四、涙を流す森

 その森は涙で溢れていると言われていた。

 砂漠において、水は命を繋ぐ大切なものだ。

 自然、生き物は水の豊富な土地を求めてやって来る。

 動物はもちろん、人々もまた涙の森に惹かれるのは必然だった。

 だが、人々がやってくることを快く思わない者が森には居た。

 森の泉を管理している水の妖精である。

 人は愚かで、全てを欲し、それでも足りないとまた争いを起こす。

 そう言って、人間が森に入ることを良しとはしなかった。

 妖精は、邪な感情を持った人間が一歩でも中に入れば、泉には辿りつけないように呪いを施した。

 それほど徹底していたにも関わらず、ある時、一人の少年が妖精の元を訪れて言ったのである。


「偉大なる泉の女王よ。我らは決して貴女と貴女の愛するこの森を害しはしません。ほんの少し、水を分けていただきたいだけなのです」


 その目は、春の日差しによく似ていた。

 妖精は白い喉を逸らして盛大に笑い声を上げた。

 雲雀の奏でる歌声のように美しいその声が収まると、彼女の頬には一筋の涙が伝っていた。


「私の呪いを跳ねのけた人間よ。この雫を持ち帰ることを許す。そして、村の井戸に垂らすといい。さすれば、井戸の水は枯れず、お前たちに潤いを与え続けるであろう」


 自らが流した涙を小瓶に詰めると妖精はそれを少年の手の中に放り投げた。

 少年は街に戻ると妖精に言われた通りに井戸へ雫を落とした。

 妖精の助言の通り、その井戸はいつまでも枯れることなく、人々に水を与え続けたと言われている。



「と、いうのがこの辺りに伝わっていた昔話になります」

「もしかして、この中からその井戸を探せとか言わないよね?」


 ふふ、と先程まで語り部に扮していたアリアの顔が綻ぶ。


「いやいや! 無理があるデショ、これ!」


 ソルは、往来に並ぶ井戸の多さにうへえ、と舌を突き出した。


「港町を自称しているくせに、どうしてこんなに井戸が多いんだよぅ」

「川の水をろ過する技術を持っていないのでしょうね。だから、土地から引き揚げた水を汲んでいるのだと思います」

「それはそうだけど、多くない?」


 獣の所為で、土地が歪みを生じているとはいえ、昔話に登場した井戸の影響力は強いらしく、その姿はあちらこちらに散見していた。

 その獣と相対したのも既に二日前の出来事である。

 橋の工事を待つ間、フーリヤについての情報収集を行ったところ、件の古い話を綴った本をソルが見つけてきたのだった。


「仕方ありません」


 黙示録、と天使が呟くと、革張りの分厚い本が彼女の掌の中に現れる。


「妖精の涙を入れた井戸の特徴を教えてください」

『是。少年の名前はフラム。「炎」の意匠を井戸に彫りこんだと伝えられています』


 二人は片っ端から井戸の意匠を確認する作業を繰り返した。

 だが、それらしい井戸は見つからず、真上に昇った太陽にじりじりと肌を焦がされて早々に根を上げることになってしまう。


「……本当に、炎の意匠だったのかな?」

「黙示録が間違うことはありません」

「別に黙示録が間違えたと言っているんじゃないよ。さっき黙示録が言った『伝えられています』って言葉が気になって……。もしかすると少年が彫った意匠が他の人には『炎』に見えて、それが誤ったまま伝わったんじゃないのかなと」


 ソルの疑問に、アリアはふむと顎に手を添えた。


「確かに一理ありますね」

「それじゃあ、仮に炎に見えるものだとして、天使さまは何を連想する?」

「炎に見えるもの、ですか」


 そう言われると弱ってしまう。

 アリアは天界から地上に派遣されたことがない。

 人間の暮らしを間近に見たのも、今回が初めてなくらいだ。

 うんうん、と頭を悩ませる天使の横顔を視界の端に収めながらソルも炎に見える形について思考を巡らせた。


(単純に考えるなら、太陽だけど安直すぎるしなあ。炎、ほのお、ねえ)


 熱い、燃える、焦げる、明るい。

 言葉に置き換えると色んなものが浮かんでくる。

 抽象的過ぎて絞るのが難しいな、とソルが顔を顰めていると鈴を震わせたような声が「分かりました!」と叫んだ。


「恋、ではないでしょうか!」

「……前から思っていたけど、天使さまってロマンチックな発言多いよね?」


 生暖かい視線を向ければ、きょとんと固まってしまったアリアに、これは何を言われているのか分かっていない顔だな、と苦笑を噛み殺すと、ソルは肩を竦めながら彼女の次の言葉を待った。


「情というのは形に出来ないものでしょう? 特に恋や愛といった他者に向ける情は炎のように激しく燃え上がるものだと聞き及びました。どうせ形に残せないのならせめて、と少年が自分にだけ分かる形で刻んだのではないでしょうか?」

「うーん。分からなくもないけれど、その仮説でいくと、少年は泉の妖精に恋をしたことにならないか?」

「この世のものではないと思うほど美しい存在に出会ったとき、貴方はどんな感情が真っ先に浮かびますか」


 こちらを射抜いた夜明けの空を思わせる金色と紫の煌く眼に、ソルは言葉を詰まらせた。


「……綺麗、だと思うんじゃないかな」


 率直に、眼前の天使と初めて邂逅したときの心情を思い出しながらぼそぼそと告げる。


「その次には?」

「つ、次って?」

「綺麗だ、美しい。そう思ったあとに人間の考えることは一つですよ」


 綺麗なものを前にしたとき、貴方ならどうする。

 そう問いかけられているような感じがして、首を傾げた。

 綺麗なものを前にしたとき、考えること。

 そう言われて思いつくことが何かあるのかと言われてみれば、ソルが持ち合わせていた答えは一つしかなかった。


「自分のものにしたい、とか?」

「その通り」


 向日葵が花開いたときのような満面の笑みを向けられて、ソルはグッと言葉を詰まらせた。


「……待てよ」

「ソル様?」


 アリアを向日葵に置き換えたことで、ソルは先程調べて回った井戸の中に一つだけ変わった意匠があったことを思い出す。

 それは、他の井戸と何ら変わりのない造りであったが、屋根の裏側部分に蓮の花が彫られていたのだ。


「お、あったあった。これだ」

「これは?」

「この井戸だけ、屋根のところに蓮の花が彫られていたんだよ。それに、ほら」


 積み上げられたレンガの一部分には、雨風や砂嵐の所為ですっかり掠れてしまい、薄くなった炎の意匠が施されている。


「女の人のことを花に例えること多いだろ」

「……なるほど」


 少年は泉の妖精を蓮の花に例えたのだろう。

 屋根の裏には蓮の花だけではなく、異国の言葉で『麗しの君へ』という言葉が記されているとアリアが眦を赤く染めながら小さな声で呟いた。


「井戸を見つけたのはいいけど、これからどうする?」

「そうですね。恐らく、この井戸の底に星の核があるのでしょうけれど、潜って取ってくるわけにもいきませんし……」


 それにこんな真昼間から井戸の中に飛び込みでもすれば、それこそ大騒ぎになってしまう。

 獣がどこに潜んでいるかも分からない今、迂闊に事を大きくするのは危険だった。


「全部の井戸が繋がっていたら楽なんだけどなぁ」

「と、言いますと?」

「水路が繋がっているなら、人通りの少ない場所にある井戸からでも侵入できるんじゃないかなって」

「黙示録」


 アリアは考えるより先に、彼女の有する書物の名前を呼んだ。

 心得ました、と言わんばかりの様子で黙示録が『是。繋がっています』と答えの光を灯す。


「ちなみに、天使さまって泳げたり?」

「するわけがないでしょう」

「ですよね~。僕が泳いで取ってきます~」


 頭脳は私、肉体労働は貴方が、と言わんばかりの表情で「お早くお戻りください」と追い打ちをかけるような冷たい声に、ソルはがっくりと首を項垂れるのであった。



 普通の人間であれば、そもそも井戸に飛び込もうなどという無謀なことは口に出さないし、実行にも移さない。 

 だが、ソルもアリアも厳密に言うと人とは違う生き物に該当しているので、井戸に飛び込むなんていうことも常識からずれていることは分かっていても、目的のためには仕方のないことだと割り切っていた。

 躊躇なく井戸に飛び込んだ青年を見て、アリアは感嘆の息を漏らす。

 澄んだ水であることは確かなのに、底を覗けば真っ暗な闇が待ち受けている。

 自分だったら、例え神の命だとしてもこんなところへ飛び込むことなど出来はしない。


「……どうか、無事に見つかりますように」


 今は少し離れた場所にいる己が主人に向けて、胸の前で十字を切った。


(不思議だ。息が出来る)


 人間の血が四分の一しか流れておらず、殆ど魔族に近い身体を持ったソルでも肺活量は人並み程度である。

 だが、大叔母にあたるレヴィアタンから特殊な呼吸法を教えられているため、十五分ほどであれば、水中でも自由に行動することが出来た。

 けれども、その心配は懸念に終わった。

 どういうわけなのか、水の中を泳いでいるというのに、先程から普通に呼吸が出来ているのだ。


(これも、泉の妖精の力なのかな)


 口から漏れ出た空気が泡となり、水中に軌跡を描く。

 その泡の道筋を辿るように視線を遣って、ソルは動きを止めた。

 まだ少し泳いだだけだったので、確信は持てなかったのだが、気の所為でなければ先程から泡は一つの方向にしか動いていない。

 水流がほとんどないとは言え、そんなことあり得るわけがなかった。


(こっち、か?)


 泡が流れていく方向に向かって泳ぎ出す。

 辿り着いた先でソルを待ち受けていたのは、井戸の屋根に彫られていたものと同じ蓮の花の意匠だった。

 それまで何の変哲もないただの石壁で出来た水路だったのだが、そこだけ違いが一目瞭然であった。

 まず、レンガの形が違う。

 そして、そのレンガの一つ一つに繊細な彫り物が施されていた。

 遠くから見ると何の形をしているのか分からなかったが、近付いてみるとそれが何を意味しているのか分かった。


――泉の妖精である。


 ソルは、アリアの評した「炎は恋情ではないか」という言葉に一理あるな、と誰に示す訳でもなく静かに頷いた。

 壁画のようにレンガを繋ぎ合わせて造られた美しい彫刻に見惚れていたソルだったが、自分がここへやってきた目的を思い出すと、レンガにそっと手を伸ばす。

 レンガに描かれた泉の妖精は涙を流していた。

 昔話を参考にするのであれば、井戸に落としたとされている泉の妖精の涙が星の核に間違いない。

 涙の描かれているレンガをグッと押し込んでみると、彫刻が入ったレンガだけゆっくりと崩れ始めた。


「よく、ここに居るのが分かったな」


 くすり、と微笑みを浮かべた人物に、ここが水中であるということも忘れて、ソルは口を開けて固まった。


 レンガの奥に居たのは、泉の妖精本人だったのである。

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