ忘れていたかもしれない。

 それほど、かつて見失っていた様々な景色を、ゆっくり懐かしみ楽しむことに、専念してしまっていたのだろう。また悪いことに、そんな良からぬことを考えてしまう余裕も、持ち合わせて来てしまったようだ。

 方や普通免許の人達は表情も硬めで、畏まっているような姿は、リラックスを漂わせる大型の連中とは違う。

 私もそうだったかと、当時を思い出しても見るものの、緊張に包まれた自分の顔はあまりに遠すぎて、彼らの向こうで朧げに揺れるのは、曖昧な記憶でしかなかった。


ピンポン♪・・・・ポンポ~ン♪・・・・。


 どこからともなく聞こえるチャイムの音。それは授業を受けている学生気分を盛り上げるのに一役買っているようでもあった。

 懐かしさを楽しんでいられたのも、十分もあれば充分で、後の大半の時間は退屈で仕方なかった。

 どういう流れで免許を取得するのかと、何度となく聞いたような話は、どうしても新鮮味に欠けてしまうからである。


 それでもまだ大型はいい。学科がないからだ。

 普通車ともなると、こんな机に向かう退屈な時間が何十時間もあり、それが一月の間に散らばっていて何日にどれを受けるか、さらにどれを受けていないと、これが出来ないなどと頭を悩ませたりするのである。

 と言っても免許を取ったら、あの車を買ってあそこに行きたい等と、満ち溢れる夢があれば道程も多少は短く感じるだろう。

 今ここにいる人達も、これから教習がスタートするのかと思うと、他人事ながら大変だとも思った。


「ここでいったん休憩にします・・・・・・」


 担当者の声がほっと部屋に響く。

 退屈から解放された気分と同時に早々と席を立ったのは、一時間も禁煙などと貼り紙された部屋に居たせいか、無性にタバコが吸いたくなってしまったからだった。

 病院、役所、図書館等、あちらこちらで禁煙が騒がれる今にあっても、ここは下にさえ降りれば、至る場所で吸うことが出来、邪魔物扱いにされつつある者にとってはありがたいことでもあった。


 扉を開けた途端、忘れかけていた季節が体を包み、階段を降りて行くほど寒さは増して行った。

 やがて覗いた正面の窓からは、ポツリポツリと数える程度の教習カーが、狭い場内を感じさせないほど悠々と走っていた。

 長椅子に腰掛け吐き出したタバコの煙りは、退屈の溜息でも広がるかのように、辺りに漂って見えた。それがゆっくり消えて行ったかと思うと、あの涼しげな彼女の顔が視線の先に現れる。無意識に座ったようでも、どこか計算したことでもあっただろうか。

 煙をくゆらせながら、眺める彼女の横顔もまた良いものだと思いつつ、またそんな一時は、時間の経過すら忘れさせるような気がした。

 気にもせず眺めていると、気配を感じ取ったのか、スッと黒い瞳が重なり思わず私は目を逸らす。

 後ろめたい気分と同時に、またもやあの不思議な感覚が体に走るのを感じるのだった。


 しかしながら、その目は刺すように冷たくも見えた。


 いずれにせよ、冷めた中にも得体の知れない魅力が存在し、それが目を引き寄せるのだと思った。あれこれと視線の先を移してみても、気が付くとまた瞳の中に彼女が居て、ふと、無意識に好きなものを目で追ってしまう感覚に近いのではないかとも考えていた。

 少し遅れて、見覚えのある服を着た男が、近くに腰を下ろし火を点けた。二階の部屋で前に座っていた運送会社の人だ。彼もまた退屈そうに煙を吐き出している。

 同じ目的を持つ者同士で、先ほどと変わらぬような距離なのに、二人の間には沈黙しか存在しなかった。こんなとき、彼も私を見て何かを考えているのだろうか。


 それにしても、教習所とはなんて静かで孤独な場所なんだろう。

 まるで病院の待ち合い所に居るのではないかと思わせることがある。

 時間を待っているのか、人を待っているのか、教本を見たり予定表を見たり同じ集団、同じ施設の中に居て、それぞれが孤立しているほど、ひっそりと静かだ。

 だからそんな空間にいると、同じ時期に通い出した友達同士らしき会話が、目立って聞こえてしまうのだとも思った。


「よっ!どこまで行った?」

「まだ二段階だよ」

「結構順調じゃん!」

「そうでもねぇよ、なかなか乗れなくってさ」


 今回の大型の教習で三度目になるも、考えたら友達と呼べる人と過ごした経験は一度もない。ある時期から学生というレールから外れてしまったのが原因とも思えた。そうでなければこれだけの期間通う場所ならば、クラスメイトの一人や二人顔を合わせても不思議なことではなく、同じ目的を持つもの同士、そんな話題で花も咲いたことだろうに。

 それがどこか心残りで、また重苦しく孤独を感じさせた理由でもあったようだ。

 もしこれが本当に最後の教習であったとするなら、せめて須藤が通っている間に来るべきだったとも思った。


 人間とは欲深いものだ。


 交じり合っているのは煙るぼやけた白だけで、互いに目も合わず、過ぎて行く時間だけを気にしている。必要がないのか、きっかけがないのか、話好きな私の口ですら、重く凍りつかせてしまうのだった。

共に静かな場所には変わりないにしても、比較的年配の人が集まる病院の方が、会話の糸口は見いだし易いかもしれない。十六、七が中心の教習所は世代の違うことも加味したところで思っている以上に声など掛け辛い場所のようだ。

 壁に掛かった大きな時計は、引き続き行われる手続きの開始五分前を指していた。


 そんな短い時間でもこの肌寒い場所よりは、日だまりのある二階の方がましだと、席を立った私は、突然思い立ったように階段を通り過ぎると、そのままトイレに向かうのだが、なんだか不思議な気分だった。

 誰に訊くこともなく勝手に足が進んで行くのである。入り口の段差も覚えていなかったというのに、なぜためらいも無くトイレの場所がわかるのだろう。

 恐らく、あまりに当時と変わらない建物の中に居たことで、いつの間にかつまらぬ記憶が蘇ったに違いない。そうは思ったものの、歩きながら自分自身におかしさを覚えるのであった。 

 それでもいざ扉を前にすればほとんど記憶が無いことに気づいた。薄暗い雰囲気にしても、入り口同様に存在する段差にしても、全く覚えていなかったのである。

 あるいは直感的に場所を感じたのかもしれないとその時思った。


 気を取り直し渋い色のドアを開けると、建物と共に歩んだ歴史と日当たりの悪さから来るじめじめした湿度と、トイレと言うよりは便所の響きが似合う香りが広がって、真ん中にある手洗い場を挟んで、北と南にそれぞれ扉があった。

 男とも女とも示すマークすらないことから、きっと兼用なのかと南の扉をノックする。


 汚さないように使おうよりは、汚れないように使おうと思わせ、女性では心配になって用も足せないようなカギがお粗末に付いていた。

 どういうわけだか、ふと受付の右の彼女を思い出し、あの子もこの便所を使うのだろうかと考えたら、どうにも辻褄が合わなくて仕方がなかった。

 似合わないと思ったのが原因のようだが、やはり洋風なウォッシュレットで花の香りがする化粧室、そんなイメージが彼女には沸いてしまうのだった。

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