18
「ああ、おはよう、藤本くん」
早いね、と後ろからかかった声に朔は振り向いた。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね」
堂島の穏やかな笑みに朔も自然と笑顔になる。
今日は月に一度のミノリ屋での読み聞かせ会の日だ。
朔は準備のために開店前の事務所に詰めているのだった。
「でもまあ、すっかり藤本くんで定着しちゃったねえ。はいこれ」
「うわ、いただきます」
差し入れのコーヒーを朔の前に置き、堂島は事務机に座った。キーボードを叩き、パソコンを起動している。
朔はコーヒーを手に取りひと口飲んだ。紙コップのそれは近くのコーヒーショップのものだ。ちょうどよい甘さが嬉しい。
朔は堂島と向かい合う位置に座り直した。
「先輩が寂しがってましたよ」
「松田くんね、元気してる?」
「ええ。早く戻りたいって連絡うるさいくらいです」
「はは、だろうねえ。彼子供好きだから」
松田は朔の会社の先輩だ。以前ミノリ屋で読み聞かせの企画を担当していた。読み聞かせ会が軌道に乗り、朔が仕事に慣れてきたころに企画を離れた。現在は共働きの妻と共に絶賛育児休暇中だ。
「んーでも、うちとしちゃ、ずっと藤本くんに来てもらえれば嬉しい限りだよ」
絵本と台本に目を通している朔に堂島は言った。
「そう言ってもらえると。上司も喜びます」
「若いお母さんたちにも人気だしねえ」
「やめてくださいよ」
揶揄う口ぶりに朔は顔を上げて苦笑した。
それから少し世間話をして、堂島は開店準備のために店舗へと向かった。朔は事務所でひとり読み聞かせのリハーサルを済ませる。今日の読み聞かせは二部制だ。午前と午後のどちらに人が多く集まるのかを検証するためだった。
「藤本さーん、そろそろいいですかあ?」
アルバイトらしき女の子が事務所のドアから顔を出した。
はい、と朔は返事をして振り向いた。
「今行きます」
目の前に座る子供たちが、零れるような眼差しで朔をじっと見つめていた。
まるで、瞬きをするのを忘れてしまったかのようだ。
「…あんまりうさぎが月ばかり見ているので、狼の王はすこしだけ、すこうしだけ、いじわるをしてみました。夜の空に大きな声で鳴くと、どこからかやって来た黒い雲が、うさぎが見ているまえで、みるまに大きな月をかくしてしまったのです」
ええっ、と後ろに座っていた男の子が小さく声を上げた。
可愛いな、と朔は思った。
高校生だったあのころ、図書委員の朔に懐いてくれていた子供たちを思い出す。
皆元気にしているだろうか。
ふいにひとりの男の子の顔が浮かんで、朔は懐かしさでいっぱいになった。
「夜が月の明かりを失くしてしまったから、さあ、大変です。うさぎは一生懸命背伸びをして、狼の王に言いました。どうしてかくしてしまったの?」
今日の読み聞かせに選んだ本は、先月読んだ絵本の二作目だ。狼とうさぎの話。アンケートではとても好評だったので今回はその続きにしたのだが、実際のところこの第二作目はほとんど売れず陽の目を見なかった。
けれど朔はとても気に入っていた。
「知りたいの? と狼の王は言いました。うさぎがこくんと頷くと、狼の王はついておいでと言って、真っ暗な夜の森を歩き出しました」
作者は無名の新人だ。この本がいいよと教えてくれたのは堂島が懐かしがっていた先輩の松田だった。この話を知るきっかけをくれた松田には感謝しかない。それは、どこか自分と青桐のことに似ていると思ったからだった。
狼の青桐と、うさぎの自分。
あるいはその逆かもしれない。
どうしようもない狼の自分と、ひたむきなうさぎの青桐。
「──」
うさぎの長い耳をした青桐を思い浮かべてしまい、仕事中だと言うのに思わず朔は頬が緩みそうになってしまった。
昼休憩を挟んで午後の部も無事終わり、ほっと朔は息を吐いた。
「おにーちゃんばいばーい」
「ばいばーい」
「ばいばい、また来てね」
さよなら、と書店のスタッフと共に子供たちを見送った。
あとは様子を見に訪れた上司に集客のデータを見てもらい、片付けを済ませれば今日は終了だ。
「お疲れ藤本。じゃあこれ貰っていくな」
「はい。あ、これもですよチーフ」
「お、やば。忘れるとこだったわ」
事務所に戻ったところで慌ただしく出て行こうとする上司を呼び止めて、朔はデータの入ったUSBを渡した。今日は他の書店でもイベントを開いていて、彼はその全部に顔を出さなければならず、忙しそうだ。
「月曜はおまえ代休だから、報告書は火曜でいいわ」
その言葉に朔は首を傾げて言った。
「自宅で作成して送りましょうか?」
「ばか、休みは休みだろ。しっかり休むんだよ。続かねえぞ」
何言ってんだ、という上司に朔は苦笑する。
「はは、分かりました」
「ん、じゃあな、俺もう行くわ」
「戸村によろしく」
「はいよ」
ひらりと手を振って上司は事務所を出て行った。廊下でお疲れさまですと言う声がして、入れ替わりに堂島が入ってくる。
「公通くん相変わらず忙しいねえ、お茶持って来たんだけど間に合わなかったなあ」
手にしたトレーには三人分の湯飲みが載っていた。
「すみません、他のところにも行くみたいで」
「チーフともなれば大変だねえ」
はい、とお茶を出されて朔は礼を言った。テーブルの上の資料を片付けて鞄に仕舞う。よいしょ、と堂島が向かいに腰を下ろした。
「そういえば藤本くん、青木先生との同居はどんな感じ?」
「ええ、まあ──」
不意な話題に朔はどきりとした。
堂島は、にこにこと笑っている。
「いや、同級生と同居するって中々ないことだから。楽しそうでいいなあって思ってたんだよねえ」
「そう見えますか?」
「え、見えるよ? 羨ましいなあって。僕なんか同級生とは疎遠だし…どうかしたの」
「はあ、まあ…」
言葉を濁すと、朔の言葉を待つように堂島は茶を啜った。
「このまま居つくのもどうかなあって思ってまして」
「青木先生がいいって言うなら、いいんじゃないの?」
「それはそうなんですが」
ことん、と堂島は湯飲みを置いた。
「まあそうねえ、お互い恋人とか出来たらそうはいかないもんだしねえ」
「──」
湯飲みを持つ手が一瞬止まった。
恋人。
──青桐の。
誰か別の、知らない人。
「やっぱり、そうですよね」
「うん。青木先生、あれだけイイ男だからまわりが放っとかないでしょう。すっごくもてるって、ほら、あの、小林さんも言ってたよ」
冗談ぽく笑う堂島に、ぎこちなく笑みを返しながら、朔は胸の奥が重くなったのを感じた。
そうか。そう、そうだ。
そんな未来もあるのだ。
どうして気づかなかったのだろう。
「あの、堂島さん」
朔の声に堂島が顔を上げた。
「その…、前に紹介してもらった部屋、もうどなたか契約されましたか?」
「え、いやあ、まだ空いてると思うけど?」
堂島の顔には、どうしたの、という疑問がありありと浮かんでいた。
「ああごめん、僕余計なこと言っちゃったかなあ」
「いえ、違うんです。堂島さんのせいじゃ…、早めに出ようと思っていたのにずるずる長引いてるのが気にはなっていて」
申し訳なさそうに眉を下げる堂島に、朔は微笑んで、もう冷めてしまった湯飲みを手に取った。
「ああいう仕事ですし、あまり邪魔をしても申し訳ないと思ってたんです」
半分は嘘で半分は本当だ。青桐は最近仕事が増えたと言っていた。
目を伏せていた朔は堂島が何とも言えないような顔をしていたのに気づけない。
「…そう?」
気遣うような声に頷いた。
それから朔は堂島に不動産屋と連絡を取ってもらい、内見する日をその場で決めてしまった。
「それじゃ、お疲れさまでした」
ミノリ屋を出たときには日は傾きかけていた。
今日は青桐も午後から用があると言って外に出ている。夕飯を外で食べる約束をしていたので、朔は少し重い気持ちを引き摺ったまま駅の方に向かって歩き出した。
***
顔を見合わせるなり嫌な顔をするのはもう挨拶のようなものだ。昔はお互いここまでではなかったが──青桐は由生子の存在などどうでもいいことだったし──あのことがあってからは確実にそうだ。
「ちょっと、こっちもそんなに暇じゃないんだけど。時間ぐらいたまには守れないのかなあ」
あからさまな嫌味を聞き流して、青桐は向かいの席に座った。
「書類は?」
さっと手を差し出した青桐に由生子は呆れた視線を寄越した。
「なんか頼んだら?」
「おまえと顔突き合わせて食事する気はねえよ」
「ああそう。あーそうですか」
タイミングを見計らったように来た店員に、由生子はアイスティーとサンドイッチを頼んだ。それを書き止め、つと、店員は青桐のほうを向く。
「ああ、俺はすぐ出ますので」
「あ…、はい、かしこまりました」
青桐に見上げられた店員が慌てたように言った。会釈をして立ち去る彼女の顔は赤く染まっていた。
「ほん…っと、相変わらずタラシよね。見ただけで女の子赤くするとかどんな人間よ」
「俺のせいじゃねえ」
「でしょうね」
ため息をつきながら、由生子は椅子に置いていた大きなバッグから書類入れを取り出しテーブルに置いた。
「いつもより多めだけど、目を通しといて」
「ああ」
「そっちから連絡来るなんて思わなかったから、揃わなくて入ってない分もあるよ。どうする? 郵送でもしようか」
「そうしろ」
由生子がじっと青桐の顔を見た。
「上手くいってる?」
書類入れに目を落としていた青桐が顔を上げた。
「藤本くんと、ちゃんと向き合ってるの?」
「おまえになんの関係が?」
「あるでしょ、関係なんて。私藤本くんのこと好きだよ。すごく、…私に優しくしてくれた」
青桐が怪訝そうに眉を顰めた。
「あんなことになって本当に悪かったと思ってる。だから、今度こそ上手くいって欲しいよ。由也」
「……」
ふっと目元を緩めて、由生子は静かに言った。
優しい声だ。
姉のような、母親のような、けれどそのどちらでもないことはふたりともよく分かっている。自分たちはいわば戦友だ。家や家族、血の繋がりという名のどろどろとした底のない沼をふたりでどうにか切り抜けて、ここまで辿りついて来た。
「おまえに言われなくても、そんなこと俺が一番よく分かってんだよ」
顔を背けて苦々しく青桐は吐き捨てた。
由生子はその表情を見てふと不安になった。
きっと言える。
そう断言するのは簡単だ。けれど青桐にはそれがどれほど大変なことなのか由生子はよく知っている。
知っているからこそ、このどうしようもなく不器用な従弟が未だ苦しんでいることに気づいてしまった。
「本当に大丈夫だよね?」
「うるさい」
がたっ、と青桐が立ち上がった。
書類入れを鷲掴み、注文を持って来た店員を押しのけるようにして出て行く後ろ姿を、由生子は何か考えるような目で見つめていた。
「……」
***
「さて、と…」
待ち合わせには少し時間があったが、他のところで時間を潰すほどではなかった。目印の駅前に立つ銅像前の広場の端に移動し、青桐にメッセージを送った。確かこの近くで用があると言っていたから、終わり次第すぐに来るだろう。
送信を押すと、画面が暗くなるまえに既読がついた。それと同時に了解、と返事が返ってくる。朔は既読をつけてスマホをポケットに仕舞った。
小さく息を吐く。
あの夜から数日間はぎこちなかったけれど、今はもうそれもない。不意に、部屋を見に行く手配をしたことの後悔が湧き上がってきた。
決まったら、なんて切り出そうか…
街路樹の銀杏がはらはらと落ちてくる。冬に変わる直前の、この少し冷たい空気が好きだ。
好きだけれど。とても好きだけれど。
広場を囲うようにあるガードレールに腰をかけ、ぼんやりと大通りを流れる車の流れを見ていた。
もう夜だ。
「あの、すみません」
「はい?」
呼び掛けられて、朔は振り向いた。
綺麗な女の子2人が傍に立っていた。
知らない人だ。
「あの、ひとりなんですかあ?」
何だろう、と見つめていると、声を掛けてきたほうの子がにこりと笑った。
「待ち合わせですか? 彼女さんとか?」
「…は?」
「ふふ、びっくりしました? さっきからいいなあってずっと見てたんですよ」
「え、と…あの」
「よかったら、ご飯一緒にどうですか」
悪戯っぽく笑う女の子はとてもこういうことに慣れているようだ。固まってしまった朔を面白そうに眺めている。からかわれているのだろうな、と朔は思った。
「悪いけど、待ち合わせはほんとだから、もういいかな?」
「ええー」
「待ち合わせって男の人?」
今まで見ているだけで終始後ろに控えていた子が、逃げ場を奪うように朔に一歩近づいた。
あまりに近い距離に、体が触れそうになる。朔は出来るだけ身を引こうとするが、後ろはガードレールで塞がれてこれ以上下がれない。
「じゃあその人も一緒だったらいい?」
「え…」
「お兄さんのお友達だったら、きっとすっごくかっこいいよね」
どこかで言われたような台詞だ。
同じようなことを言われた。
嫌だ。
強烈な嫌悪感が朔の全身を駆け巡る。
嫌──いやだ。
「──あ」
後退った踵が、ガードレールの支柱に引っ掛かり、朔はバランスを崩した。目の前にいた彼女が、あ、と手を伸ばした。
視界がぐらりと揺れて、倒れる、と思った瞬間、後ろから体を抱き止められた。
「…え?」
斜めに捩れた体、抱き止められた上半身は腕の中に閉じ込めるように、ぎゅっと胸に囲い込まれた。
こんなことをするのは、ひとりしかいない。
彼女たちが息を呑む気配がした。
「俺の連れになんか用?」
低い声が押し付けられた胸から聞こえてくる。
「あお──」
顔を上げようとすると、大きな手が朔の目を覆った。そのまま身動きが出来なくなる。
「え…、あの、わたしたち…っ」
「話を、してただけで」
女の子たちの声がかすかに震えていた。
どんな状況か、見えなくても想像できる。
青桐がどんな顔をしているか。
朔は怖くなった。
昔同じようなことがあった。
このままではまた青桐が人を傷付けてしまう。
青桐、と朔は腕の中でもがいた。けれど、青桐は彼女たちを罵倒などしなかった。
「悪いけど、もう時間だから」
静かにそう言うと、朔の体を離し、手を取った。
「行こう」
見上げれば、青桐は朔を見下ろしてかすかに微笑んでいた。
その顔に朔は見惚れた。青桐が朔の手を握り、ゆっくりと歩き出はじめた。
広場は人でごった返していた。土曜日の夜だ。待ち合わせをする人たちの間を、急ぐこともなく青桐は進んでいく。途中で投げつけられる無遠慮な視線に朔は顔が向けられなかった。
「ちょっと、手、繋がなくても…」
「いいから、こっち」
すぐだよ、と前を向いたまま青桐は言った。
喋る口元から白い息が零れる。
「今日は、…怒鳴らなかったな」
ああ、と青桐は言った。
「昔、約束したよ」
人を傷付けることを言ってはいけない。
言えば、青桐が嫌われてしまうから。
「嫌われた俺は嫌いだって、朔が言ってたから、もうしないよ」
「そうだっけ…」
本当は覚えている。けれど何と返すべきか分からず、朔は忘れたふりをした。
「そうだよ」
青桐が言った。
「…そうだったかな」
「そうだよ」
通りを走る車のライトが、青桐の顔をさっと照らした。
「だからずっと、変われるようにってそうしてきたんだ」
足を止めた青桐がゆっくりと振り返る。
通りは人が途切れることなく歩いていた。流れの中で立ち止まってしまった自分たちを、通り過ぎる人々が少し邪魔そうな目で見ている。
「朔が言ったどんなことも、俺が忘れるわけないよ」
どこか寂しそうに青桐は微笑んだ。
どんなことも。
「朔?」
気がつけば、朔は青桐に手を伸ばしていた。青桐のコートの袖を指先でぎゅっと掴む。
離れたいほど好きだ。好きだから離れたい。どうにかなってしまうまえに。
そう思っているのに。
今日、その為の行動をしてきたばかりだというのに。
それなのにどうして今、触れているのだろう。
矛盾してる。
抱き締めたい。
抱き締めて、好きだと──
言いたくて。
「もう、──行こう? 邪魔になってる」
けれど駄目だ。
青桐の腕を取って、朔は歩きはじめた。
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