第14話 敗北
何回目かの工房を訪れた日、ジルからドレスが完成したことが告げられた。
ジルはテーブルに突っ伏したまま動かなかった。わずかに顔を上げることもあったが、目の下には青黒いくまがくっきりと刻まれていた。顔色は悪いし、明らかに頬が痩せている。
ジルの師匠でもある店主も同じような状態だったので、リザは立ったまま顔を引きつらせていた。あまりの惨状に何と声をかけていいか分からない。下手な愛想笑いばかり浮かべていた。
まだ体力の残っているらしい店主から試着の話を聞かされたが、そんなことよりも一刻も早く眠ってほしいリザは頷くばかりだった。一通りの説明が終わったところで、すぐにでも退散しようとしたリザだったが、引きとめたのはジルだった。
「今度こそ、あの女を許さない……。次会ったら拳で殴ってやる……」
「簀巻きにしてセーヌ川に流されるのでやめておいた方がいいと思います……」
ジルの口からは呪詛が延々と漏れ出しているので、リザは逃げるようにして立ち去った。
ジルの肉体と精神を犠牲にして作られたドレスが、サロメに身に付けられる日がやって来たのはその数日後だった。
ケルビーニ家の夜会の日は、朝から目が回るほど忙しかった。
いつもより濃い目に化粧をして、いつもより手の込んだ髪のセットをして、ドレスを身に付けさせ、それが終わったかと思えば小物選びに一時間付き合わされて――リザは壁に手を付きながら、はーっと息を吐いていた。
かくして完成したサロメの姿は、リザの苦労さえどうでもよくなってしまうほどの華麗さだったので、リザはもう何も言わないことにした。
夕方になり、貿易商サイモンがやって来たところで馬車に乗りこんだ。
「いつも綺麗だけど、今日は一段と綺麗だね、サロメ」
「あら、本当にそう思っているのかしら?」
「僕が君に嘘が吐けるはずがないだろう。パリで、いやフランスで一番の美人だよ、君は」
「嬉しいわ。ねえ見て、このネックレス。この前あなたからいただいた物なの」
「君がこんなに綺麗なんだから、もっと高いものにすればよかったよ。今度は大粒のトパーズをあしらったものをプレゼントするからね。また君の胸元につけてくれるかい?」
身じろぎするにも狭い馬車の中、隣り合ったサロメとサイモンはきゃっきゃうふふと笑っていた。
熱の冷めない恋人といった風に、お互いの手を握ったり絡めあったりしていた。そして時々肩に寄りかかってみたり、頭にキスを落としたり、頬をつついたり――スキンシップは尽きることを知らない。
「…………」
二人に向かい合う形で座っているリザは、甘い空気にあてられてすっかり黙りこんでいた。しかし唇の端だけはぴくぴくと動き続けている。
何を見せられているのだ、何を。
リザは今すぐ馬車を下りてアパルトマンに帰りたくなった。目の前でいちゃいちゃとしている恋人を見ているときほど、空虚な時間はない。うんざりとし始めたリザが解放されたのは一時間後だ。
「到着いたしました」
馬車の御者が振り返って告げた。リザはぴくっと身体を動かすと、すぐさま降りた。扉を開けたまま待っていると、次にサイモンがゆっくりと降りてくる。豊満な腹が軽く揺れた。サイモンが手を伸ばすと、サロメは彼の手を掴んでやはりゆっくりと降りた。ドレスの裾をつまみ上げるしぐさだけでも女性らしい。
リザは馬車の扉を閉めると、ぱっと振り返った。あたりは薄暗くなり始めていて空のオレンジ色は薄れている。群青のグラデーションの中、半月が空の真上で輝いていた。
サイモンは腕をすっと差し出した。サロメは抱き着くように腕を絡めると、寄り添いながら屋敷の方へと歩きだす。リザは彼らの後ろを無言で歩いていたが、ちらりと見えたサイモンの横顔に覇気はなく、でれでれとしたものだった。サロメを溺愛していることがよく分かる。
屋敷についてまもなく三人は応接間へ通された。時間はまだ早かったが、応接間ではすでに多くの人が談笑していた。
入口から少し歩いたところで立ち止まると、リザはぺこりと頭を下げた。
「しばらくは壁際にいて。あとは外の馬車で待ってなさい。そう遅くはならないから」
「分かりました。楽しんできてくださいね。サイモン様も」
さ、行きましょう、とサロメはにこやかに歩きだした。
リザは壁の方へ向かうと、遠くから一人応接間を眺めていた。応接間には天井からつるされたシャンデリアの灯りが降り注いでいる。闊歩する人々の華やかさには目が潰れてしまいそうだ。リザも劇場で見慣れていたつもりだが、その比ではない。
目を話しているうちに二人は移動していた。サイモンは少し離れたテーブルで見知らぬ男と話していた。サロメもそのすぐそばで時々口を開いていた。
「本当、綺麗なんだよなあ……」
リザはぽつりと呟いた。普段あれほど気まぐれで傍若無人な姿を見せられているというのに、それがどうでもよくなってしまうくらい、彼女は魅力的だ。
リザは背中を壁にくっつけた。耳をすませばやりとりの一部が聞こえてくる。
「――ええ、そうですね。最近はイギリスとの関係も良くなっていますもの。今はロシアへの警戒が第一、ということで意見が一致したのでしょう。敵の敵は味方という言葉はよくできたものですわ。ロシアの南下政策は今でも続いていますのよね?」
サロメは軽く首を傾けた。雑談のように話しているのは時事であったり、政治や外交であったり、はたまた詩や音楽といった芸術だったり――。
サロメはリザが想像しているよりもずっと知的だ。
とは言えサロメに教養があることは知っていた。サロメ普段から新聞や本をよく読んでいるから、いつだったか尋ねたことがあるのだ。
「読み物がお好きなんですか?」
読書中のサロメは少しだけ顔を上げて答えた。
「好きか嫌いかの話ではないわ。これは私にとって必要なことなの」
その時読んでいたのは。プロイセンの歴史の本だったような気がする。リザは意味が分からなくてなぜと訊いた。彼女はあくまで娼婦の立場であり、男性から好かれることが一番大切なことのはずだ。
リザの考えが透けて見えたのか、サロメは少々不機嫌そうに眉を吊り上げた。
「見くびらないで。私はドゥミモンデーヌよ」
彼女は断言した。
「ドゥミモンデーヌには教養がなくてはならないの。知的であることこそが、街の私娼との最大の違いなのだから」
その時は本当の意味では納得できなかったが、今のサロメを見ていると、なるほどと思う。
ドゥミモンデーヌを囲えるのは地位のある男性だけだ。男性たちのハイレベルでウィットに富んだ会話についていけるだけの教養がなければ、そもそも相手にされないのだ。
彼女がその頭に叩き込んだ教養は、しかしひけらかされることなく、ただ当然のように零れ落ちるだけだった。サロメはワイングラスを回しながら話を戻している。
「我が国とロシアの関係が今後どうなっていくのか――それが今一番の関心事ですわね」
サロメ達がテーブルを離れて歩き始めたあたりで、リザも静かに壁から離れた。いつのまにか人も増えていて、夜会らしい華やかな雰囲気が広間に満ちていた。居心地も悪くなってきたことだし、そろそろ外へ退散する時間だ。
広間を出る前にせめてサロメに合図の一つでもしておくべきか、と思ったリザは彼女の姿を探した。ほんの少し移動しただけの彼女はすぐに見つかった。
サロメと、彼女をエスコートしているサイモンは立ち止まっていた。
彼らの目の前には一人の貴婦人がいる。髪を結い上げてシックな花飾りで彩り、流行りのデザインのドレスを身にまとっていた。リザの目でも分かるほどの高貴さだ。横顔も自信に満ち溢れた堂々たる表情である。どうやら貴族の女性らしかった。
「ごきげんよう」
相手の立場を一目で見抜いたのだろう、先に声をかけたのはサロメだった。ふわりと上品な笑みを浮かべている。
「…………」
しかし貴婦人は挨拶を返さなかった。彼女は黙ったままサロメを見つめている。まるで値踏みするような視線だったが、サロメは動じることなく笑みを浮かべ続けていた。
「ご気分が優れないのかしら? あちらのソファで横になるとよろしいですわ」
「……ねえ、あなた」
「? なんでしょう」
ようやく言葉を発した貴婦人に、サロメは表情を伺うように首を動かした。
貴婦人は持っていた扇で口元を覆うと、目を細めた。
「あなた、サロメ・アントワーヌでしょう? あたし知っているわよ。この街のドゥミモンデーヌなのよね。それで――下賎な娼婦がどうしてこんなところにいるのかしら?」
貴婦人は顎をくいっと上げた。
サロメを見下すような冷たい目は、汚れたものでも見ているようだ。
その瞬間、広間の空気が凍り付いたことは言うまでもなかった。
「…………あら」
サロメが口にしたのはたったそれだけだった。温度のない声だ。
身動きすることすら躊躇してしまうほどの緊張感に、リザは指の一本も震わせることもできなかった。足も床に釘で打ち付けられているかのようだ。口元はひきつったままである。それは他の招待客も同じのようで、誰一人として身じろぎしなかった。
サロメの隣に立っているサイモンなど、見ていてかわいそうなほど身体を硬直させていた。瞳だけをきょろきょろとしきりに動かしていて、助けを求めていることは誰の目にも明らかだったが、しかし割って入るだけの勇敢さを持ち合わせている人間はいない。
物音の消えた広間の中で、サロメだけがゆっくりと腕を動かした。
華奢な腕が照らされる。肘が動いて、手が口元にあてられた。濃い赤に彩られた形の良い唇がわずかに開かれた。
ふっと息を吐いて、そして唇の端が吊り上がる。
「名乗りなさい」
サロメが言ったのはそれだけだ。貴婦人は真顔のままで口にした。
「イザベラ・ティエール。ティエール男爵の妻よ」
やはり爵位を持っている。彼女は貴族だ。
貴族とドゥミモンデーヌといえば犬猿の仲である。貴族が表社交界の女だとすれば、ドゥミモンデーヌは裏社交界の女――住んでいる世界が違うから、決して相容れることはない。貴族の男性には愛を注がれるが、だからこそ妻側の女性からすれば厄介で目障りな存在なのだ。
イザベラは勝ち誇ったように扇で仰いだ。
「ここは娼婦のいるべき場所ではないのよ。汚らわしい女は早く立ち去ってちょうだい」
いかに高名になろうとも、真正面から相対すれば爵位に勝つことはできない。
サロメは笑みを浮かべたままだったが、ついに唇の端をピクリと動かした。一度表情が崩れると後は早かった。みるみるうちに顔から穏やかさが失われていく。
「――ティエール男爵夫人、あなたが笑っていられるのも今のうちよ」
それだけ言って、サロメは鋭い視線で睨みつけた。灰色の瞳はシャンデリアの光を受けて、金色にまばゆく輝いていた。まるで蛇か狼のような捕食者の目だ。
サロメの美しい顔がたった一人への憎悪で満ちている。その凄みに彼女はわずかにたじろいだ。サロメの心を燃やしているのは、一人で受け止めるにはあまりにも重い激情なのだ。
「リザ!」
突然飛んできた声にリザは全身を震わせた。反射的に「はい!」と返すと、サロメは視線だけで扉を示した。帰るということなのだろう。リザは足をもつれさせながら駆けだした。
サロメのすぐそばにいたはずのサイモンは固まったままだった。その場から動けずに首だけ回しているので、サロメは一瞥もくれずに歩きだした。
応接間の扉が開いて、閉じる。
サロメはカツンとヒールの音を響かせた。
それはサロメ・アントワーヌが敗北した瞬間だった。
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