19
洗った皿を置こうとして、指先が引っかかった。かしゃん、と水切りの中でガラスの容器が傾いた。
「あ、っと」
慌てて朔はそれを掴んだ。少し厚いガラスで出来たそれを、元の位置に戻す。
なんだろう、これ。
時々水切りに置かれている。けれど朔は一度もそれを洗った覚えがなかった。
朝起きたときや、仕事から帰ったときによく見かける気がする。グラスにしては少し違う…なんだろう、ミキサー?
朔はキッチンを見回すが、そんなものは置かれていなかった。
おかしいな。
「なんか、また火事みたいだ」
「え?」
ダイニングテーブルでミルクティーを飲んでいる青桐の言葉に、朔は顔を向けた。
青桐はじっとテレビを見ている。
朝のニュースが流れていた。
『本日未明、××区××、×××町五丁目のマンション一階で不審火と思われる火災が──』
「ほんとだ。ここのところ多いね」
「ああ」
近いな、と青桐が呟いた。確かにアナウンサーが読み上げている住所はここから近い。住宅街で火の手が上がればひとたまりもないだろう。しかも季節は冬で、空気も乾燥している。朔はアパートが小火になったときのことを思い出した。
あのとき、起きるのが少しでも遅れていたら、自分はここにはいなかったかもしれない。
「…今日は昼前には出るよ」
濡れた手を拭いながら朔は言った。
「うん。でも、一日休めないなんてな。大丈夫か?」
「平気だよ」
純粋に気遣う言葉を向けられて胸がちくりとした。
ダイニングテーブルに向かい合わせに座り、自分の分のミルクティーを飲む。
「月曜の代休なんてそんなもんだから」
「…ふうん」
ぼんやりと相槌を打つ青桐の目はまだ随分と眠そうだった。
「もう少し寝てたら?」
「いいよ」
即座に返されて朔は内心で苦笑した。
「じゃあ、俺が行ったら寝なよ」
「……なんで」
「眠いって顔してる」
何か言いたそうにじっと朔を見ている青桐に気づかぬふりをして、朔はトーストを齧った。
「じゃあ、行ってきます」
身支度を整えた朔は、予定通り昼前にマンションを出た。
今日は月曜日、本当なら代休なのだが午後から勤務に変更になったと青桐には言ってある。勿論、それは嘘だった。
今から堂島に紹介された不動産屋に行くのだ。
どんどん、嘘をつくことに慣れていっている気がする。
「……」
改札を抜け、いつもとは違う路線の車両に乗って、外の景色を眺めた。同じ街並みが見る角度や場所や時間が変わるだけでまるで違ったものに見える。
渡されたメモの通り、朔は四つ目の駅で降りた。堂島の知り合いだと言う不動産屋は駅の近くにあると教えられていた。念のために地図アプリで店舗名を検索にかけた。南北にある改札の北口を出て目の前の通りを左に曲がると、探していた不動産屋はすぐそこにあった。
店舗の入り口は至って普通のものだ。ドアの前に立つと自動ドアがさっと開いた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
足を踏み入れると、カウンターの向こうにいた女性が顔を上げた。歳は堂島よりも随分と若かった。
「あの…」
てっきり同じ年の頃の年配の男性だとばかり思っていた朔は、一瞬戸惑ってしまった。店の入り口を振り返る。ガラスに転写された店名は間違いない。
「あ、藤本さん?」
名前を呼ばれ、はい、と朔は言った。話はちゃんと通っていたようだ。
「今日お願いしていた藤本です。あの、堂島さんの紹介で…」
女性がにこりと笑った。
「お話窺ってます。どうぞ、おかけください」
カウンターのまえの椅子を示されて、朔は頷いた。
朔を見送ったあと、青桐は眠らずに仕事部屋に籠っていた。
来年出版する予定の小説の原稿を進めながら、合間に息抜きとして新しく来た依頼の執筆をした。
自分以外誰もいない家の中は静かだ。何の音もない。
昔は常に誰かが見ていたけれども、もうそんなことはない。キーボードを打つ音だけに没頭出来る。
ただ、朔の気配がないのが少し寂しいと思った。
軽く息を吐いて、青桐は手を止めた。
時計は十五時を過ぎていた。朔は今ごろ、仕事で忙しくしているんだろうか。
今日は一緒にいられると思っていた。でも仕事だと言われればどうしようもない。
「仕事か…」
青桐はため息を零しながら、目に付いた書類入れを手に取った。先日由生子から渡されたものだ。あのときに言われた言葉が不意に甦り、青桐は顔を顰めた。相変わらずうるさい従姉だ。
そんなこと自分が一番よく分かっている。朔がここのところ何か悩んでいるのにも気付いていた。でも訊けないでいるのは、多分自分が原因だと思うからだ。
今朝も少し様子がおかしかった。
「……」
青桐は書類入れの中身を出した。
一番上の書類には赤字で大きく締め切りの期日が記され、ぐるぐるとペンで囲まれていた。日にちは今週の金曜だ。
あとでさっさと片付けるか。
ぱらぱらと気怠げに捲っていると、傍にあったスマホが鳴った。
小林だ。
「はい」
こんにちは、と小林が言った。
『執筆中のところお邪魔してすみません』
「いや、別に」
『そうですか』
青桐は立ち上がった。
何か飲むかと、そのまま部屋を出た。
『進み具合はいかがですか?』
「普通だよ。で、何?」
小林の声に何か言い出せない雰囲気を感じ取った青桐は、前置きなしに問いかけた。
「なんか用があるんだろ」
『ええまあ…』
リビングのドアを開けたところで小林が覚悟を決めたように言った。
『青桐さん、今週の金曜日、空いてますか?』
執筆以外特に予定などない。空いてるけど、と青桐は返した。
小林はまた黙り込んだ。面倒だなと思いながらも、青桐は小林が言い出すまで待つことにした。
湯を沸かそうと、ケトルに水を入れ、コンロにかけた。
火をつけたところで、あの、と小林が言った。
『金曜日にうちの社の主催で行うパーティーがあるんですが、それに来ていただけないかと…』
「…は?」
思わず出た低い呟きに、電話の向こうが慌てふためくのが分かった。
『あのっ、ええと、その! パーティーって言ってもそんな大規模ってわけじゃ、なくてですね』
「俺、顔出し拒否だけど」
『それはそう、なん、ですが…あの…』
尻すぼみになっていく声に、盛大にため息を零したいのを我慢して、青桐は息を吐いた。
今まで何度もそういった誘いは断ってきた。人の大勢集まる華やかな場所で自分が放り出されたとき、周りの目がどんなふうになるのかを青桐はよく知っている。
小林にも、担当についてくれた当初からそうした催しに対する嫌悪感を伝えていた。
けれど、それでもこうして直接言ってくるということは、断り続けることが限界に来ているのかもしれないとふと青桐は思った。
自分が知らないところで青桐に分からぬように、小林が全てをシャットダウンしてきてくれたのだろう。
仕方がない。
分かった、と青桐は言った。
「行くよ」
どうせ金曜には外に出なければならない。
火にかけたケトルの蓋がかたかたと鳴り出した。
『……………えっ?』
よほどその言葉が信じられなかったのか、小林が反応するまでには少し時間がかかった。
***
行きとは逆のほうへと景色は流れている。
けれど外はもう暗く、目を凝らさなければ何も見えない。車窓に映るのは、冴えない顔をした自分だけだ。
朔はもう後悔していた。
『じゃあ、契約ということでいいでしょうか?』
確認するように言われたのはほんの数時間前のことだ。
不動産屋──五十嵐は手が空いているからと、他の部屋もいくつか見せてくれた。どれも会社に行くのにそう不便はなく、乗り換えがない場所だった。部屋の広さも家賃も、希望しているラインを越え過ぎないほどに満たしている。
最後の部屋を案内されたあと、五十嵐の運転する車の中で朔は言った。
『あの、今の部屋、契約したいんですが』
『え? ああ、はい』
帰宅ラッシュが始まる少し前の大通りを、車は五十嵐の店に向かって走っていた。
『あの部屋、気に入りました?』
『ええ』
『そうですか、よかった。お店なんかも近いですしね』
頷くと、五十嵐はゆっくりとブレーキを掛けた。
目の前の信号は赤になっていた。
『じゃあ、事務所で仮契約を…』
『いえ、あの、もう本契約で』
『え、もう決めますか?』
前を見ていた五十嵐は、後部座席の朔を振り向いた。
『はい』
と朔は頷いた。
頷いた瞬間、もう後には引き返せないと思った。
そして五十嵐の店に戻り、契約書にサインをした。契約書の複写は鞄の中にある。ぎゅっと鞄を持つ手に力を入れた。
「……」
これでよかったのだと朔は自分に言い聞かせた。
これでよかったんだ。
けれどなぜか胸の奥はざわざわと落ち着かなかった。
こんなことをして、また青桐を傷つけるのだろうか。
自分だけが楽になりたいばかりに。
改札を出たところで、朔は青桐にメッセージを送った。
『夕飯は何がいい?』
そのままコートのポケットに仕舞い、いつものようにスーパーに入った。買い物をしながらスマホを確認したが返事はなく、既読にもならない。仕事中だろうと、適当なものを見繕って買い物を済ませ、スーパーを出た。
住宅街を歩いていくと、どこかで猫の鳴き声がした。
朔は足を止めて見回した。よく見かけるあの猫が近くにいる気がした。
「…あ、なんだ、そこか」
道路沿いに立つ住宅の塀の上で、姿勢良く座っていた。
朔と目が合うと、ぴょん、と飛び降りて隣の家の生垣の中に潜り込んでいった。また長い尻尾だけがはみ出している。
可愛いな、と朔は苦笑した。それで隠れているつもりなんだろうか。
「いつもいるなあ、おまえ」
朔はしゃがみ込んで猫に話しかけた。猫は朔に背を向け、少しいじけたような顔をして振り返り、こちらを窺っている。
帰るところがないんだろうか。
「…一緒に来るか?」
これから大事なものを手放そうとしている。
寂しさを埋めるように、朔は無意識に柔らかな毛並みに手を伸ばしていた。
「──朔」
その声に、さっと猫が身構えた。
朔は振り返った。
青桐が立っていた。
「おかえり」
「た…、ただいま…?」
青桐が顔を顰めた。
「なにしてんの、こんなとこで」
「いや…、そっちは?」
「遅いから迎えに来たんだよ」
「遅いって…」
走ってでも来たのか、青桐は肩で大きく息をしていた。
いつもの帰宅時間とあまり変わらない。何を言っているのかと朔は目を丸くした。
「この辺不審者が出るみたいだから」
不審者?
ああ、と朔は思った。
朝の放火のニュースのことか。確かにここから近かったけれど…
「あれ、放火犯だろ? 痴漢じゃないし」
「分かんねえだろそんなの」
「…いや、あの、俺は男だから大丈夫だよ」
「いや分かんねえじゃん」
「分かんないって…、あのさ」
もし仮にそういう人と遭遇するのなら、もっと遅い時間じゃないだろうか。
まだ二十時にもなっていない。人通りもそれなりにある。
朔は呆れたような声を出した。
「俺をなんだと思ってるの」
若い女の子でもあるまいし、心配のしすぎだ。
「…帰ろう」
目の前に差し出された手を一瞬見つめてから、朔はそこに自分の手を重ねた。大きな手のひらの感触に抱えている後ろめたさがじわりと滲んだ。 立ち上がった朔はそっと手を離した。
足下の尻尾はなくなっていた。
どこかに逃げてしまったんだろう。
「──」
不意に朔は後ろを振り返った。
目の前にある大きな庭木の葉が、はらりと目の前を落ちていった。
今、…
誰かがこっちを見ていた気がした。
「どうした?」
「うん──」
なんだろう。
上手く言葉にできない。家と家の間の暗がりを見つめながら、朔は言った。
「ごめん、何でもない」
青桐が朔の手を握った。
「…なんで手を繋ぐの」
「いいだろ」
「おかしいよ」
青桐が握っている自分の手を、朔はじっと見つめた。握り返せない指先が宙に揺れていた。
青桐はよく手を繋ぎたがる。
前もよく繋ぎたがった。
男同士なのに変だと、いつもすぐに手を離していたのは、朔のほうだった。
そう、いつも先に手を離すのは自分だった。
「青桐」
歩き出そうとした青桐を朔は呼んだ。
青桐が振り返る。
「何?」
もう後には戻れない。
「俺…」
「ん?」
「俺──」
言えない。
言葉は喉元まで出かかっているのに声に出せない。
小さく息が漏れた。
白い息だけが夜の中に浮かんでいる。
ふと、この光景を知っていると思った。
「──」
朔は目を見開いた。
そうだ、これは…、同じだ。
「…どうした?」
心配そうな目で青桐が朔を見つめる。
青桐も、いつもこんなふうになる。
朔が答えを求める度に、いつも、溺れるみたいな息をする。
それはつまり──
言いたくても言えない言葉が、青桐にもあるということだ。
「……」
「朔?」
じっと自分を下ろす青桐に、朔は誤魔化すように言った。
「…俺、さっき猫見て」
「? へえ、猫?」
「すごく可愛かった」
「じゃあ、今度見かけたら連れて帰るか?」
この手を離さないと駄目なのに、朔は振り解くことが出来ない。
「見かけたらね」
その言葉は何なのだろう?
自分たちはどれほど互いに言えないことがあるのだろう。
結局朔はその夜、青桐に何も言い出すことが出来なかった。
***
「それで?」
『……』
藤本、と安西は言った。
「藤本さあ、なんでそんなことになってるわけ?」
『…ごめん。話をしようとは思ってたんだけど』
「だけどお?」
そこで黙り込んでしまう朔に、安西は大袈裟なくらいのため息をついた。
「そういうとこ、藤本の悪い癖だよ」
そうだね、と朔が言った。
外にいるのだろう。落ちてきた沈黙の間に、外の喧騒が混じっていた。
アナウンスの音が聞こえて、そこが駅なのだと安西には分かった。
『ごめん、電車来たから、また掛ける』
「分かった。あのさ、藤本」
切れるまえにと、安西は早口に言ったが、そこでぷつりと通話は切れてしまった。
一体何をしているのか。
「せんせえ、早く来て! わかんないよー」
「あーはいはい、すぐ行くって」
教室のほうから呼ばれて、大声で返事をする。
安西は深く息を吐くと、スマホを素早く操作した。
***
何も言い出せないまま週が終わろうとしていた。
朔は重い気持ちを抱えたまま、電車を降りて改札を抜けた。
今夜、青桐は珍しく出掛けている。ひとりきりの夜はいつ振りだろう。誰かと話したくて安西のところに行こうと、昼間外に出たときに連絡をしてみたが、彼女は今日、本業の講師の仕事で店にはいない。
見上げると、暗い夜空に綺麗な月が出ていた。
白い息に月が霞む。
青桐は今ごろ、大勢の人の中か。
「藤本くん」
その声に朔は足を止めた。
訊き間違いかと思っていると、藤本くん、ともう一度名を呼ばれた。どこだろう? 声のしたほうに顔を向ける。
駅から出てくる人の流れの向こう、少し離れた場所に誰か立っていた。
見覚えのある面影に、朔は目を見開いた。
「高瀬、…さん?」
「久しぶりだね、藤本くん」
懐かしい。
「ほんとに、…久しぶりだね」
青桐にどこか似た綺麗な顔、泣きそうな声で、由生子が微笑んでいた。
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