十二、勇者の背中
ソルとアリアが箱庭に戻ってきて二日後。
異変は起きた。
それまで苛烈なまでに眩い命の輝きを放っていたはずのとある惑星が、じわじわと闇に飲み込まれ始めたのである。
「ソル! 惑星ネアが! 貴方の故郷が!!」
アリアの悲鳴交じりの声に、ソルは取る物も取らずに箱庭の間へと急いだ。
数多の星々の中でも一際輝く一等星。
神々が『はじめて』造った惑星であり、その住まいともなり得る美しい星。
女神サラが最初に創造した星が、ソルの故郷であり、勇者ナギと魔王ヴォルグの守った世界『惑星ネア』だった。
箱庭に来て初めて自分が暮らしていた世界の形をまじまじと見たソルは、その形をはっきりと覚えていた。
たくさんの惑星が浮かぶ箱庭の中で、どんなに遠く流れて行ってしまっても。
その姿だけは一日たりとも忘れたことはない。
そんな故郷が、今。
――暗雲に飲み込まれようとしていた。
「どうすればいい!?」
「獣によるものだと判断いたしました。直に門が開くはずです」
「分かった! 聖剣を……」
「ここに」
アリアの手にはソルが自室に忘れてきた衣服や聖剣が重ねられている。
身支度は完璧だ。
ただ、心の準備だけがどうしても出来なかった。
アリアの言葉通り、十分後には朱色を基調とした時空の門が部屋に出現した。
常であれば、慎重に扉を開けるソルだったが、この時ばかりは違った。
一も二もなく扉を開けて飛び込んだ青年の姿に、アリアは下唇を噛み締める。
自分がもう少し早く気が付いていれば、と。
そんな詮ないことを思ってもあとの祭りである。
出発前にソルから半ば強引に押し付けられるような形で渡された聖剣の柄をそっと握り込む。
「どうか無事でいてください」
脳裏に浮かんだのは、一度だけ見たことのある彼の魔王陛下の姿だった。
祈るような気持ちで門を潜る。
ソルが美しいと言っていた波間の空は見る影もなく、深海のように底が見えない真っ黒な波に覆われた空に、アリアは固唾を飲んだ。
少し先を歩くソルの背中へ何と声を掛けたら良いのか分からず、呼び止めようと伸ばした手が宙を彷徨った。
「……聖剣が熱い。近くに獣がいるのかも」
きっと、今すぐにでも駆け出したいのだろう。
ソルの目が怒りで真っ赤に染まっていた。
「行こう」
言われるがまま、アリアは彼の後ろに続いた。
気遣うはずの言葉が喉にへばり付いて、音になることを拒む。
重い空気のまま、二人はピリピリと肌を突き刺す殺気を浴びながら、先へと進んだ。
ソルの目的地はただ一つ。
家族の暮らす魔王城である。
「なんだ、これ」
水晶で造られた美しい白亜の城は見る影もなかった。
隕石でも振ってきたのか、と思うほど、あちこちが崩れ、穴の開いた城に、ソルの表情が強張る。
「黙示録。生存者の確認を」
アリアが震えながら、黙示録に命じた。
『是。城の中に生物反応は検知できません。北東にある丘に多数の魔力を検知しました』
北東の丘といえば、魔界樹の立つ丘である。
ソルは、そこに何があるのかを思い出してハッとした。
「きっと、アスモデウスが結界を張っているんだ。そこに行けば皆に会えるかも……」
父王の右腕である魔族の名前を紡ぎながら、ソルは歩を速める。
その声には、僅かばかりに生気が戻っていた。
不安に囚われていた表情も、血の色が戻り、常の溌溂としたソルに少しだけ近付く。
「急ぎましょう」
「うん!」
マモンは口元に付いた血を乱暴に拭った。
その背中には気絶して動かなくなった主君がぐったりと背負われている。
「師匠ーッ!!」
今はここに居ないはずの声が聞こえてきた。
遂に、幻聴を聞くほど自分も参ってしまったのか、とうんざりしながら、ヴォルグを担ぐ腕に力を込める。
「マモン師匠ってば!!」
「う、おっ!? ソ、ソル様!!」
ぐい、と腕を引かれて、危うくヴォルグを落としそうになったマモンだったが、その腕を引いた者が誰かを見咎めると、疲労に染まっていた表情がパッと華やいだ。
「陛下! 陛下、起きてください! 気絶している場合ではありませんよ! ソル様がお戻りになられました!!」
背負っているヴォルグに声を掛けるも、彼は低い声で「うぅ……」と唸ってみせるだけで、反応は乏しくない。
「ひとまず、魔界樹の丘へ向かいましょう。アスモデウス様とルナ様が結界を張っているはずです」
「……母上は?」
マモンはソルの問いに応えなかった。
それが、何を意味しているのかを考えたくなくて、魔界樹の丘までただ静かに歩みを進めた。
「ソル!」
弟を迎え入れたルナの眦には涙が浮かんでいた。
魔界樹の下には多くの人々が集まっており、その中に母の姿を探すが、やはりナギの姿は見当たらない。
「……アリア」
「はい」
「ネアの星の核って、もしかして」
「……貴方の御母堂であるナギ様です」
常であれば、『星の核』が何かを探るところから始めるはずのアリアが、はっきりとそう告げた。
薄々と感じ取っていた嫌な考えが冷気となってソルの身体に纏わりつく。
「知ってたの?」
ナギが、この惑星の『星の核』であることを以前から知っているような口ぶりだった。
独特の色彩を持つ双眸が、ソルとルナ、魔界樹の前に立つすべての人々を見通すように、澄んだ輝きを持って煌いた。
「一等星の核になり得るものは、以前から把握していました。けれど、一等星に自我を持った獣が現れた記録はなく、どこかで安心していた自分がいたのです」
私の失態だ、とアリアは深々と頭を垂れた。
予測できていれば、あらかじめこの地に降り立ち、危険を伝えることも出来たかもしれない。
血が滲むほどに強く下唇を噛むアリアの姿を見て、ソルは思わず隣に立つ姉を見遣った。
「姉上」
弟の呼びかけに、ルナはちらと一瞥を返した。
「貴女が責任を感じることはない。母上は、獣がここへ来ることに気付いていた様子だった」
ルナの言葉に、アリアは「え、」とか細い声を漏らした。
「母上だけじゃない。父上もアスモデウスに城の結界を強化しろと言っていた。それが三日前のことだ。こんな偶然があるわけない。二人とも、獣が来ることを知っていたんだよ」
月の名を冠する双子の姉は、アリアを咎めることなく、むしろそのか細い肩にそっと掌を重ねた。
「それでも自分に責があると言うのならば、私の――私たちの星を守ってほしい。そのための『勇者』だろう?」
その言葉は、アリアだけではなく、ソルの胸も深く穿った。
血の気の多い姉がここまで冷静にしていられる理由はたった一つ。母であるナギの身が無事なことを確信しているのだろう。
ルナがそう判断した、というだけで、ソルの身を覆っていた不安は嘘のように晴れていった。
「母上の居場所がどこか分かりますか?」
「アスモデウスが城の中庭に大掛かりな結界陣を張っていた。母上のことだから、きっとそこに獣を誘い込んでいるはずだ」
ソルは力強く頷いた。
先程までの逼迫した様子は露ほども感じられない。
鬼気迫る殺気はそのままに、ソルはアリアを伴って魔王城へと急いだ。
しつこいなァと幾度目になるのか分からない溜息をナギは瓦礫に潜みながら小さく吐き出した。
本当にしつこい。
もはや『人間』と呼ぶことも出来ない悍ましい姿で、城のあちこちを薙ぎ倒しながらナギを追ってくる大聖女を見て、ナギの額に青筋が浮かんだ。
この中庭は、魔界に来てから特に思い出深い場所である。
出来ることなら、あのようなバケモノをこの場に誘い込むことはしたくなかったのだが、ここまできて背に腹は代えられなかった。
「ったく、しつこい奴はモテないっていうのは迷信じゃなかったらしいな」
大剣を片手に、瓦礫の頂上へと駆けのぼったナギの姿を、歪な眼が捉えた。
「ソコにいたのカ、なギ」
呂律もままならず、口からは大量の涎が垂れ流しになっているトカゲのような姿のそれが『大聖女』の今の姿だった。
「これ以上、城を壊されるわけにいかねえからな。用があるのは俺一人なんだろ? さっさと掛かってこいよ」
二頭の獣が、中庭で対峙する。
黄金の眼をギラギラと滾らせたナギが、深く息を吸い込んだ。
的がデカいのはいいことだ。
ナギの大剣がこれ以上威力を発揮できる場面はまたとない。
グッと足を踏み込み、大剣の重力に身を任せる。
「死ね!」
二階の高さと変わらない瓦礫の頂上から飛び降りたナギの身体は、吸い込まれるように大聖女の身体へと落下した。
肉を断つ衝撃がジンと手首を伝って、頭の先まで雷のように駆け抜けていった。
「そンなもの、こワくもナンともないワ」
「だろうな」
手応えはあった。
骨を穿っている感触が柄から感じられる。
けれども、ナギの表情には苦悶の色が広がっていった。
大聖女の鋭利に尖った尻尾が、彼女の腹部を貫通していたからだ。
「お前ら、腹ばっかり狙うなよ。地味に痛ぇんだぞ」
うえ、と吐血しながら悪態を漏らすナギに、大聖女の目が丸くなる。
「そのじょうたいで、まだはなせるのね」
「……おかげさまでな」
「やはり、チヨがおまえをつれてもどったとき、ころしておく、べき、だった」
トドメを与えるために、尻尾をより深く突き刺そうと大聖女が身じろいだ――そのとき。
「母上ーッ!!」
ソルの怒号が辺りを震わせた。
その出で立ちは、かつて人間界へ自身を迎えにきたヴォルグの姿を彷彿とさせた。
「お前らは揃いも揃って、登場が派手だな」
くくっ、と喉を逸らして笑いながら、ナギは大聖女の身体に突き刺していた大剣を引き抜いて、力任せに尻尾を斬り飛ばす。
「ギャア!!」
汚い悲鳴を合図に、ソルが駆け出した。
その手には、女神の加護を受けた聖剣が握られている。
「アマテラス!」
「まかせて!」
ソルの声に、アマテラスが応える。
聖剣は今までに見たことのないほど、激しい炎を纏っていた。
身体の中に直接炎が流れ込んでくるかのように、全身が熱い。
ソルは肺いっぱいに空気を満たすと、全神経を剣先に集中させた。
「母上から離れろッ!!」
尻尾を斬られた痛みで、大聖女はソルが迫っていることに気付くのが僅かに遅れた。
その一瞬をソルは見逃さなかった。
ゴウ、と神の焔がその軌跡を美しく朱に染める。
「グ、あ、ああア!」
歪んだ悲鳴が宙を舞う。
切り落とされた前足が、無残な姿で地面に口付けを落とした。
「遅くなりました」
「誤差だ誤差。気にするな」
よくあることだから、とナギは笑った。
それに対して、ソルは苦い顔を返す。
「こんなこと、よくあっては堪りません」
「無駄口を叩く暇があるなら、さっさとアレを殺す算段をつけろ。放っておいたら、無限に再生するぞ」
ナギの言葉に、ソルは自分が今しがた斬り伏せたばかりの相手を振り返った。
「きゃ、」
勇ましく突撃したソルのあとを追ってきたアリアが悲鳴を上げる。
「アリア!」
ソルが慌てて彼女の方へと駆け寄ろうとするも、大聖女がそれを許さなかった。
二人を阻むように大きく身体を震わせた大聖女が、しゃがれた声でナギをなじる。
「きさま! きさま、よくもわたしに、にどもキズを!」
「……二度? たった、二度で済むと本気で思っているのか? 俺はお前を殺すまで、この剣を振るうことを止めるつもりはないぞ」
たとえ、自身が朽ち果てる運命でも。
ナギは穴の開いた箇所を左手で押さえながら、柄を握る手に力を込めた。
この女と対峙するのはこれで三度目だった。
「三度目の正直ってやつだ。今度こそ、冥土に送り届けてやる」
そこに立っていたのは、勇者と呼ぶにはあまりにも苛烈な光を瞳に宿した手負いの獣だった。
ははうえ、とソルの声が音を象るよりも先に、ナギが動く。
彼女が動くたび、彼の王を彷彿とさせる紅が地面を汚した。
「構えろ、ソル。聖剣の扱い方を教えてやる」
立っているのが、やっとなほどの致命傷だ。
それでも、ナギは己を奮い立たせていた。
息子の前で無様に倒れるわけにはいかない、という僅かばかりの矜持と、自分を庇ってボロボロに傷付いた夫の姿が脳裏に浮かぶ。
「因陀羅。俺に女神の雷を貸せ」
ナギの大剣から紫色の雷が溢れ出した。
次いで、彼女の周りを靄のように漂っていた不安定な魔力が、白銀の狼に姿を変える。
『今のナギだと二回が限界だよ』
「充分だ」
『でも、』
何かを言いたげにソルとナギの顔を交互に見つめた因陀羅に、ナギは首を振った。
「因陀羅」
女神の眷属である彼の名前を、優しく紡ぐ。
すると、彼はナギの意思を汲んで、それっきり口を噤んだ。
「母上」
「……一度しか教えない。よく見ておけ」
鈍痛が全身を駆け抜けていく。
ナギはグッと歯を食いしばると――深く息を吸い込んだ。
頭の先から、爪先まで、全身に流れる血液に意識を集中する。
瞬きするほどの短い時間で、大剣から溢れている紫電の感覚を掴んだ。
「いくぞ」
血が滴り落ちる腹の傷から手を離し、両手で剣の柄を握った。
べっとりと柄にこびり付いた己の血液に、ナギの顔が曇る。
「我、女神の一撃を以て、天罰を下すものなり」
――ドォオオオンッ!!
落雷の音が地面を抉った。
ナギの髪が静電気を纏って、バチバチと不穏な音を奏でる。
両手に握られている大剣が稲妻のような光を発し、今にも弾けそうな危うさを孕んでいた。
「母上」
ソルの声が、ナギの背に届く。
けれど、ナギは振り返らなかった。
「――《聖なる雷》」
告げると同時に、ナギの身体は高く跳躍していた。
ただ一点、大聖女にのみ、その視線が注がれる。
天から放たれた矢の如く、ナギの身体は稲妻を纏って獣を貫いた。
粉塵が辺りを覆って、視界を遮る。
ソルは必死で、母を探した。
「ソル!」
アリアがソルの肩を掴んだのと同時に、獣が耳障りな悲鳴を上げたのが分かった。
「ゆるざぬ! ゆるさぬぞ、ナギィ!」
再生したばかりの大聖女の腕に、ぐったりと力の抜けたナギが握られているのが目に入る。
腹の奥底から、どす黒い何かがせり上がってくるのが分かった。
今すぐにでも駆け出して、醜い獣から母を取り返したい。
けれども、ソルにはそれが出来なかった。
金色の双眸がギラギラと灼きつかさんと言わんばかりの鋭い光を宿して、ソルのことを凝視していたのである。
ナギは瞳だけで息子を制してみせた。
勇者としてのあるべき姿を見せるために、彼女は敢えて真っ向から獣に向かって行ったのだ。
己が身を犠牲にしてでも、守りたいものが彼女にはあった。
「……ナギ様の放った渾身の一撃を以てしても、致命傷にはなっていません。やはり、雷では威力が、」
アリアの震える声が、耳にこびり付く。
ソルは下唇を強く噛み締めた。
悔しいが、今の自分では母のような一撃を獣に与えることは出来そうにもない。
このままでは、ナギはゆるやかに死を迎え、彼女の死と同時にこの惑星も消滅の一途を辿ってしまう。
「――そんなこと、させない」
ヴォルグによく似た声がナギの鼓膜を震わせる。
「……くはっ」
「なにが、おがじいっ!」
「っせえなぁ。大人しく、死に際の文句でも考えとけよ。クソババア」
息も絶え絶えになりながら、ナギは喉を逸らして笑った。
優しくて、泣いてばかりの子だと思っていたが、根っこは父親にそっくりらしい。
人間界にナギを迎えに来たときのヴォルグと全く同じ顔で、殺意に燃える目は絵画のように美しかった。
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