はじめてのリスカ

たまごかけマシンガン

はじめてのリスカ

 ママは機嫌を損ねると、いつも何処かへ行ってしまう。パパが居なくなってから、ママは毎日そうしてる。駄目な私を叱りつけて、取り憑かれたように部屋を出るのだ。


 そして最後に一言、言い残す。


「あんた何か産まなきゃよかった」


 それでも私は泣いちゃダメ。泣いたら、もっと怒られちゃうから。それでも偶に泣きたくなる。私はやっぱり駄目だから、我慢できない時がある。そして、やっぱり打たれちゃう。


 今夜もまた、ママの言いつけを守れずに、私はワンワン泣いちゃった。ママは椅子を投げつけて、いつも通り部屋を出る。


 そこで、ふと気になった。ママはいつも何をしているのだろう。私はどうしようもなく駄目な子なので、好奇心に負けて、そっと扉を開いてみた。


 そこには洗面台で腕を切り刻む、ママの姿があった。


「きゃっ!?」


 衝撃でつい、声を出す。ママは此方に気が付いて、ゆっくりと歩み寄ってきた。その手には、赤く湿ったカッターが握られている。私は怒られちゃうと思い、反射的に体を丸めた。


 けれど、私の予想は裏切られた。


「ごめんね……! ごめんね、あなたは何も悪くないのに……!」


 未知の温もりに包まれる。ママは優しい声で泣いていた。こんなママは初めてだ。


「ママは……何をしてたの?」

「ああ、これね。これはリストカットって言って、刃物で腕を切ってたのよ」

「痛くないの……?」

「痛くないわよ。むしろ気分が落ち着くの……」


 私には理解できなかった。怪我をしたら落ち着くなんて、絶対におかしいと思った。けれど、実際に今のママは、とても優しくなっている。


 私は、リストカットとやらに、少し興味を持ってしまった。


——次の日。


 雨の降りしきる昼だった。ママは仕事で今日もいない。私も学校には行っていないので、暇だった。何もやる事がない。


 何もやる事がないのに、何故か焦燥感に駆られている。得体の知れない圧力に、押しつぶされてしまいそうだ。特に理由もなく、常に胸がざわついていた。


 そこで昨日のママを思い出す。


 リストカットをすると、気分が落ち着くと言っていた。こんな見えない苦しみも、綺麗に切れてしまうなら、今すぐにでも試したい。


 私はカッターを取りに行くが、高い場所に置かれていて、とても取れそうになかった。ここまで椅子を運ぶのも、少しばかり面倒だ。


 そこで私は思いつく。


 台所ならリビングの中に組み込まれてるので、十分椅子を運べる距離だ。私はせっせと頑張って、銀の包丁を手に入れた。


 カッターよりも、ずっと大きいが、きっと大きい方が良いに違いない。だって、ママは疲れていれば疲れているほど、より深い傷をつけていたもの。


 私は恐怖も覚えつつ、思い切り腕を斬りつける。


「——痛いっ!!」


 手首から肘にかけて、真っ赤な肉が顔を見せる。途中で離してしまったせいで、包丁は腕に突き刺さったまま、ドクドクと血が溢れ出す。


「痛い!!! 痛いよぉっ!!!」


 痛みで、涙までもが溢れてきた。思考が段々、散漫になり、おぼつかない足で転げ落ちる。床がどんどん染まっていき、それが私に不安を宿す。このまま死んでしまうのでは無いかという不安を。夥しい量の血液が、一気に身体を離れてく。何だか気分も悪くなり、真っ赤な泉に嘔吐する。


 腕の感覚は無くなって、既に痛みも薄れていた。だが、相変わらず血は流れ続ける。止血する為には、この包丁を引っこ抜かなければならない。


「大丈夫……! 大丈夫…………!」


 必死に自分に言い聞かせ、柄の部分を握ってみる。


「いっ!!!」


 少し触れただけでも、鋭い痛みが走り去る。しかも、見た目より、深く刃は刺さっているようだ。


 もう諦めてしまいたい。


 きっと、このまま何もせず、静かに眠ったほうが楽だ。それでも、それでも私は馬鹿だから、死ぬのは怖いと思ってしまう。勇気を出して、一気に刃物を引っこ抜く。


「——————————!!!!!!!!!」


 繊維が切れる音がして、声にもならない声を出す。赤黒い血が噴き出して、またもや気持ち悪くなる。荒い呼吸を漏らしながら、汚れた床に突っ伏した。止血をしなくちゃいけないが、動く体力も残ってない。


 私、このまま死ぬのかな。


——がちゃり。


 玄関の開く音がする。


 扉からママが現れた。


「ママ……助け……て」


 私は靄のかかった視界の中、か細い声で助けを請う。ママは慌てる様子もなく、冷たい視線で見下ろしていた。


 いや、一見彼女は冷静に見える。けれど、瞳の奥には、ドス黒い狂気を孕んでいた。


「そう……あなたも私を置いていくのね……!」

「ママ……?」


 その声は、力強くありながら、酷く震えて怯えている。


と同じように、あなたも私を置いていくのね!? やっぱり、あなたにはと同じ、穢らわしい血が流れてるのよ!!」

「マ…………マ……?」


 ママはフラついた足取りで、床の包丁を拾い上げる。


「それなら、一緒に死にましょう?」


——後日。アパートの一室で、二人の遺体が発見されたそうだ。

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