五、遠雷

 ソルが持ち帰った『星の核』――基、泉の妖精を見て、アリアは目を剥いた。

 まさか、昔話に登場した本人が存在しているとは思ってもみなかったのだろう。

 はくはく、と水中で魚が呼吸をしているときのような口の動きをして、ソルと泉の妖精を見比べる彼女に、ソルが苦笑を浮かべた。


「この場所が変わったのはいつ頃か分かりますか?」


 ソルの問いかけに、泉の妖精は眉間に皺を寄せた。

 件の泉の妖精は、昔話に伝えられている通り、美しい容姿をしていた。

 流れ落ちる銀色の髪からは際限なく水が溢れ出しており、それが光に反射することできらきらと輝きを帯びている。

 ソルの目をまっすぐに見つめた瞳は真っ赤に濡れていて、宝石を嵌め込んでいるようにも見えた。


「私とお前たちの時間間隔が同じかどうかは知らんが、新月の翌日に目覚めるとこうなっておった」


 憎たらしい、と空を睨んでそう零した泉の妖精に、ソルとアリアが顔を見合わせる。


「私たちがこの世界に来る一週間前ですね」

「たった一週間でこんなに変わる?」

「これでも星の核が存在しているだけマシな方です。常であれば、もっと早く破壊されていてもおかしくありません」


 うんうんと唸り声を上げている若人たちを他所に、泉の妖精は懐かしいものでも見るかのように井戸の意匠を指でなぞった。


「これはフランが私の涙を放り込んだ井戸だからかの。どういうわけか、結界を生み出し、私を守ってくれたのだ」

「それで、今まで井戸の底に居たんですね」

「ああ。だがそれも潮時のようだ。数日前から若い女子が井戸の中に放り込まれるようになった」

「え?」


 泉の妖精の表情が陰る。


「私たち泉の妖精は、水の守護者であると同時に乙女の守護者でもある。その乙女が悲惨の死を遂げると祈りを捧げるために姿を見せなければならない。それを知っている誰かが、数日ほど前から井戸に少女たちを放り込んでいるようなのだ。私を誘き出そうとしているとしか思えないだろう?」


 それを聞いて、ソルは隣街で聞いた話を思い出す。

 数週間前から始まった人攫い。井戸の水を分けてくれた女将の話では、未婚の女性ばかりが攫われているとのことだった。


「乙女の定義って、結婚していない人ってこと?」

「厳密には『処女』なのだが……。そうだな。未婚の娘も、私が加護する乙女に分類されている」

「……あの獣。鉱物系じゃないのかもしれないな」


 剣先に響いた感触は間違いなく硬かった。

 けれど、それが金属かと聞かれると微妙なところである。


「それよりも、この星の住人を操っていたのが気になります。海賊とは言え、この星の人間。守るべき対象です」

「いや、それも早とちりかもしれないよ。あの獣も人間に擬態しているように見えたし、他にも人間に擬態している獣が居てもおかしくない。それに、あの食事処に入ったとき、聖剣が初めて熱くなった」


 アリアの顔からみるみる色が失われていった。

 彼女の傍らに立つ泉の妖精も、神妙な面持ちになって井戸の縁に手を置いた。


「お前たちが話している獣というのは、赤い目をした男のことか?」

「そうです。――会ったことがあるような口ぶりですね?」

「アレに追われた所為で森がこんな姿になってしまったのだ」


 獣は星の核が何なのか分かっていなかったらしい。

 泉の妖精に接触していたにも関わらず、見逃したようだった。


「やはり、所詮は畜生といったところでしょうか。次に見つけた際には必ず仕留めてみせましょう」

「わざわざ探さずとも良い。アレは直にここへやって来るぞ」

「え?」


 ソルとアリアの声が重なった。

 泉の妖精の目がスッと猫のように細められる。


「夜になると、アレはここへ乙女を放り込みにやって来る。それまで物陰にでも潜んで待てばいいだけだ」


 そう言われて初めて二人は空を見上げた。

 砂埃に塗れた夕焼けが、夜のベールを引き始めようとしていた。



 獣が姿を見せたのは、それから一時間後のことである。

 麻袋の中で蠢く何かを黙らせると、そのまま井戸の中へと躊躇なく放り込んだ。


「……っ!!」


 思わずアリアが悲鳴を上げそうになったのを、泉の妖精が口に手を当てることで黙らせた。


「あの井戸には私の加護が施されている。これまでも井戸の中に放り込まれた乙女たちが居たが、全員生きておる。安心せい」

「ですが……」

「大丈夫だよ。あの井戸の中でも息は出来るんだ。妖精のおかげでね」


 井戸の中へと飛び込んだことのあるソルが言うのだ、間違いはない。

 アリアはそれを聞いて漸く大人しくなった。


「さて、と。逃がす訳にはいかないな。申し訳ないけど、天使さまのお守を頼んでも?」

「心得た」

「ちょっと、お守とはどういう意味です!」


 ソル様、とアリアの声が背中に突き刺さるが、笑って無視をした。

 双剣の柄を握りしめる。

 軽い力で引き抜くことが出来たそれを、井戸の前で乙女が落ちていくのを見つめていた獣に向かって振り下ろした。


「き、さまっ! どこから!」

「お前こそ、まだ星の核を諦めていなかったんだな!」


 黒いローブを被っている所為で、はっきりとした顔は分からない。

 けれど、怪しく光った赤い目が嫌な気配を纏っているのは同じだった。


「さっさとこの星から出て行け!」

「貴様こそ、俺の邪魔をするな!」


 獣の腕が不自然に伸びた。

 枝のように伸びたそれを見て、前回アリアが捕まったことを思い出す。


「何度も同じ手に引っかかるかよ!」


 逆手に持った剣の一対でそれを切り崩した。

 どろり、とした液体が地面を汚す。


「ぎゃあ!?」


 次いで、獣の醜い悲鳴が上がった。

 鉄臭い、嫌な臭いが鼻を衝く。


「鉄?」


 それは、鍛冶屋でよく見かけるような光景だった。

 ソルが切り落とした獣の片腕からは、ドロドロとした液状の鉄が止めどなく流れ落ちている。

 獣は、何度も斬られた腕に向かって、ドロリとした鉄を伸ばそうとしていたが、切り口が炎で焼かれているのを見ると、忌々しそうに顔を歪めた。

 聖剣で斬られた所為で身体の再生が出来ないらしい。


「クソッ!」


 舌打ちを零したかと思うと、獣は衒いもなく井戸の中へ飛び込んだ。


「待て!!」


 ソルも慌ててその後を追わんとしたが、誰かに肩を掴まれた所為で、前のめりの姿勢のまま固まってしまう。


「まあ、待て。この水は全て私の身体のようなもの。簡単に逃しはせん」


 泉の妖精が不敵に笑っていた。


「小僧。見たところ雷の精が付いているようだが、心得はあるのか?」

「……あまり、得意じゃない」

「そうか。ならばお前はどうだ?」


 問われたアリアも力なく首を横に振る。


「アレは鉄の臭いがした。腕を斬られている今なら雷で炙るのも一興かと思うたのだが」


 綺麗な顔をしている者は皆、物騒なことしか言わないのだろうか。

 うへえ、と顔を顰めたソルだったが、不意にその物騒な言動の代表と言わんばかりに自らの父親の顔が浮かんだ。


「天使さま! 叡智の杖!」

「!」

「ぴったりの人が居る!」



 身体を包み込んだ見知らぬ気配に、ヴォルグの顔は険しくなった。


「ヴォルグ!!」


 隣に座っていたナギの慌てた声が段々と遠のいていく。


「父上!」


 煙に巻かれたかと思ったら、今度は眼前に息子の顔があった。


「ソル?」


 夢でも見ているのではないかと、ソルに手を伸ばせば確かな温度が返ってくる。


「説明は後でします!! 井戸に雷を!!」

「……いいよ。任せて」


 言うや否や、ヴォルグの身体の周りに雷が発生した。

 バチバチと激しい音が響き渡ったのを合図に、ヴォルグが片手を空に向かって掲げる。


「落ちろ」


――ドォオン!


 雷が街中の井戸に向かって落とされた。

 黒い煙を上げて、次々に井戸が崩れていく。


「それで? どういうことなのかな?」


 緋色の目が優しい炎を灯した。


「次元の獣が井戸に逃げ込んだので、父上にご助力をと。こちらの天使さまの力でお呼びいたしました」

「お初にお目に掛かります。魔王陛下」


 律義に頭を垂れたアリアに、ヴォルグがにっこりと微笑んだ。


「ナギ以外にその名で呼ばれたのは久しぶりだな」

「……ご無礼をお許しください」

「構わないよ。怒っているわけじゃないんだ。それより、アレにトドメを刺さなくていいのかい?」


 つ、とヴォルグが指を差した方角にはフランの井戸がある。

 息も絶え絶えといった様子で井戸を這い上がってきた獣を、ソルとヴォルグの二人が捉えた。


「ソル」

「はい、父上!」


 双剣を構えたソルが地面を蹴った。

 驚愕に目を見開いた獣の首が宙を舞う。

 ころころ、と地面を転がっていた獣の頭を止めたのは、ヴォルグの右足であった。


「金属の身体を持った獣は初めて見たな」

「……おまえ、は」

「妙な真似は止せ」


 ヴォルグが視線を移した先では、倒れていたはずの獣の身体が分裂し、わらわらとこちらに向かってこようとしていた。

 ビリ、と地面に電撃が走る。

 あっけなく、鉄くずに変わったそれが風に煽られて消えていく様を、ソルは双剣を収めながら静かに見守った。


「質問に答えろ。お前たちの目的はなんだ」

「答える義理はない。だが、そうだな。一つだけ教えてやろう」


 獣の赤い目が厭らしく細められた。

 それを見たヴォルグの足に力が籠められる。

 ぎし、と嫌な音を立てて、獣の頭が地面にめり込んだ。

 流石は稀代の魔王と恐れられた男である。

 ソルが後れを取った――厳密に言えば、アリアを人質に取られた所為ではあるが――獣を片足で封じているそれに、アリアは改めて瞑目した。


「俺が消滅すれば『マザー』が気付く。マザーの邪魔をしたとなれば、彼女は黙っていないだろうよ」

「どういう意味だ」

「卑しき番人の子よ。貴様は、マザーに殺される運命なのだ」


 獣はヴォルグに目もくれず、片方しか残っていない目を厭らしく細めて笑う。

 腹の底から湧き上がってくる怒りのまま、ヴォルグは重心をさらに傾けた。

 先程まで形を保っていた獣の頭があっけなく塵になり、砂埃に溶けて見えなくなった。

 後に残されたソルとアリアは互いに顔を見合わせながら、恐る恐ると言った様子で静かになったヴォルグにゆっくりと近付く。


「……マザーだと? よりによって、その名前を聞くことになるなんて」


 はあ、と深い溜め息を吐き出したかと思うと、ヴォルグはソルに向かって手を差し出した。


「父上?」

「ルナに頼まれたものを持ってきた。受け取れ」


 もう子どもの頃よりも幾分か身長は近付いたはずなのに、父の掌は相変わらず大きい。

 それにそっと己の手を乗せると、ヴォルグの手が段々と形を変えていく。


「う、え!?」


 それはソルの愛刀だった。

 一体、どんな魔法を使ったのか、ヴォルグの身体の中から出てきたそれをおっかなびっくり受け取れば、父王が満足そうに笑みを浮かべる。


「確かに渡したぞ」


 この世界でのヴォルグの役割は終わった。

 身体が軽くなった、と感じたのと同時に、身体を煙で包まれる。


「あ、ありがとう! 父上!」


 最後に見た息子は、今にも泣きだしてしまいそうに目に涙をいっぱい溜めながらも、器用に笑顔を浮かべていた。


「行ってしまいましたね」

「ああ。でも、今回は箱庭で召喚したときより滞在時間が長かった気がする」

「恐らく、前回は同時に二人を召喚したからでしょう。一人を召喚した場合は、それほど制約の時間が進まないのかもしれません」

「なるほど。次回から参考にしよう」


 泉の妖精はあっけになって事の次第を見守っていた。

 どこからともなく現れた男の放った雷で獣が動けなくなったのはもちろん、青年がたった一撃で獣を仕留めたことに驚きを隠せない。

 弱っていたとはいえ、地形を変えるほどの力を持っていた次元の獣を。


「一撃で倒したと言うのか」


 思わず口から漏れ出た言葉に、ソルが泉の妖精に向き直った。


「一度、剣を交わしていたからね。初見だったら難しかったかもしれないけど」

「末恐ろしいな」


 本心からの言葉であった。

 照れたように苦笑する青年に、ほっと安堵の息を吐き出す。

 すべて終わったのだと、漸く胸を撫で下ろすことができた。


「これからどうする?」

「そうですね。まずはこの世界の住人の記憶を整理しないと」


 どういうことだ、と目線だけで訴えかければ、アリアが黙示録を手元に出現させながら答えを紡いだ。


「獣と私たちについての記憶を消去しなければなりません。本来、必要のない介入ですから。元の地形や時の流れに戻すためにも、黙示録の力を使って必要のない記憶は消す必要があります」

「セリフだけ聞くとすっごい物騒だね」


 乾いた笑い声を漏らしたソルを置いて、アリアは泉の妖精の前に膝を折った。


「泉の女王よ。どうか我らの無礼をお許しください」

「……構わぬ。お前たちのお陰で、私とこの世界は消えずに済んだのだから。好きにするが良い。だが、礼のひとつもさせんのは気に食わんの。少し待て」


 泉の妖精は、ゆっくりと銀色の睫毛を震わせながら瞼を閉じた。

 彼女の息遣いに合わせて、井戸の水が宙を小川のように流れていく。

 やがて、泉の妖精の周りに水が集まったかと思うと、それは小さな球体を形作った。

 パン、と両手が合わさる音が響いたあと、泉の妖精の手には銀細工が施された美しい鏡が握られていた。


「邪なる者を弾く水鏡じゃ。これでお主も自分の身は自分で守ることが出来よう」


 誰かの背に庇われてばかりいたことを歯がゆく思っていたのを見透かされているようで、アリアは居心地悪そうに首を竦めた。

 そして、小さな声で「ありがとうございます」と黙示録を肘に挟みながら、それを受け取る。


「水はどんなものにも姿を変えることが出来る。持ち主の使い方次第では、色んなことが出来るようになるだろう」


 泉の妖精はそう言って豪快に笑うと、記憶を消される前にやることがあるから、と言って井戸の中に戻っていった。


「はああ……」


 大きな溜め息をつきながら、ソルが地面に寝転がった。

 見上げた先には、濃紺の中に散りばめられた金銀の星々が静かに命を燃やしている。


「あと何体、獣を倒せばいいんだろう」


 ぽつり、と何の気なしに呟いた言葉に、隣へ腰を下ろしたアリアが星と同じ銀色の髪を柔らかに持ち上げながら、ソルに視線を投げかけた。


「十匹かもしれないし、百匹かもしれません。けれど、私が持ち合わせている答えは『すべての獣を退治してください』という、残酷な言葉だけです」


 金と紫の混ざり合った光彩が、ソルを捉える。


「うん」

「ごめんなさい」

「……天使さまが謝ることじゃないでしょ」

「いいえ。今回のことは私が箱庭に獣の侵入を許した所為です」

「でも、」

「本当にごめんなさいね」


 アリアはそれきり黙り込むと、戻ってきた泉の妖精と挨拶を交わし、黙示録を使って惑星セラから自分たちと獣の記憶を消すための魔法陣を施した。


「それでは、ソル様はこちらに」

「ああ」


 アリアのすぐ傍に立つ。

 風に煽られた彼女の髪から、白百合の香りがした。


「歪んだ理よ。正しき環の流れに戻りたまえ!」


 カッと目も眩むほどの光が辺り一面を覆う。


「今のうちに戻りましょう」


 アリアが呼び出した箱庭へと続く扉を潜る。

 砂の混じった風がソルの背を一際強く送り出してくれたような気がした。

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