第2話
ザッザッザッ・・・・・・ガチャッ、ガタッ!
「こんにちは」
受付にいる二人の女性の声が私を迎えてくれたのは、昼食が済んで一息ついた二時過ぎ頃のことである。
前回来た時に手渡された月の予定表に週二度ほどあるこの日も、私にしてみれば仕事を途中で抜けなくてはならず、そのまま終わって帰宅するには早過ぎるしと、何とも中途半端な時間に感じた。
職場とこことでは町外れから町外れの移動に近く、車で約二十分も掛かる。それを無駄に往復しなければならないことも面倒に思った。
もっと別の時間にもあるのではないかと、予定表を隈無く捜したりもするが、その時間以外は見当たらなかった。なるべく仕事には差し支えないようにと考えていた思惑は、初めから崩されてしまったことになる。
「──こんちは」
気のないような口調で返し、まばらに空いている長椅子に腰を降ろす。至って自然を装うものの私はなぜか落ち着かなかった。
それは右の女性と目が合った瞬間に走った衝撃で、どうしてこんなに動揺しているのか考えさせるほど、まったくもって不可解だった。
ふと、運命の人に出会ったりすると、よく電気が走ったような衝撃を受けると耳にするが、それは今の私にとってあまりに笑い話にしか過ぎないだろうし、だから尚のことおかしな感覚を抱いたに違いない。
それでも時の経過からいつの間にか気のせいだろうともみ消していた。
徐に取り出したタバコに火を点け、心に秘めた笑いを白く吐き出した。
待つだけの時間が流れた。
季節のわりには比較的暖かい日であったが、日当たりの悪いここでは上着を脱ぐほどではない。
適度な緊張、適度な期待が交錯する中で、例によって辺りを眺め出せば、古くなった壁にはたくさんの感謝状や表彰状の他、それらしい交通安全のポスターが貼られてある。
あまりに年代物であるため、もしかしたら、あの頃にも見たのではないかという気にさえなった。暇に任せあちらこちらに目を通し、一通りすると今度は意味もなく予定表など取り出しては眺めた。
他にすることがなかった。
時々彼女の顔を見る自分に気が付いたのは、いつ頃からだろうか。
後ろめたい気持ちに視線の先を変えたにしろ、何度か繰り返すほどだった。
(どうかしてるのかな?・・・・・・)
普段なら仕事をしている時間に、いい大人がこんなところでのんびりタバコを吹かしている。そんな間の抜けた時間がおかしくさせる原因だとも思った。
それもそのはず、たまに出向く役所か何かであったにしろ、こんな雰囲気ではない。なんだか自分も一人の学生になったような気分さえして来た。
ひっそりとした空気の中に言葉や足音が混じりだし、目の前を慌ただしく通り過ぎて行く教官も増え、周りでは生徒同士の会話で賑わい、気が付けば座る場所もなく立っているものさえいた。
(あ~、こんな感じだったよな~)
時を溯るように何十年前もの記憶が浮かび上がって来る。
すべてが懐かしかった。目の前を異様に底が高い靴が通り過ぎるまでは。
突然らしからぬものでも見たように私の目を釘付けにさせる靴。どちらが正しいなどは論ずることでもないにしろ、どちらかが場違いなのは確かで、重々しい音が床に響いている。
(もしかして、あれで乗るんじゃ?・・・・まさか、いくらなんでもそれはないか・・・・だとしたら、いちいち履き替えるのかな?・・・・というともう一足あるのか・・・・)
他愛もないことで待ち時間は潰れた。
「──それでは本日入所なされる方。こちらに集まってください」
その声を待っていたかのように、カウンター腰の担当らしき教官の前にぞろぞろと人だかりが出来、ゆっくりとした足取りで私もそこに入った。全部で十数人程度だった。
必要書類などを出し少し待っていると、
「え~写真を撮ったりしますが、まず普通免許の人から順番にお願いします。その後大型の人となりますから・・・・そして終わった人から二階の部屋で待っててください」
ザワザワとした人だかりが列に変わる中、後方でのんびりしていた。全体と言ってもこれだけの数である。慌てても大して変わりがないと思った。
人とはいろいろである。
慌てる者もいれば、のんびりする者もいる。自分では最後だろうと何げなく振り返れば、まだ後ろに一人若い女性がポツンと立っていた。
厚かましく中に入れないので待っている。そんなタイプにも映った。
年格好から普通免許だと察し、髪の長い女性に先に行くように譲れば、軽く会釈をして列に並ぶ。その時ちょうど、彼女の洗った髪がさわやかに香り、改めて違う世代の中にいることを知った。
「──島田さん」
「あ・・・・はい」
突然、誰かを捜すような口調で担当の人から呼ばれ返事をすると、
「ちょっとこちらに来ていただけませんか?」
そう話すと、所長の机の脇に立ち手招きをしている。
なんだろうと疑問に思いながらも、所長と話が出来る良い機会とも感じ、人込みの間を擦り抜けて行く。
「何でしょう?」
「ちょっと記入漏れがありましてね。島田さんはゴールドもらってから違反は何もないかな?」
「違反ですか?・・・・確かないと思います」
「ない?なければいいんですよ」
「たぶん・・・・なかったと思うんですけど・・・・」
賢明に記憶を手繰らせて、ぎこちない言い方にもなった。
「大丈夫?大事なことだからよく思い出してよ?」
「大丈夫です」
「それなら・・・・」
そう植木さんが言いかけた時、
「あっ!?」
急に思い当たることが浮かび声を発っすと、
「何かあったかな?」
ゆっくりと顔を上げながら優しい口調で訊く。
「そういえば・・・・シートベルトで捕まったことが・・・・」
「シートベルトかい。あ~・・・・それじゃ次はゴールドはもらえないね~」
と、書類に目を通しながら残念だねと言わんばかりに話した。
ゴールドをもらえないことよりも、普段必ずしているはずのシートベルトで取り締まりになった、あの日の光景を頭に過らせるのだった。
「シートベルトか~・・・・・・」
所長は渋い顔で呟くと何やらしばらく考えていた。その間が不思議でもあった。
「まぁ、その程度のことならいいだろう。じゃあ、ここを無しにしといて・・・・」
開口一番に聞いた言葉もさらに疑問で、言われるまま書類の一部分を訂正してもどうも腑に落ちなかった。そして教習所にそれだけの権限がと考えつつも、これでまたゴールド免許ならラッキーだと、内心得した気分を覚えるのだった。
感じから後の書類の作成か何かがとても面倒だと察した。
「はい。じゃあ良いですよ」
ここで本来は用件が終わるはずも、せっかく所長と話が出来る機会だと思い、
「あの~・・・・植・・木さん・・・・ですよね?」
と、思い切って尋ねた。少しぎこちない訊き方でもあり、周りの教官や窓口にいる女性たちの視線が集まった感じがした。
書類に目を通している所長は、メガネを外しながら私を見上げ、
「・・ええ、そうですが・・・・・・」
と、先ほどとは違う疑問に満ちた顔で答えた。
「実は以前二輪でお世話になったことがあるんですよ・・・・・・もうかれこれ二十年も前のことなんですが・・・・」
「・・・・!?・・・・あ~ハッハッ・・そうでしたか~!」
あまりに予期せぬことだったらしく、目も皺も一緒にさせると、懐かしそうに照れ臭そうに笑っている。
かなりの数に上る教習生を考えれば、口にしたところで到底覚えているはずもないだろうとの思惑も、思わず忘れさせてしまうほどあふれんばかりだった。
私もつられて零した。
筒抜けの話は周りに居た職員達にも届き、手を止め笑い声も聞こえるほど微笑ましい一時に包まれている。
和やかな空気が香った。
遥か遠い教官生活を懐かしむように見ているのだろうと、その細くなった目を見て思った。
そして「そうだったかい」ではなく「そうでしたか~」と発した植木さんの言葉に、自分も大人になったのだという月日の流れを感じるのだった。
「あの~それでは島田さん・・・・写真を撮りますから」
タイミングを計っていたように、仕切られた奥から担当者に声を掛けられた。
「はい・・・・それでは──」
懐かしい対面はわずかの時間であっても、植木さんの緩んだ顔がいつまでも印象的に残り、その時つくづく話して良かったと思った。
所長とのやり取りの時間で、すっかり私が最後になっていて、言われるまま荷物を脇に置き、視力の検査などをしてから写真の撮影へと入る。
時間に追われていたのか、一連の作業にしてもどこか忙しくも感じられた。そのせいか、すっかり植木さんとの和やかな余韻も消されてしまった。
最後は大型免許にある深視力の検査だ。
名前のわりには至ってシンプルな機械で、これもただ者ではないほどの年期が入っていた。
二本立っている棒の間を一本の棒が行ったり来たりするだけで、一,五メートルほど離れた場所から、同じ位置に来たと思ったらスイッチを押して止め、基準値内ならいいというわけである。
(こりゃまた、凄い機械だ・・・・)
「あの~これはボタンを押すとすぐ止まるもんなんですか?」
年代物の機械だから、反応も鈍いのではと心配になって訊くと、
「一回ちょっと練習しますから・・・・・・」
と、スイッチを押し棒を動かしだした。
ギー・・ギー・・・・。
早くもなく遅くもないスピードで、それは行ったり来たりしている。
「じゃあ、試しにボタンを押して止めてみてください・・・・あ、そこに顎を乗せて・・・・」
「・・・・あ、はい」
視力検査のときに載せたような台に顎を載せると、丸い穴の中に見える三本の棒。先ほどは真横で見ていたせいか、改めて所定の位置に着くと、随分と見づらいものだとも感じた。
北の窓から入る低い午後の光りも邪魔をしていた原因だろう。
目を凝らして見つめると、真ん中の棒が離れたり近付いたりする度に、ぼやけたりはっきりと濃くなったりしている。
(なるほど、同じような色合いになった時に押せばいいんだな・・・・よし・・・・)
カチッ!
「はい、そんな感じでいいですよ。それじゃいきますから」
それでもいざ本番となると、うまくいかせようとするためか緊張もする。そして棒を見つめながらこんなことも考えていた。
(たぶん、真ん中の棒を対向車か何かに見立てているんだろう・・・・)
動作音だけが耳に響き、双眼鏡のような暗い中に浮かんだ棒を見つめていると、何だか夜運転しているような錯覚に陥るのだった。
丸く明るくなった部分が、ちょうど車のヘッドライトのようにも見え、映写機のように映像が頭の中に映し出される。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます