九、蕾の守り手

 水鏡に映り込んだ『世界樹の新芽』には、自身が探し求めていた人物が穏やかな表情で横たわっていた。


(エルヴィ……)


 心の中で名前を呼ぶ。

 獣の干渉を受けなかったのではない。彼女が自分のことを守ってくれていたのだ、とシュラは直感で悟った。

 かつて結んだ幼く、拙い約束を守らんとして――シュラに己を見つけてもらうために、エルヴィがシュラのことを『抑止力』に選んだのだと今なら分かる。

 既に行動を起こすべく、濃紺の夜を溶かした髪色を翻し、少年は湖に向かって行った。

 異邦人の片割れである女性もまた、シュラの隣に並び立って、水鏡の中に映り込むエルヴィの姿をじっと凝視している。


「……それで? 俺にやってほしいことって?」

「龍の魔力を使って、湖の魔力を変換してもらいたいのです」


 彼女の唇から零れ落ちた言葉に、シュラは大きく目を見張った。

 特殊な一族の出身としか伝えていないはずであるというのに、淡々とした表情で一族が秘匿してきたことを告げられ、背筋を悪寒が走り抜ける。


「何故、そのことを」

「私は神々が創造した惑星を収めた『箱庭』の管理人。ありとあらゆる惑星の特性を網羅しております」

「君は一体何者なんだ」


 恐々と唇を震わせながらアリアに告げれば、彼女は不思議な光彩を放つ瞳を丸くして、くつくつと笑い声を漏らした。


「私が何者であるか、それは貴方に関係のないことです。それを知れば、私は貴方から記憶を奪わないといけなくなってしまう。――それは我らの総意ではありません」


 我ら、というのがソルだけではなく、何か別の存在をも感じさせる物言いで、シュラはぶるりと肩を震わせた。

 この歳になって怖いと思うものがあるとすれば、父の突飛な行動や母の飛び蹴りくらいのものだとばかり思っていたが、妙齢の女性が人ならざる者の気配を色濃く纏いながら、意味深に目を細めて笑う姿もたった今からシュラの『おっかないもの』リストの末席に加えられた。


「貴方、というイレギュラーが発生している現在、それを逆手にとって獣を追い詰めることが出来るのは我らにとっては嬉しい誤算でした。当然、ソルを貴方から引き離したのも、龍の魔力を遺憾なく発揮していただくためです」


 人に良く似た姿をしているのに、纏う気配は確実に人とは違う別の何かであることがひしひしと伝わってくる。

 それを恐ろしいと感じるのと同時に、堪らなく頼もしいと思えた。


「分かった。俺を介して、湖の魔力をこちらのものに変換すればいいんだな?」

「理解が速くて助かります。ソルが成功すれば、火柱が立つはずです。それを合図に、魔力の変換を始めてください」

「了解した」


 見た目は自分と大差ない年齢のはずなのに、立ち居振る舞いが堂々としすぎている。

 その姿に、シュラは密かに母親の後姿を重ねた。無意識の内に右手の拳を握りしめる。。



 アリアの無茶ぶりは今に始まったことではなかったが、今日のそれは輪をかけて難しい注文だった。

 女神から貸し与えられた聖剣の二振りには、それぞれ精霊が宿っているのだが、ソルは未だに彼らの姿を見ることも、声を聞くことも叶った試しがない。


「……頼むから、出てきてくれよ~」


 不安交じりの声に反応したのか否か定かではないが、聖剣の柄が熱を帯びる。

 獣の気配がソルを覆い囲もうとしていた。

 意識を剣に集中させる。

 ソルの焔の魔力を吸い上げるように、聖剣の柄は更に熱気を増した。

 もはや、自分の身体の一部であるといっても過言ではない、と言うほどに熱を帯びた聖剣をソルは黙ったまま見つめる。

 鋭く閃いた銀色の刀身に、己の顔が映し出されていた。


「アマテラス。お願いだ。僕の声に応えてくれ」


 聖剣には何の変化も現れない。

 だが、ソルのすぐ背後には獣が襲い掛からんと、その身体を燻らせていた。


「頼むよ」


 祈りを捧げるように、刀身へ額を預けた。

 肌がひりつくような熱さに、思わず喉の奥から痛みを発する声が漏れ出そうになるが、寸でのところで飲み込むことに成功する。


「アマテラス」


 もう一度、剣の名を呼んだ。

 ソルの背後で獣が揺らめく。

――一瞬だった。

 焔を纏った小柄な精霊が、ソルの周りにひしめいていた獣をあっという間に灰へと帰したのは。


『仕方ないから手伝ってあげるよ。ただし! つーちゃんと一緒はだめだからね! つーちゃんは可愛い女の子なんだから!』


 妹のステラと歳が違わぬくらいの男の子が、宙に浮かんでいる。

 ぷんぷんと唇を尖らせながら、眼前に降り立った精霊に、ソルは目を丸くした。


「え、あ、アマテラス?」

『そーだよ! ぼくがアマテラス!』


 瞳の中に太陽が二つ。

 赤く滾らせた焔の髪を風に揺らして、アマテラスがソルを見上げる。


『核を持っているのは別の個体だったみたい。どーする?』

「見つけて壊す以外に選択肢があるのか?」

『……ないね!』


 ケタケタと悪戯が成功した子どもみたいな顔で笑うアマテラスに釣られて、ソルも笑った。

 肌を撫でる空気は未だにどんよりと気持ちの悪い淀みを纏っている。


「次は仕留める。頼むぞ、アマテラス!」

『まかせて! 灰も残してやらないんだから!』


 小さくても存分に頼もしい相棒を得たソルは、森の奥へとその一歩を踏み出した。



 ずっとアレが羨ましかった。


 私にはないものを持っている、アレが。


 銀色の宝石がキラキラと瞬きを繰り返しながら、アレを起こそうとしていた。

 せっかく閉じ込めたアレを。


――ザバァン!


 突然、湖が波打った。

 湖の水が不自然に唸りを上げ、シュラとアリアの前で動きを止めた。


「ソレは渡さない」


 水が蛇のような形を持って、二人の前でゆらゆらと不気味に身体を揺らしている。


「何を傲慢なことを。これは、お前のモノではありません。そこをお退きなさい」


 アリアがサッと懐から水鏡を取り出した。

 鏡の中に映ったのは、形を持たない、黒い影のようにあやふやな存在だった。


「醜い獣よ。それ以上、近付くつもりであれば、我が裁きを与えます」

「黙レ。ソレは、私の」

「退けという言葉が聞こえなかったようですね」


 父親であるルーシェルと同じ金色と紫の光彩が爛々と燃えていた。

 殺気と怒りが複雑に混ざり合ったそれは、隣に立つシュラの肌をも焼かんばかりの勢いである。


「綺麗な人ほど怒らせると怖いな」


 シュラの脳内で桔梗の横顔がアリアのそれに重なった。

 苦笑したシュラであったが、獣の目的がエルヴィであることを再認識すると、それを活かしている魔力を一刻も早く変換してしまおうと、胸中で相棒の名前を叫んだ。


(蒼月……!)


 蒼き龍が青年の身体を守るように、姿を現した。

 神々しい輝きを纏った龍がシュラとアリアの二人を前に、鋭い牙を見せてくつくつと笑みを零す。


『蕾との賭けはお前の勝ちだったようだな』

「ああ」


 心底嬉しそう目を細めたシュラに優しい眼差しを向けていた蒼月だったが、次いでアリアと対峙している獣の姿を捉えると殺気を膨らませた。


『せっかくの再会を無駄にさせるわけにはいくまい。ここは俺に任せて、お前は蕾を起こすことに集中せよ』

「頼む」

『造作もない』


 一人と一頭がそれ以上言葉を交わすことはなかった。

 助っ人として現れた龍を横目に、アリアは再び獣に警告する。


「もう一度言います。ここから退きなさい。これよりは、我らの領域です」


 白金の髪が魔力による風圧でぶわり、と広がった。

 けれども、獣が恐れを見せることはなかった。――それどころか、金切り声を上げて、こちらに向かって突っ込んでくる。


『客人の手を煩わせるわけにはいかんな』


 蒼月がフッと息を吐く。

 そして、喉奥が見えるまで大きく口を開いたかと思うと、蒼銀の焔が獣に襲い掛かった。


『俺の咆哮は創世龍のソレと相違ない。灰も残さず消え失せるがいい』


 名前と同じ――青い炎が獣を襲う。

 女神の焔には劣るが、その息吹が宿った焔であることに変わりはない。

 金切り声が、汚い悲鳴に変わるのに、そう時間は掛からなかった。


「オノレ! オノレ! またしても、わたじのじゃまヴぉ……!」


 言葉を話すことすらも曖昧になり始めた『獣』を、アリアは冷たい眼差しで射抜いた。


「それはこちらの台詞です。一体、どれだけの惑星を壊せば気が済むのですか」


 水鏡が獣を捉える。

 今度こそ、逃がしはしない、とアリアの表情が語っていた。


「――何をぐずぐずしているのです! 早くトドメを刺しなさい!!」


 湖の向こう岸にソルの姿が見えた。

 彼はアリアの声にハッとすると、双刀の一対を大きく振りかぶった。

 ゴウッと熱風が湖の上を這う。

 陽炎が湖の表面を踊るように滑っていく。


「悪いけど、この惑星をお前の好きにはさせない」


 ソルが息を吐き出したのと同時に、獣が派手な音と飛沫を立てて湖に倒れた。

 小さな声が「マザー、」と何かに縋るような悲鳴を上げたかと思うと、蛇のような形をしていたそれがゆっくりと輪郭を失っていく。


「黙示録」

『是。獣の消滅を確認。残存した魔力を浄化すれば、星の核の再稼働が見込めます』


 黙示録の報告に、アリアとシュラは顔を見合わせた。

 どちらからともなく深い息を吐き出し、天を仰ぐ。


「お、終わった、みたいだな」

「ええ。お疲れ様でした」


 アリアは服が汚れることも構わずに、近くに倒れていた流木の上に腰を落ち着けた。

 獣の身体が全て灰へと変わるのを見届けていたソルが、アリアとシュラの二人に緩慢な動作で歩みを寄せる。


「上手くいったみたいで何よりです」

「どこまでが貴女の計算だったんですか?」

「何の話でしょう」


 知らんふりを決め込むアリアに、ソルは呆れたように溜め息を零した。

 アリアの助言によって精霊を喚び出すことに成功したのは良かったものの、アマテラスを纏った状態で聖剣を振るうのは骨が折れた。


「貴方なら扱えると分かっていましたよ」

「すーぐ、そうやって持ち上げる……」

「あら、人間は褒められると心が満たされると聞いたのだけれど、違ったみたいね」

「聞きました? シュラさん。この人、平気でこういうことするんですよ」


 たった今、世界の脅威をその手で消し去ったばかりの少年が、連れ合いの言葉ひとつで泡を食ったような顔をしているその姿に、シュラは喉を逸らして笑い声を上げた。


「まったく、君たちは見ていて本当に飽きないなぁ」

「え、今そんな話してましたっけ?」

「いや、悪い。まずは礼を言うべきだった」


 ありがとう。

 青年の――湖とよく似た淡い緑色の目が、嬉しそうに弧を描く。

 シュラの声が湖に反響した。

 それに呼応するように、パキンと湖の周辺を覆っていた結界がはらはらと崩れ落ちる。


『結界の消滅を確認。十分後、星の核である「世界樹の新芽」が覚醒します』


 黙示録が淡々と告げたそれは、シュラにとって何よりの吉報であった。

 薄っすらと涙の膜が広がっていく彼の眼を真面に見ることが出来ずに、ソルがそっと青年から目を離す。

 視線が彷徨った先にはアリアが立っていた。

 その横顔には、湖面を照らす淡い光が反射している。


(綺麗だ)


 ぽつり、と胸の内に零れ落ちた言葉を、ソルが声に出すことは決してなかった。

 金と紫が混ざり合う、朝と夜の狭間を生きる天使の眼差しが優しく『自分たち』を見ていたから。

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