十一、生成り

 久方ぶりの娘との会話を十分に堪能すると、ルーシェルは天界へと戻っていった。

 その横顔は今まで見た中でも、とびっきり穏やかなそれで、まるで絵画の一枚でも見ているようだったとソルは密かに見惚れてしまった。

 天使と名の付く者は総じて美しい。

 改めてその事実を突きつけられた気がした。


「ソル」


 朝を告げる鳥のような清々しさを纏った声が、自分の名を紡ぐ。

 金色のカーテンを引いた夕闇のような、金色の中に紫を閉じ込めた宝石のような、淡い色合いの双眸がソルを見つめていた。


「はい」


 いつの頃からか、はっきりとした時期は忘れてしまったが、アリアはソルに敬称を付けることを止めた。

 ソルもまた彼女に倣ってアリアを名前で呼ぶようになった。

 互いの名を呼ぶたびに、煌びやかな輝きを持ってそれは反響を繰り返す。


「あなた、の好きなものは?」

「ぶっ」


 今日日子ども同士でももっとマシな会話の始め方をする。

 ソルは堪えきれずに零れてしまった笑い声を拾い集めようと無意味に空間を手で掬うとそれをそのまま口元に添え、これ以上声が漏れないように細心の注意を払った。


「何か?」

「い、いえ。何でもありません。あー、好きなもの。でしたっけ?」

「ええ」


 アリアにとっては、父の言を守ろうとするべく至極真面目に言動をとっただけに過ぎないのだろう。

 それが、また斜め上のおかしな方向から切り出しているだけで、本人に悪気はないのだから質が悪い。

 すう、と深く息を吸い込むことで落ち着きを取り戻すことに成功したソルは、自身の好きなものについて頭を悩ませた。

 一番に好きなものと言われたら、間違いなく『家族』と答えることが出来る。

 けれど、それは何故か求められているものとは違う気がして、ソルは首を傾げた。


「……故郷の、黄昏の空が、」

「黄昏?」

「はい。僕の故郷では空が波間に、大地が空になっているという話を以前にしましたよね? 黄昏色に染まった波間の空が一番美しく、波が揺れる様子は黄昏色の焔が揺れているようで何とも言えない気持ちになるんです」


 瞼を閉じれば、鮮明にその光景が思い出される。

 特に、ソルは初めて見た黄昏の空が一等好きだった。

 ナギから聞いていた波間の空を目の当たりに出来た喜びもひとしおであったが、その空が蝋燭の焔が揺れるような淡い色合いで揺れる景色は言葉では言い表せないほど美しく、ソルの心を奪って離さなかった。


「天使さまは?」


 予想外にしんと静まり返った空気に耐え兼ねて、おどけた様子でアリアに質問を返すと彼女は銀色の睫毛を伏せて「ん」と小さな声を漏らした。


「…………分かりません」

「え?」

「好きなもの、という言葉の意味は分かります。けれど、私の抱くこの想いが本当にそうなのかと聞かれると『分からない』のです」


 陶磁器で造られた人形のように無機質な顔と、感情の一切籠っていない声でそんなことを言うものだから、ソルは何と返事をするのが正解なのか分からずに固まってしまった。


「ソルが言う『何とも言えない気持ち』が、私には分かりません。それはどういったときに感じるものなのですか」


 知を司る天使が発するものとは思えない質問だった。

 ここに神がいるのであれば、何故人間に関する情緒や機敏などといったものを彼らに与えなかったのか、と問い詰めたい気持ちに苛まれながら、ソルはアリアの顔を黙って見つめ返す。

 惑星セラで、彼女は言った。

 情というものは形に現せないものだと。

 では、もし形に表せるものだとしたら。

 ソルの胸に燻り始めたよく分からないこれを見せることが出来れば、アリアはそれを理解してくれるのだろうか。


「言葉にするのは難しいけど。そうだなぁ。例えばだけど、それが人であったり、物であったり目に見える形のものだとするでしょ? それを見ていると、心が凪いで穏やかな気持ちになるんだ」

「心が凪ぐ」

「うん。あ、でも、他にも思うことはあるよ。胸やお腹の辺りにほわーって感じであったかいのが広がっていくような感覚になったり、見ているだけで涙が溢れてきたり、人によって色んなことを感じるんじゃないかな」


 ぽつぽつ、と慎重に言葉を選ぶソルの話を、アリアは彼の紡いだ言葉を繰り返しながら真剣な面持ちで聞いていた。

 次いで、何を思ったのか、再び「ソルは?」という質問を繰り出す。


「え、僕?」

「はい。貴方が思う『何とも言えない気持ち』を知りたいです」

「えー……」


 最近のソルの一番好きなものといえば、眼前に鎮座している天使その人である。それに対する想いを本人に告げろというのだから、生殺しもいいところだった。


「聞いて、どうするのさ」

「どうする、とは?」

「僕の好きなものに対する想いを聞いて、天使さまは何がしたいのかなって」


 これに対して、今度はアリアが硬直する番であった。

 びしり、と文字通り固まってしまったアリアに、ソルが二、三度瞬きを繰り返す。


「……アリア?」


 箱庭に帰ってきてから初めて名前を呼んだ。

 硝子玉の中に、ソルが好きな黄昏と宵闇を煮詰めて溶かし込んだかのように美しい金色と紫の色を併せ持つ瞳が銀色のカーテンにゆっくりと隠される。

 それから、弱弱しい声でもう一度。


「わかりません」


 アリアはそれだけ言い残すと、音も立てずに翼を広げ、その場から立ち去ってしまった。


「な、何だよ、それ……」


 泣きたいのはこっちである。

 睫毛を伏せて、今にも消え入りそうな声で所在なく「わかりません」と呟いたアリアの声が、何度もソルの頭の中で反響を繰り返した。



 魔界はもう直ぐ秋を迎えようとしていた。

 丁度、今時分の頃だ。

 ヴォルグと一緒に最後の戦いへと臨んだのは。

 

 穏やかに流れる波間の空をぼうっと眺めながら、ナギはかつてのことを思い出していた。

 息子のソルが女神に誘拐されてから、もうすぐ一年が経とうとしている。

 狭間の異界に連れ去られているのだとしたら、こちらとは時間の流れが違うかもしれないが、少し前に召喚されたヴォルグの話から察するに、ソルの外見に変わった様子はなかったということだから、それだけが唯一の救いだった。


「ナギ」


 夫の声に、ナギが気怠そうに後ろを振り返る。

 自分の心だけが筒抜けになっているこの状態は面白くないが、自分が沈むと溺れるより早く彼が迎えに来てくれるのが少しだけ可笑しかった。


「んだよ」

「……大丈夫。あの子は上手くやっているよ」

「そんなことは分かっている」

「なら何がそんなに心配なんだい?」

「異界は特殊な場所だ。時の流れが少しでも変われば、戻ってきたときの時差で気が狂いそうになる」


 それはナギが実際に経験したことでもあった。

 まだ子どもで魔界に降り立ったことのないソルやルナは何の問題もなかったが、戻ってきたばかりの頃のナギは時空の歪みと魔力の差異に悩まされ、一週間ほど眠れない日々を過ごすことになったのである。


「あんな思いをするのは、俺一人で充分だ」


 グッと奥歯を噛み締めて苦い顔をしたナギに、ヴォルグは眉間の皺を深くした。


「そんなことにはならない。そうなる前に、ソルを取り戻せばいい」

「……ルナが言っていただろ。アレは一度やると決めたら最後までやらないと気が済まない。始まりは強引だったかもしれないが、選んだのはソルだ。俺はその選択を無碍にはしたくない」

「そう言う割に、毎回ここで黄昏るんだよね。君は」


 ここはヴォルグの仮眠室を兼ねた資料室だった。

 夫婦二人で公務から逃げ出す際には決まってこの奥まった資料室に足を運んでいることを多くの臣下が承知していたが、彼らはいつも優しく目を逸らしてくれている。おかげで、ヴォルグとナギはこの部屋と寝室の中で居る間だけ穏やかに過ごすことが出来た。


「もうすぐ、冬になるね」


 ぽつり、とヴォルグが囁いた。

 ナギはそれに黙って頷くと、はらはらと降り始めた柔らかい新雪に手を伸ばす。

 無垢な雪はナギの掌で踊って、やがて水へと変わった。

 雪だったものをギュッと強い力で握りしめる。

 窓を閉めて部屋の中へ戻ろうとしたナギの背後で何かが蠢いた。


「ナギ!!」


 ヴォルグの怒号がナギの耳に届く。

 反射で大剣を抜いたナギの眼前で『ソレ』は笑っていた。


「お久しぶりね、ナギ。やっとこの場所に来ることが出来て、本当に嬉しいわ」


 耳障りな声だ。

 直感的に感じ取った嫌悪は間違いではなかった。

 ナギの、記憶の中にこびりつく、嫌な声。


「大聖女……ッ」


 黒い影が鋭い槍の形となって、ナギの四肢を貫いていた。

 大剣を握っている手に力を込めるも、貫通している影の所為で、上手く力が入らない。


「彼女を離せ」


 今、魔法を放てばナギも怪我をしてしまう。

 ヴォルグは険しい表情でナギが『大聖女』と呼んだ黒い影を睨みつけた。


「そう言われて、誰が『はい、どうぞ』と渡すものですか」

「聖アリス教会の人間はどうにも傲慢でいけない。それは、お前のような獣が気安く触れていい女性ではないと言っているのが分からないのか」


 ヴォルグの周りで稲妻が火花を吹いた。


「元はと言えば、これが我らを裏切り、貴様に懸想をしたのが全ての間違いだったのだ。私がこんな醜い姿になったのも全て」


 これの所為だと、ソレはナギを床に何度も打ち付けながら繰り返した。

 その度に、ナギの身体から血が噴き出し、床を汚していくものだから、ヴォルグの血管が今にも切れんばかりに額に太く浮かび上がる。


「離せと言ったのが聞こえなかったのか」

「嫌だと言っているでしょう」


 会話にならない。

 ヴォルグは、心の中で盛大に舌打ちを零すと、痛みに顔を歪めるナギに視線を送った。

 雷属性の耐性は多少付いているはずである。

 ごめんね、と苦笑を浮かべてから、指をパチンと鳴らした。

 黒い稲妻が一瞬で部屋を支配する。


「ってえな!! 雷落とすなら、落とす前に言え!」

「えー? 合図に気が付かない君が悪いよ」

「むかつくーッ!!」


 雷の衝撃で、影は散り散りになったようだった。

 ひとまずは撃退できたことに安堵した二人であるが、その表情は未だに強張ったままだ。


「僕が呼び出されたときに倒した獣が言っていたんだ。『俺を殺せば、マザーが気付く』と。やはり、アレは大聖女のことだったのか」

「だろうな。あのババア、殺したとばかり思っていたが、獣に成り果ててまで俺を殺したかったらしい」


 今はもうない左胸に咲く白薔薇が酷く疼いた。

 ヴォルグの眷属へと変貌を遂げたお陰で、ナギの身体に醜く花開いていた白薔薇の紋章――聖アリス教会の一員だったことを象徴する忌まわしい爪痕である――は魔界の魔力によって跡形もなく消えていた。

 グッと、左胸部分の服を力強く握ったナギに、ヴォルグの顔も曇る。


「ナギ」

「分かっている」


 大聖女がここに来たということは、近いうちにソルもこの場所へ戻ってくるということだ。

 嫌な予感が冷汗となって背筋を流れ落ちていく。


「……今度こそ、冥土に送ってやる」


 とても元・勇者が吐いた言葉とは思えない物騒なそれを呟くと、ナギは魔王を引き連れて、今度こそ部屋を後にした。

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