20


 喧騒にも似たざわめきの中で、見知らぬ大勢の人たちが笑い合っている。何がそんなに面白いのか。グラスの触れ合う音、食べ物の匂い、時折向けられてくる無遠慮な視線にうんざりしながら、青桐は内心でため息をついた。

「…ったく」

 何が大規模ではないパーティーだ。

 披露宴会場にも使えるホテルの大広間じゃないか。

 しかも創業記念パーティーときた。

 早く帰りたい。

 朔をひとりにするのが不安だった。

 この一週間余り、また様子がおかしかった。少しでも目を離すとどこかに行ってしまいそうだ。

 帰りたい。

 すぐにでも。

「青桐さん」

 ひと通りの挨拶回りを終え、会場に誂えられたバーカウンターにもたれ掛かっていると、小林が入り口のほうから歩いてきた。

「すみません、慌ただしくて」

「いや、いいけど…大変だったな」

 小林は少しまえ、担当している作家が早めに帰ると言い出したので、ホテルにタクシーを手配してもらい外まで見送りに出ていた。その作家は乾杯の挨拶よりもまえに飲み始めていて、早々に泥酔状態になっており、帰るときには付き添いで来ていた妻と小林、それと小林の同僚の三人に抱えられるようにして、ゆらゆらと揺れるような足取りで歩いていた。

 あの様子ではタクシーに乗せるのは一苦労だっただろう。

 小林が困ったように笑った。

「いえまあ、これも仕事の内ですから」

「ふうん…」

 カウンターの上に置いていたグラスを取り、ひと口飲んだ。

「それにしても、青桐さんのスーツ姿初めて見ましたけど、やっぱりいいですねえ、すっごく、すっごく似合ってます」

「スーツなんて誰が着ても同じだろ」

「何言ってるんですか、先生のは誰のとも全然比べものにならないですよ」

 そんなものだろうか。

 今日は目立たないようにとダークグレーの三つ揃いのスーツを着ていた。クローゼットの中でしばらく陽の目を見なかったものだ。いつ買ったのか覚えていないので、由生子が勝手に入れていったものかもしれなかった。

 青桐はグラスの中身を飲み干した。

「本当に、今日は来てくださってありがとうございました」

 小林が頭を下げる。青桐は小さく鼻を鳴らした。

「礼を言われることでもないよ」

「そろそろ帰りますか?」

「ああ…」

 頷こうとしたとき、傍に人の気配を感じた。

「こんばんは小林君、その節はどうも」

「あ、こんばんは大塚先生、いらしてたんですね。すみません、ご挨拶が遅れまして」

「やあ、いいよ。これだけの人数だ。気がつかなくてもね、今来たところだし」

「はあ…」

 大塚と呼ばれた男は五十代後半の小柄な男だった。浅黒い肌に、来たばかりと言いつつもすでに酔いが回っているのか頬に赤みが差していた。全体的にどことなくギラギラとした人物だ。口の端では笑っているが、今小林に言った言葉が嫌味なのだとはすぐに分かった。

「ところで、こちらの方が青木先生?」

 大塚は湿ったような視線で青桐を下から舐めるように見上げた。

 小林がちらりと青桐を見た。

「はい、あ…青木先生、こちらは大塚文靖先生です。先日代筆して頂いた『プレモア』の…」

「私の担当していたコーナーを引き継ぐそうだね、おめでとう青桐くん」

 にこやかに笑う笑顔の向こうにどす黒いものが見え隠れしている。

 青桐は素知らぬふりでにっこりと微笑んでみせた。

「はじめまして、青木です。大塚先生の後を任されるなんて、とても光栄です」

 ひく、と大塚の顔がわずかに引き攣った。

「ほう、そうかね」

「ええ。キイ先生、若宮先生と一緒に大塚先生がこれまで築き上げてきたものを壊さないように、いいものを書いていきたいと思ってます」

「それはまた殊勝な心掛けだねえ」

「ありがとうございます」

 隙なく口角を上げて笑みを作れば、大塚は気圧されたように黙り込んだ。代筆するにあたって青桐は大塚のことを少し調べてみたのだが、彼は若くして有名な文学賞を取り一躍有名になったが、その後はあまりぱっとせず、今では雑誌のコラムや定期的な連載を一、二本抱えているだけのようだった。そのうちのひとつが小林のところの『プレモア』という雑誌であり、つまるところ要するに、この世界で大御所と呼ばれている大塚は、食い扶持である大事な仕事をひとつ若手の作家に奪われたと言うことになる。

 ふと目を上げると、近くにいた人の集まりが、ちらちらとこちらを窺っている。ざわめきはほんの少し鳴りを潜め、目の届く範囲の誰もが聞き耳を立てているようだった。

 その中に先程小林に紹介され挨拶を交わしたキイと若宮の姿があった。彼女たちとは今度一緒にコーナーを担当する。ふたりとも心配そうな目を青桐に向けていた。

 大塚を見る目が少し怯えていて、彼女たちもきっと大塚に嫌味を言われたに違いないと青桐は思った。

 奪われたと感じるのはお門違いだ。失ったのは己のどうしようもなさと無駄に高いプライドのせいだ。

「あ、あのっ、青木先生、そろそろタクシーが」

 見合う大塚と青桐の間に割って入るように小林が言った。

 大塚がじろりと小林を睨みつけた。

 タクシーを呼んでもらった覚えはない。これは小林の気遣いだった。

「ああ、ありがとう」

 その厚意を素直に受け止めて、大塚に向けた笑みのままに小林に言うと、彼はなぜかひどく驚いた顔をした。

「それでは大塚先生、僕はこれで失礼します」

「──ああ、そうそう」

 会釈をし背を向けた途端、大塚が言った。

「君はあの桐白とうはくの御曹司だそうだね」

 足がぴたりと止まった。

 しまったと思うがもう遅い。うかつにも反応したことを後悔したとき、大塚が薄く笑う声がした。

「一流企業の後継者が手慰みで書くものなんて、どれくらいのものなんだろうねえ。ねえ小林君」

「え、いえそれは全く──」

「デビューもそちら側からの圧力があったんじゃないかってもっぱらの噂だよ? 桐白は出版関係にも顔が利くようだし。いいねえ、小説家というステータスがなくても青木先生は何も困りはしないんだから。ああいった…」

 肩越しにちらりと後方を見る。

 遠巻きに多くの人が様子を窺っていた。わざとのように、大塚は声を大きくした。

「ネットだか同人だかで書いていたかは知らないが、使い物にならない低俗な文をだらだら書き連ねているだけでさ、ようやく仕事にありつけた者の気持ちなんか、君みたいな恵まれた人間には、到底分かりそうもないからねえ」

「──」

 こいつ。

 ぴく、とこめかみが引き攣った。

 大塚の視線の先にはキイと若宮がいる。青桐にかこつけて彼女たちのことを遠回しに侮辱していることは明らかだった。

 確かにキイも若宮もネットの小説サイトや同人誌で長く活躍してきた経歴の持ち主だ。

 だが、それがなんだというのか。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 青桐はゆっくりと大塚に向き直った。

「…よく、僕のことをご存知ですね」

 大塚はにやりと笑った。

「いやねえ、桐白に知り合いがいるんだよ。上役の──まあ誰かとは言えないけどね。そいつをクビにされたりでもしたら目覚めが悪いからなあ」

「そうですか」

 なるほど。自分をよく思っていない重役の中の誰かということか。

 何人かの顔が浮かんだが、正直誰でもあり得る話だった。

「青木先生…、陳腐な話なんぞ書いておらんで、とっとと桐白をお継ぎになりなさいよ。ねえ、小林君もそう思うだろう」

「大塚先生、あの、もうその辺で…」

 行きましょう青木先生、と小林が青桐を促した。

 そうだ。こういう人間を相手にしてはいけない。

 大塚は小林を横目に睨み、吐き捨てるように言った。

「…大体あんな低俗な話を書いていたような連中と関わりを持つなんぞ、この出版社もどうかしとるんだ」

「は?」

 低く呟きを漏らすと、横の小林が青褪めるのが分かった。

「…青木先生、行きましょう」

 だが青桐は小林の制止を振り切っていた。

「随分と、よくお調べになったんですね」

「まあねえ、私も『プレモア』には長く在籍しているから、歴史のある雑誌の品位を落とさないようにと──」

 へえ、と青桐は笑った。

「では、もう大丈夫でしょうね」

「大丈夫? 何がだね」

「ああ、ですから」

 怪訝な顔をする大塚に、青桐はにっこりと唇で笑みを形作った。

「品位や尊敬の欠片もないあなたがいなくなれば、それで万事解決ですよ」

「……なっ」

 大塚の顔が怒りで引き攣った。

 その顔を見下ろし、低く呟いた。

「ガタガタうるせえんだよてめえ、老害が」

「──」

 背を向けようとして、青桐は肩越しに振り返った。

「ああそれと、俺は御曹司でも何でもねえ、ただの妾腹だよ。後継者は別にいる。もう一度よく調べ直すことだな」

 いつの間にか会場は水を打ったように静まり返っていた。

 今度こそ背を向けて青桐は足早にロビーへと向かう。

 くそ。

 まただ。またやってしまった。

 もうしないと決めていたくせに。

「くそ…っ」

 早く帰りたい。

 早く朔に会いたい。

「せ、せんせえ…っ」

 その後ろを慌てふためいた小林が追いかけて行った。


***


 由生子の指がカップの取っ手にかかり、ゆっくりと持ち上げた。

 朔も自分のまえに置かれたカップを持ち、口をつけた。

 ほんの少しだけ甘くしたコーヒーにほっと息を吐いた。

 ここは駅から車で連れて来られた、道路沿いのチェーン店のコーヒーショップだった。広い店内には混雑のピークを少し過ぎた雰囲気が漂い、ぽつりぽつりと客がまばらに座っている。

 朔と由生子は窓に近いソファ席で小さな切り株状のテーブルを挟んで向かい合っていた。

「藤本くんは変わらないね、何か高校の時もそうだったけど、すごくかっこよくなった」

「何言ってるの」

 朔は苦笑してカップを置いた。

「高瀬さんこそ変わらないよ。相変わらず綺麗だし」

「へへ、そう? ありがとう」

「うん」

 照れたように頬を指で掻く姿が高校生だった彼女と重なる。

 それにしても、と朔は言った。

「また高瀬さんに会うなんて思わなかったよ。まあ…青桐とも再会するなんて思ってもなかったんだけど」

 伏せた目を上げると、こちらをじっと見つめる由生子と目が合った。

「あのときは、本当にごめんなさい」

「もう昔のことだよ」

「私が余計なこと言ったせいで、藤本くんにいろいろ、誤解させて、…」

 由生子の目の縁がじわりと赤くなる。

「由也にも本当に悪いことをしたって、思ってる」

「高瀬さんのせいじゃないよ。俺があんな形でいなくなったから」

 ゆっくりと言い聞かせるように言うと、由生子の目の縁から、ぽたっと涙が落ちた。

「あんなふうになるなんて思わなかったの。私はただ、由也が、…なにか、きっかけになればと思って」

「きっかけ?」

「うん」

 由生子は人差し指で涙を拭った。

 その言葉に、朔は首を傾げる。

「…弱みじゃなくて?」

「…え?」

 涙で潤んだ目が、驚いたように見開かれた。

「弱みって、なんで」

「違うの?」

 朔は眉を顰めた。

「あれは、あのゲームは、高瀬さんが青桐の弱みを利用した遊びだったって、俺は…聞いて」

「誰に?」

「は…安西さん」

「花ちゃん?」

 由生子が驚いた声を上げた。

 ああ、これは本当なんだと朔は思った。

 由生子のほうが真実だ。

 安西はなぜ、朔に嘘を教えたのだろう。 

 朔は、うん、と頷いた。

「弱みが何かは知らない、でも家の事だって言われて、俺は納得したんだ。青桐はあんまり家族の話をしなかったし、いつもうちに来たがってたから。それに…」

 朔は思い出す。いつだったか母親が青桐にと買って来たお土産を渡したときの、嬉しそうな表情を。家族と食べたらと言ったら、嫌だと子供のように言い返されたことを。

「花ちゃんとは連絡とってるの?」

「うん。今も時々会うよ。前村も…、高瀬さん憶えてるかな、二年のとき図書委員だった背の高いやつ。あいつも、よく仕事でこっちに来るから三人で会ったりしてる」

「そう…、そうなんだ」

 俯いてしまった由生子を覗き込むようにして朔は言った。

「高瀬さんは、安西さんとは?」

 当時ふたりは友達だった。

 けれど今の由生子の様子から、そうではないと朔は知った。

 ゆるく、由生子は首を振った。

「そう。ごめん、嫌なこと聞いて」

「いいの」

 いいの、と由生子はもう一度言った。

「藤本くん」

 テーブルに置かれたカップを両手で包み、じっと由生子はそこに目を落として言った。

 もう冷めてしまったコーヒーの暗い表面に、彼女の輪郭が逆さに映っている。

「由也はね、青桐の叔母様とは血が繋がってないの」

「…え?」

「青桐の叔父様の愛人の子なのよ」

「どうして、…俺にそんな話するの?」

 そんなことは知らなくてもいいことだ。

 わざわざ知りたいとも思わない。

 怪訝な声で朔が問うと、由生子は視線を落としたまま言った。

「お願い、聞いて。藤本くん」

 思い詰めたような由生子の声に、朔は口を噤んだ。

「そのせいで由也は小さいときから、いつも、大事なものを奪われてきたの。最初は実のお母さんから引き離された。青桐の家には子供がいなかったから…女の私がいたけど、親戚筋だし、跡取りの数には入れられてなかったから」

「青桐の家って、資産家?」

「うん。ああ、そっか…」

 ふふ、と顔を上げた由生子は泣き笑いのような表情をしていた。

「由也はそういうの、藤本くんに話さなかったんだね」

 そうだね、と朔は言った。

 薄々は気づいていた。何か家が複雑なのかもしれないと。

 気づいていて──一度もそのことには触れずにいた。

 青桐が言わないのなら自分が訊く事ではないと、思っていたからだ。

「桐白って、聞いたことあるかな」

 曲がりなりにも商社に勤める身にはよく知った名前に、朔は頷いた。

「フォックスグローブの親会社だよね、それ…──え?」

 まさか、と朔が目を見開くと、由生子が困ったような顔で頷いた。

「そう、青桐家はその桐白の創業者一族なの」

「それはまた…」

 フォックスグローブは国内の六割の物流を担う大手企業だ。

「と言っても実際はそれほど華やかでもないよ。暮らし向きは至って普通だし、贅沢はそれほどしないけど」

 それは家訓のように染みついた習慣だと、由生子は言った。

「その代わり、株式公開もしてない同族経営だから…、家は地獄みたいなものだったよ。特に、由也にとっては」


***


 物心ついたころ実の母親と引き離された青桐は、正妻である義理の母親に育てられた。

 義母は大人しい人だったが、厳しい人だった。いささか厳しすぎるほど、それはある意味恨みも籠っていたのではないかと由生子は思っている。

 夫の愛人に対する嫉妬と恨みが、幼い青桐に冷たい刃のように常に向けられていた。

 教育には容赦がなかった彼女は、青桐が勉学に関係のないものに少しでも興味を持ったものを片っ端から取り上げていった。玩具、食べ物、お菓子、動物、漫画、遊び、友達との時間。わずかな暇さえ。それにほんの少しでも不満を漏らせば、精神的な圧力をかけていく。

 物理的な痛みはなくても、幼い子供にとって、それがどれだけの苦痛であったか、想像することは容易ではない。

 それを見るに見兼ねた青桐の父親の姉、つまりは由生子の母親が自分の娘も跡目に入れろと打診した。同い年の子供がふたりいるのなら使わない手はない。他者を拒む同族経営には都合のいい話だった。それは由生子自身が両親に提案した事だ。会うたびに瞳の光が失くなっていく同い年の従弟が心配で、不憫でならなかったからだ。

 親族間で話し合いが持たれたのはそのすぐ後だ。

 そうして由生子と青桐が揃って跡目を継ぐこととなり、義母の苛烈な青桐への当たりは次第になりを潜めて行った。

「でもその頃にはもう、由也は心が壊れてて」

 言葉が出てこない。

 話が出来ない。

 小学校に上がってすぐ、青桐は失語症と診断された。

 それからまたまともに話せるようになるまで、二年の時間がかかった。

 けれどその過酷な経験は、青桐の中から大事なものを奪っていた。

 とても大事な。

『由也、ねえ、由也?』

 由生子の記憶の中で、庭の隅に佇んだ青桐は顔を上げた。

 色のない目が由生子を見る。

『…由也?』

 いつも、何かを言いたそうにしているのに、じっと唇を噛み締めている。



「由也は、言えない言葉があるの」

「…言えない言葉?」

 うん、と由生子は頷いた。

「失くしたまま、まだ取り戻せてないの」

「……」

 朔は由生子の言葉を噛み締めた。

 言えない言葉。

 いつも…何かを言いたそうにするたびに、苦しそうにしている。

 朔が答えを求める度に。

「それ、って…」

 由生子は顔を上げた。

「藤本くん」

 その目の縁に涙が滲んでいる。

「由也はね、ずっと藤本くんに言いたいんだよ」

「何を?」

「分からない?」

「…──」

 なめらかな白い由生子の頬を涙が伝って落ちた。

「あんなに想われてて分からないの?」

 返答に詰まると、喉の奥を固い塊が通り過ぎて行った。

 由生子の言葉がゆっくりと体中に浸透していく。

 言えないから、答えてくれなかった。

 言葉に出来ないから──

 その言葉を。

「藤本くん、今度は消えないで」

「──」

「あいつを置いて行かないでよ…っ」

 くしゃ、と由生子の顔が歪んだ。

 口紅を綺麗に塗った唇を噛み締めて、嗚咽を堪えている。

「高瀬さん…」

「お願い、藤本くん。あいつを、置いて行かないで」

 落ちた涙がぱたぱたとテーブルに落ちた。

 コーヒーの表面に落ちた一粒が波紋になる。

「どれだけかかっても、きっと、今度こそ大丈夫だから」

 一緒にいてあげて欲しい。

 朔は部屋に置いたままの契約書を思い浮かべた。

 もしも思い違いではないのなら──

 同じ気持ちなら。

 もう、あれはいらないだろうか。

「…ん」

 と朔は頷いた。

 ポケットからハンカチを取り出して由生子の頬を拭う。

「そんなに泣かないで」

 そう言うと、由生子の目から大粒の涙が零れ落ちる。

 朔はそれを受け止めながら、胸の中で契約書を破り捨てていた。


***


「…朔?」

 玄関を開けると、家の中は真っ暗だった。

 しんとした家の奥に向かって声を掛けながら、青桐は廊下を進んだ。

「朔?」

 リビングは暗闇だった。朔の姿はない。

 もう寝たのか?

 時計は二十三時を指していた。いつもならまだ起きている時間だ。

「──」

 背中を嫌な汗が伝う。

 青桐は足早にリビングを出て、朔の部屋のドアを乱暴に開けた。

「……っ」

 部屋の中に朔はいなかった。

 ベッドは冷たい。

 帰って来た形跡がない。

 まだ、帰ってない?

「どこに…」

 どくどくと、心臓が早鐘を打つ。

 外に探しに行こうと部屋を出ようとして、慌てていた青桐はサイドテーブルに積まれた本に指先を引っ掛けてしまった。

「くそ」

 足下に散らばった本を苛立ちながら拾い上げる。

 ひらりと、一枚の紙が足下に落ちた。

 拾い上げようと伸ばした指先が強張った。

「な…」

 暗がりに慣れた目に映ったそれは、賃貸マンションの契約書だった。





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