第12話 憧れ
仕立て屋から帰ったリザは、真っ直ぐサロメの方へと向かった。
サロメは革張りのソファで読書を楽しんでいるようだったが、扉の音が聞こえたのか顔を上げた。余裕たっぷりに足を組んでいたが、リザがずかずかと近づいてきてくるのを妙に感じたのか、彼女は探るような目つきをした。
「何よ」
「サロメ様に言われて行ったお店、閉店だったんですけど。わざとですよね」
リザは無表情のまま彼女を見下ろした。彼女の白い肌に影が落ちる。使用人が主人を見下ろすなど無礼極まりないはずだが、サロメは叱ることもなく唇に笑みを浮かべた。
「空いていて良かったでしょう?」
リザはその場で頭を抱えたくなった。久しぶりに彼女の理不尽を目の当たりにした気分だ。
「本当に閉店だったら、私、往復一時間の無駄足になるところでした」
「そんなことにはならないわよ。だって住み込みの弟子がいるはずだもの」
「すごく煙たがられました!」
「あの子、客商売には向いていないわねえ」
サロメはくすくすと笑い声を零した。ジルの口ぶりからして面識があるのは分かっていたが、二人の温度差はあまりにも激しくて、なるほど、ジルが迷惑がるのも納得できた。ジルからすれば、サロメの悠々とした態度が一番頭にくるのだろう。
「それで、向こうの返事は? 当然受けてくれるのよね?」
「……当然だと思うなら聞かなかったらいいのに……」
「そこ、しっかり聞こえているわよ」
一通りの説明が終わってから、リザはふっと息を吐いた。
「本当に、閉店なら閉店だと先に言ってください。私にも心の準備というものがあるんです。扉を開けたら交渉する羽目になった私の気持ちを考えたことあります? ないですよね? あったら普通言いますよね、先に?」
「あら、私に口答えしようだなんて勇気があるのね。夜中にここを叩きだすわよ」
サロメがすっと目を細めたので、リザはすぐさま頭を下げた。
「夜中だけは勘弁してください」
ふと気付けばもう夕方だ。リザは軽く会釈だけしてバルコニーに繋がるガラス戸を開けた。今のうちに干しているものを取り込んでおかなければ、すぐに暗くなってしまうのだ。
リザの髪をまとめている白いリボンが風に吹かれて揺れた。今日は少し風が強い。リザは腕一杯に洗濯物を抱えて振り返った。もう薄暗くなった室内で、ぼんやりとしているサロメだけがはっきりと見えていた。
「……ゆっくり話せたなら、それで結構よ」
サロメはひとり言のように呟いただけだった。
え、と訊き返すがサロメは何も言わない。空耳だったのではないかと思うほどの小声で、しかし掠れた声で確かに言ったはずなのだ。水滴のように落ちていったその言葉は、もしかすると聞かせるつもりのなかったものかもしれなかった。
リザは洗濯物を抱えたままバルコニーで動きを止めていた。しかしサロメは視線を逸らしたままだ。リザは諦めて背を向けた。三階のバルコニーからは人の忙しない往来がよく見えた。
その時は訊いても無駄だと分かっていたが、彼女の言葉が気になったのは事実だ。
リザは悶々とした気持ちのままで、再び仕立て屋を訪れた。
「――ってことがあったんですけど、ジルさん、どう思います?」
昼間でも工房には外からの光が入らない。紙にペンを走らせているジルはふと顔を上げた。今日も白いシャツには無数の糸くずがついていた。
「どうせ他の客に邪魔されなくて良かったとか、そういうことじゃないの?」
サロメのことが話題になると、彼の顔は分かりやすく苦々しいものになった。だがそれを抜いたとしても彼の顔色はあまりよく見えなかった。目の下がうっすらとくすんでいる。
今日のジルはデザイン案を進めているようで、進み具合を確かめるためにリザは店に立ち寄っていた。命じられているわけではないが、買い物に出たついでに店を覗いたのだ。
ジルはペン先をくるりとひっくり返すと机を二度叩いた。
「あの女、人の迷惑を一切考慮せずに、最短を行こうとするところがあるしね」
「言いたいことは分かりますけど、あの人の前では言わない方が得策ですよ。多分面白がられています」
「うっわ、その情報が一番聞きたくなかった」
ジルは唇を曲げた。
「あと、ジルでいいよ。あんたの方が年上でしょ。僕は十五歳、あんたは?」
「十七歳です」
「ほら、やっぱり。ついでにその敬語もいらないし」
「ありがとうございます。でもこれはもう癖みたいなものなので……」
「下働き根性が芯まで染みついてるね」
リザはテーブルに置かれたカップに手を伸ばした。紅茶を一口含んで、それからふっと柔らかく息を吐いた。鼻を抜けるフルーティーな香りが好ましい。
「デザインはジルがするんですね?」
軽く身を乗り出して、上下逆さまの紙を上から覗き込んだ。ずっとジルがかじりつきになっているこの紙には、ドレスの大まかな形がいくつも描きこまれていた。そのどれもがスカートの裾の広がった、サロメの要望通りの形だ。
「うちはデザイナーも兼ねているから。いつもは師匠がやるんだけど、今回は全部僕に任せてもらえたんだ。やるからには中途半端なものは作らないから安心してよ」
「私も楽しみです」
「……そう」
ジルは一瞬だけペンの動きを止めるが、また書きこみ始めた。リザはしばらく見守るだけだったが、ふと浮かんだ疑問を思わず口にした。
「ところで、どうしてサロメ様を無下にしないんですか?」
ジルは「ん」と軽く声を零してから顔を上げないまま答えた。
「師匠がこの店を出す時に出資してもらってるから。あとはまあ、金払いがいいし、名が知れてる。それに、あの女はドゥミモンデーヌだから」
リザは繰り返す。
「ドゥミモンデーヌだから?」
「ああいう人間はとびきりの目立ちたがりなんだよ。だから地位のある人が避けるような、新しいデザインのドレスでも喜んで着てくれる。俺たちからすれば新作を持ち込めるいい客だよ」
ジルは前髪をうっとおしそうにかき上げた。
「ほんっとうに迷惑だけどね」
毒づくことは決して忘れないようだ。リザは苦笑してからもう一口紅茶を飲んだ。ジルは頬杖をついた。
「あんたはあんまり愚痴を言わないよね。あの女のこと、迷惑だなあとか思わないわけ?」
リザは薄く唇を開くと、あははと笑い声をあげた。
「そりゃあ、四六時中思いますよ」
「だいぶ思ってるじゃん」
「でもあの人のわがままに付き合うのも使用人の仕事ですから。それに私は、あの人のいいところも知ってますし」
リザは膝の上に視線を落とした。もごもごと唇を動かす。口に出すのはまだ恥ずかしかったが、ジルになら言えるかもしれない。リザは俯いたまま小声で言った。
「なんていうか、憧れちゃったんですよ。あの人に」
ふとした瞬間にいつだって思いだす。初めてサロメに出会ったときの、細められた灰色の瞳と耳元で囁かれた言葉を。真夜中のアパルトマンで「地獄に落ちてもいい」と笑った不敵さを。劇場でリザに失望しないでいてくれた優しさを。額に落とされたキスを。
リザはわずかに赤くなった頬を隠すように顔を逸らした。
「あの人にはなれないけど、あの人みたいになりたいなって思って」
ジルは何も言わなかった。視線だけ上げると、呆気にとられたような彼がそこにいた。
「……よく分からないけど、頑張って?」
「ありがとうございます。大丈夫です、ジルには迷惑かけたりしませんから!」
「そうしてくれると心底助かるよ」
ジルは首をすくめた。
「それじゃあ、今のうちから媚を売っておこうかな」
そう言って、彼が出してくれたのはホットチョコレートだった。視線で伺いを立てて、まだ湯気の立ちのぼるそれをこくんと飲む。
「美味しいでしょ。ドレスの次くらいには自信作」
「媚、売られちゃいましたね」
リザは冗談めかして返した。ジルは頬杖をついたままで笑った。下がり眉で笑うその顔には、いつもの不愛想さはなく、年相応の少年らしいものだった。
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