第15話 賭け事
ここで黙って引き下がるような女であれば、ドゥミモンデーヌになどなっていない。
サロメも例外ではなく、彼女は屋敷を出た頃には冷静さを取り戻していたが、その口から出てきたのはとんでもない言葉だった。
「私の顔に泥を塗ったあの女は、絶対に許さないわ。私の全身全霊をもって叩き潰す」
彼女がこの手のことを言い出すであろうことは予想にたやすかったが、今の彼女は本気だ。
言葉通りイザベラを叩き潰さねければ、傷つけられたプライドは満たされないのだろう。真っ直ぐ前を見つめているサロメの目は、恐ろしいほどに輝いていた。
これは面倒なことになったぞ――とリザは眉間にしわを寄せた。
とは言えそれを口に出さなかったのは、サロメに気を遣ってというよりは、リザ自身思うところがあったからだ。閉じたままの口をもごもごとさせる。
サロメは立ち止まると腰に手を遣った。
「リザ、腹が立つわよねえ?」
「……ものすごく腹が立ちますね」
「ここで私が大人しく身を引くと思う?」
「一切思えませんね」
サロメは振り返ってリザを見た。にっと口角を上げて満足げだ。
「正解! 貶められたまま終わるなんてありえないわ!」
はっきりと言い切るサロメに、リザは苦笑いを浮かべる。リザだって腹が立つことは事実だし、サロメがここで引き下がったりすれ心のどこかで残念に思っただろう。だからサロメが欠片も折れていないことを知って正直嬉しかった。
だがここから何が起こるのかは予想不可能だ。何かとんでもないことが動きだしてしまったかのような、そんな感覚すらあった。
馬車へと向かう道すがら、リザは尋ねてみる。
「それでサロメ様、どうするつもりですか? 叩き潰すって言ったって、具体的には何をするんですか?」
「私は唯一、爵位には勝てない。それは最初から分かりきったことよ。だったら私も爵位を持てばいいだけの話だわ」
「……は?」
「爵位がないなら、爵位を持てばいい。そう言っているの」
サロメは丁寧にも二度言ったが、その部分が訊きたかったわけではない。
「爵位を持つって、どうやって……」
爵位はそう簡単に持てるものではない。基本的には世襲のもので、そうでなければ特別な功績を残した者に名誉的に与えらたりするくらいだ。軍人でもないサロメには難しいだろう。女性の身でありながら後天的に爵位を得るとすれば、後は――。
「――結婚?」
リザははっと顔を上げると、ひとり言のように呟いた。サロメは不敵に頷いてみせた。
「ええ。貴族と結婚して名を継ぐことで、爵位が手に入る」
普通ならそれさえも難しかったはずだ。まず爵位を持つような、高貴な男性と出会うところから始めなければならないからだ。後はサロメの出自にもよるだろうが、庶民であれば結婚までこぎつけることはまず不可能に近い。
リザであればここで手詰まりだったに違いない。しかしリザの前で微笑みをたたえている彼女はサロメ・アントワーヌ――ドゥミモンデーヌだ。
男に恋をされ、囲われることが彼女の本質である。
「サイモンを捨てるわ」
そう言ったサロメはひどく冷静だった。
さっきまであんなに恋人らしく指を絡めていたというのに、サロメの瞳にはもう彼の姿は映っていなかった。
彼女の決意から数日が経って、呼び出されたサイモンがアパルトマンにやって来た。捨てられる、と分かったサイモンがどれほど抵抗したか、リザは忘れることはないだろう。
「金ならある! 僕は君にもっと贅沢させてあげられる! アパルトマンなんかじゃ満足できないなら、パリの一等地に屋敷を買ってもいい! だから僕を捨てるなんて言わないでくれ!」
こんな具合で彼は泣きながら――本当に文字通り泣きながら――サロメの足元でうずくまったまま動かなかった。その日は大粒の宝石をあしらった装飾品やら、革の張られた靴やらを山ほど抱えてやってきたのだが、サロメの対応は冷ややかなものだった。
「ねえ、サイモン。お金で私の愛は買えても、爵位は買えないのよ」
確かその言葉がとどめの一撃だったはずだ。サイモンは目を見開いて、そしてこの世の終わりかとでも思えそうなくらい、愕然としたまま床を見つめていた。
ドゥミモンデーヌの愛は金で買える。その愛を自由にできる。心も身体もすべて得られる。しかしドゥミモンデーヌの欲しているものを与えられなくなった時点で、男性は用済みになるのだ。サイモンもそれはよく分かっていた。
「……でも君がいなくちゃ、僕は死んでしまうよ」
サロメは悠々とソファに腰かけたまま、足をを組んだ。白く細い足首が晒される。
「私はあなたが死んだって痛くもかゆくもないわ」
どれだけ金を積んでも、どれだけ言葉を重ねても無駄だと理解したのだろう。やがてサイモンは一言も発さないままで部屋を後にした。扉の前で名残惜しそうに一度だけ振り返ったが、サロメは紅茶のカップを傾けているところで、視線は交わらない。
ようやく静けさを取り戻した部屋の中で、リザは扉の方を見つめていた。
「あれで良かったんでしょうか……」
ぽつりとひとり言のように呟いただけだったが、サロメは顔を上げた。
「良いも悪いもないわよ。私たちの関係なんてこんなものよ」
「でも、あんなにショックを受けているのを目の当たりにすると、ちょっと……」
リザは顔を背けた。あれほどにこやかだったサイモンが顔を歪めて必死にしがみつき、サロメの機嫌を取ろうとする様が衝撃的だったのだ。そして何より、サイモンに寄りかかって幸せそうに笑っていたはずのサロメが、すげなく追い払っていったことが信じられない。
リザは嫌味というよりも、単純な疑問としてぶつける。
「心が痛んだりとか、そういうことはないんですか」
「……もしかしてあなたは何か勘違いをしているんじゃないかしら?」
カップが置かれる音が静かに響いた。サロメはため息を吐く。
「私はドゥミモンデーヌなの。恋だとか愛だとか、そういうくだらない熱情に振り回さることはないわ。私がほしいのはお金と名声――お金と名声だけなのよ。どんな手段を使ってでも手に入れる。そのために私は生きているの」
サロメの声はやはり淡々としたものだった。
「いっそ清々しくなりますね」
リザは少しだけ笑って、新聞を拾い上げた。サロメが視線で示しているのに気づいたのだ。持ってこいと言わんとしているのも分かっていたので、そっと手渡した。
「……よく分かったわね」
「あなたの使用人になって、もう二か月経ちますから」
リザは口角を上げた。サロメはわずかに瞳を揺らしたが、特に何かを口にするわけでもなく新聞をめくった。文字に素早く目を通しながらぺらりとめくっていく。リザは椅子に腰かけた。
「結婚して爵位が手に入れるっていうのは分かりましたけど、相手はどうするんですか?」
「もう決めてあるわ。問題はどれだけ時間をかけるかね」
「あ、結婚できることは前提で話が進むんですね……」
サロメは新聞をめくり続けていた手をぴたりと止めた。
「この男よ」
リザは立ちあがると、小走りでサロメの近くまで向かった。床に膝をついて覗きこむ。
端に書かれた小さい記事は、フランス軍から尋問を受けたという男のものだった。リザは目を細めながら一文字ずつ追っていった。
「……ロシア出身のバラノフ公爵?」
リザは頭の中で爵位を順番に思いだしていた。一番下から順番に数えていく。騎士から始まり、男爵、子爵――ようやく公爵へとたどり着いたころに、リザは思わず態勢を崩した。
「公爵って、爵位の一番上じゃないですか!?」
「それでも、私の前じゃ一人の男だわ」
サロメは平然とした様子で笑った。相変わらずの自信にうう、と声を漏らしたリザはなおも続ける。
「それにこの記事。軍から尋問なんて、何があったんでしょうか……」
「ロシアに送った手紙でひと悶着あっただけのようだわ。今この国とロシアの関係はあまり良くないから、その影響ね。軍も深く介入はしなかったようだし、この程度なら問題ないはずよ」
「そういえばこの前も言っていましたね。ロシアが何とかって」
「あなたも新聞くらいちゃんと目を通しなさい。……とにかく、公爵は結婚相手としては十分すぎるくらいね。あとはどこで仕掛けるかだけれど、それも問題ないわ」
サロメは新聞を放り投げた。リザは空中でキャッチする。
「公爵は演劇好きで有名よ。劇場にもいくつか当てがあるから、そこで接近できれば完璧ね」
サロメは指先でとんとんとソファを叩いた。考えがまとまったのか、サロメは髪をかき上げて不敵に笑う。今までのリザであれば見惚れていたかもしれないが、リザは新聞を胸に抱いて腰を上げた。
「機嫌がいいのは分かりましたけど、新聞は投げるものじゃないです」
冷静に返されたのが気に入らなかったのか、サロメはむっとした顔で腕を組んだ。
「言っておくけど、あなたも私と運命を共にしているのよ。私が失敗したらあなただって路頭に迷うことになるんだから」
「と言うと?」
「私たち、もうじきこのアパルトマンから追い出されるわ」
サロメは何でもない風に言った。聞き逃してしまいそうなくらい、いつもと変わらない声色だった。窓から差し込んだ光が床に伸びてリザの足元まで伸びている。リザは新聞を両手で掴んだまま、はたと足を止めた。ゆっくりと振り返って首を傾げる。
「…………え?」
そんな話は聞いていない。リザの顔から表情というものが消え失せた。
「アパルトマンから?」
「追い出される」
サロメはやはり平然としていたが、ただ事ではない。リザは目を見開いた。
「なんで!?」
「だってここはサイモンが買った部屋だもの。もう彼との関係が終わっている以上、追い出されるのは当然じゃない」
限界まで居座るつもりだけれど、と付け足した彼女だが、そういう問題ではなかった。
リザはつかつかと歩み寄った。勢いに任せて胸倉を掴み上げたい気分だったが、手を開いたままでぐっと堪えた。しかし口から飛び出してきたのは大声だ。
「なんてことしてくれるんですか、あなたは! とんでもない賭けに私を巻き込むのはやめてもらえませんか!?」
「人生なんて賭け事みたいなものじゃない。それに大丈夫、私、賭け事は得意なの。掛け金の五倍は巻き上げてあげるわ」
「そりゃあ私だって腹が立つって言いましたし、今だってそうですけど……! さすがに冷静にもなりますよ!」
「今さら頭を冷やしたところで遅いわねえ」
サロメはくすくすと笑った。
「私たちには成功か失敗の二択しかないのよ。二人の素敵な未来のために頑張りましょうね」
サロメはこてんと首を傾けた。赤い髪が柔らかに揺れる。煽るような言葉に、リザは新聞をギリギリと握りしめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます