十三、叡智の天使
アリアは己の不甲斐なさにこれほど歯噛みしたことはなかった。
ぎり、と歯を食いしばりすぎたせいで、口の端から血が滲み、気付かぬ間に白い顔を僅かな赤で汚している。
「あの大きさの獣は初めて見る。もしかすると核をいくつか取り込んでいるのかもしれない」
そうなれば、こちらにとっては不利である。
ナギの救出を最優先とし、いくつ存在しているのかも分からない獣の核を砕かなければならないのだ。
焦りばかりが募って、ソルの頭は今にも爆発しそうな勢いだった。
「……落ち着いてください。私たちには、知恵を授けてくれる黙示録と、何者も見通す水鏡、それから頼もしい焔の精霊が付いているではありませんか」
こんなときに、アリアが軽口を叩くのは初めてだった。
思わず、きょとり、と目を丸くしたソルに、自分で言っておいて羞恥が後から襲ってきたらしいアリアが頬を桜色に染めた。
「な、何です? 少し和ませようとしただけではありませんか」
「いや、別に何も言ってないけど」
「顔に書いているんですっ!」
アリアがイーッと歯を剥き出しにしながらソルに詰めよれば、少年の面影が残る彼の表情が僅かに和らいだ。
「ありがとう。天使さま。おかげでちょっと楽になったよ」
「……まったく」
ふん、とすっかり機嫌を損ねてしまったアリアの横顔に、ソルは口元を緩めた。
アリアが居なければ、無策のまま飛び出してしまっていたかもしれない。
冷静になれたのは、母と彼女のお陰だと未だ早鐘を打つ心臓に落ち着きを取り戻させようと深く息を吸い込む。
「それで? 作戦は?」
「ここは、数を打てば当たるといったものでも試してみましょうか。それとも、どなたか呼び出してみます?」
「叡智の杖か……」
それこそ使ったのは、ヴォルグを呼び出したときだけである。
この場を打開するに相応しい人物は誰か。
ソルの頭の中は、それだけで一杯になった。
ナギの居る位置からも、二人の姿はよく見えた。
何せ、獣に持ち上げられているのだ。
意識を途切れさせては更に足手まといになってしまうため、そうならないように必死で目を開いて彼らを見ていた。
『ナギ』
「ん、」
『まだ動けるかい?』
「……何だ? 俺にまだ何かさせようってのか」
ナギの問いに、因陀羅は静かに頷いた。
『君なら分かるはずだ。アレには複数の核がある』
「ハッ! 女神さまは俺遣いが荒くて嫌になるねェ!」
金色がきらりと瞬いた。
初夏の爽やかな風を思い出す浅葱色の前髪が、まるでカーテンのようにその瞳をそっと隠してしまう。
因陀羅は黙って、彼女の横顔を見つめた。
初めてこの人間と出会った日のことを今でも鮮明に覚えている。
兄の焔に身を焼かれ、全盛期の半分も力を出せなくなった自分に、彼女は言った。
――無理じゃない。お前なら出来る。
あの言葉が、どれほど自分の心を深くふかく刺し穿ったか、きっとこの人間は知らないのだろう。
女神の眷属は、声を殺して静かに笑った。
『退くことは許されないぞ、人間。お前はあの御方から直々に選ばれた勇者なのだから』
狼の形を模した異形の獣はニヤリと口元に弧を描いた。
浅葱の隙間から覗いた黄金が僅かに揺らぐ。
「こんなにお前のことを憎たらしいと思ったのは初めてだよ」
『僕の雷では致命傷を与えることが出来ない。けれど、最大出力をこの距離で浴びせれば、』
「流石に痺れはするだろうな」
合図は要らなかった。
因陀羅が天に向かって遠吠えをする。
波間の空を覆っていた真っ黒な雲に一筋の稲妻が走った。
――ゴォオン!!
稲妻が再び獣を貫いた。
否、正しくはナギを握っている腕を焦がしたのである。
「ぐぎゃぎゃぎゃあああ」
「ったく、汚え声出すなよ! 頭に響くだろうが!」
脇腹に開いた穴を庇うように手で塞ぎながら、ナギは背中から地面に着地を果たした。
ぐいっと首元の衣服が詰まったかと思うと、因陀羅がナギの服を咥えて走り出していた。
「お、おい。一人で動けるって」
『君にはまだ仕事が残っているんだ。こんな所でアレに踏みつぶされて死なれたら困るんだよ!!』
彼の焦った声に視線を上げれば、すぐそこまで獣の巨躯が迫っていた。
「……母上!!」
緋色の閃光が上空を舞う。
ソルが目にも留まらぬ速さで、大聖女に斬撃を加えていた。
けれど、そこに核は無く、瞬時に傷口は塞がってしまう。
「二人とも! こちらに!」
アリアの声に、ソルはナギの身体を担ぎ上げ、走った。
つい昨日まで小さな子どもだと思っていたはずの息子に持ち上げられ、ナギは目を白黒させる。
見上げた先の横顔は、夫であるヴォルグに怖いほどよく似ていた。
「……俺の遺伝子、どこいった?」
血を流しすぎた所為で、意識を保つのがやっとだ。
ナギがぼうっとした表情で己を見つめてくるので、ソルは思わず「はあ?」と眉間に皺を寄せた。
「この瞳の色を見ても、同じことが言えるのですか?」
緋色と金色が左右に一つずつ埋め込まれている瞳でジッと凝視されて、ナギは瞑目した。
「間違いなく俺とアイツの子だな」
「そうでしょうとも!」
くつくつと喉を逸らして笑った息子に釣られてナギも笑みを落とす。
そんな二人を他所に、アリアは冷汗を流しながら彼らを結界の中に放り込んだ。
木の幹に上体を預けるようにして、ナギを地面に下ろしたソルの背中にアリアの怒号が響いた。
「何を呑気に笑っているのですか! もう少しで踏み潰されていたんですよ!」
「ごめんごめん。間に合ったんだから、許してよ」
「許しません! ナギ様がこの世界の『星の核』と知っての狼藉ですか!」
「……すみません」
すっかり尻に敷かれている様子の息子と、初めてまじまじと顔を見た女性天使の姿に目を細める。
「へえ? お前、結構面食いだったんだな」
透き通った白金の髪から見え隠れする瞳の色が見たこともない美しい色合いをしていた。
綺麗な女だ、と素直に感心していると息子が素っ頓狂な声を上げる。
「えっ!?」
「うわ、びっくりした……。んだヨ。耳元で叫ぶな」
咄嗟に耳を押さえながら息子に非難の目を向けると、そこには顔中――否、肌と言う肌を赤くして狼狽えるソルが立っていた。
「い、今どういう状況か分かってます?」
「あのババアをどうやって倒すかって考えてんだろ」
「そうですね! そうですけど、さっきの発言は必要なかった気がします!」
「何、照れてんだよ。そんなにマズイこと言ったか?」
「母上!」
「分かった、分かった。この話にはもう触れないって」
あまりの必死さに思わず笑い声を上げたナギであったが、その拍子に傷口が疼き、その表情が苦悶に染まった。
「ナギ様」
「……平気だ。叡智の杖は?」
「ここに」
天使の手には、女神たちの叡智が詰め込まれたとは思えないほど、繊細な造りの杖が握られている。
「誰を呼び出すつもりですか?」
「直に分かる」
「ですが、母上。僕が父上を呼び出したとき、現界時間は十分と保ちませんでした」
そのような満身創痍の状態で呼び出すのが困難ではないのか、とソルが母親を心配しながら眉間に皺を刻んだ。
「問題ねえ。呼び出すのは、『本人』だからな」
「え、」
「は?」
ソルとアリアの声が綺麗に重なる。
その様を横目に、ナギはクッと喉を逸らして笑った。
「叡智の杖ってのは使用者が召喚者のことをどれだけ『知っているのか』試す道具でもある。それならよく知っている奴を呼べばいいだけの話だ」
「じゃあ、僕が姉上や父上を呼び出したとき、現界が短かったのは?」
「知識だけじゃなくって純粋に魔力の問題だろ。だが、その点も俺には何の問題もない」
ナギは不敵に微笑むと、叡智の杖を地面に突き刺した。
獣はと言えば、ソルに攻撃を受けた個所を押さえながら悶え苦しんでいる。
「――アリスがアリスに命じる。来い! マリア!!」
叡智の杖が今までに見たことのないほど強い光を放った。
思わず瞼を庇うように腕で覆えば、その向こうで「お懐かしゅうございますっ!」と母によく似た活発な声がソルの耳朶を打った。
「重い! こっちは腹に穴開いてんだぞ! ちゃんと確認してから飛びつけ!」
「も、申し訳ありません。ナギ様。再びお姿を見ることが出来た喜びに負けて、つい……」
そこには、ナギと瓜二つの顔をした赤髪の女性が立っていた。
「は、は上がもう一人?」
「おや、アナタは?」
「俺の息子だよ。だが、今は話をしている時間が惜しい。迦楼羅、悪いが傷口を焼いて塞いでくれ」
ナギの呼びかけに、マリアの大剣から焔がにゅっと姿を見せた。
『うっわあ……。これ、塞ぐよりマリアを写し取った方が早いわよ。ねえ、マリア』
「そうですね。内臓の損傷も酷いですし……。どなたか、鏡をお持ちではありませんか?」
マリアの言葉に、困惑しながらも脊髄反射でアリアが水鏡を差し出した。
くるり、と水鏡を掌で回すと、マリアは自身の腹にそれを押し当てて、迦楼羅を呼んだ。
水鏡に焔が宿る。
次いで、その状態の鏡をナギの腹に翳した。
「復元せよ」
熱風がナギを襲う。
先程まで、息を吸うのも苦しかった痛みが嘘のように消えてなくなった。
ふう、と一息吐き出したナギと、その姿を生き写したかのようにそっくりな姿をしたマリアとを、ソルとアリアが困惑の表情を色濃く交互に見つめる。
「ふふっ。そんなに見つめられると穴が開いてしまいます」
「馬鹿言ってないで、さっさと手伝えっての。お前たちも、自分の仕事くらいはきっちり全うしろよ」
パチンとナギが指を鳴らす。
その音を合図に、まずマリアが木陰から飛び出して行った。
マリアにとっては数年ぶりの獣狩りである。
その目は狩人の如く、爛々と猛る炎を隠そうともせずに燃やしていた。
「まずは、四肢の切断。これはマリアの得意分野だから俺たちの出る幕はない」
首を回しながら、ナギが自身の大剣に手を伸ばす。
その言葉通り、あっという間に獣の四肢を屠ったマリアに、ソルは思わず感嘆の息を漏らした。
固い鱗に覆われていたはずの足が切り落とされたことに獣も悲鳴を上げながら、残った根元の部分を使ってミミズのように這う這う逃げる姿に、アリアの顔から血の気が失われていく。
「あのような姿になってまで生き永らえようとは……」
「それがあのババアの厄介なところなんだよな」
「あの獣を知っているんですか?」
今にも嘔吐しますと言わんばかりのアリアの肩を支えながら、ソルがナギに尋ねるとナギは心底嫌そうな顔で舌を突き出した。
「知っていると言えば知っているし、知らないと言えば知らない。記憶に残すのも忌々しい奴だ。お前が気にする必要はない」
「母上、」
「くどいぞ。次は俺たちの番だ。きっちり狙え。しくじったら、お前ごとアイツを穿つ」
「……はい」
これ以上聞くなとナギの目が語っていた。
余程、触れられたくないことがあるらしい。
こういうときの彼女に触るなとは、ヴォルグの言である。
ソルは言われた通りに、いつでも攻撃できるよう聖剣を構えた。
緋色の火柱が獣を誘い込む。
「おら、天使さまもきっちり働いてくれなきゃ困るぜ? 聖剣を預かっているのなら、アンタも一応『勇者』の資格持ちってことなんだからな」
「え」
「惚けてないで、さっさと来い」
ソルとアリアが顔を見合わせたのは、ほとんど反射だった。
金と緋色と紫が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「何だ? 聞いてなかったのか?」
そう言ったナギの顔は子どもみたいに幼く見えた。
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