17


 今から帰ると連絡が来てから、時間が経ち過ぎている気がした。

 けれど実際には二十分も経っていない。

 どうしてこうも不安になるのか。

「駄目だ」

 落ち着かない気持ちを持て余した青桐が迎えに行こうと思ったとき、玄関が開く音がした。

「ただいま」

 ドアに飛びついて開けると、廊下の先の明かりの中で靴を脱いでいる朔の姿があった。

「──おかえり」

「ごめん、遅くなって」

 よかった今日も帰って来た。

 夕飯は、と訊かれて待っていたと言うと、朔はくすりと笑った。

「じゃ、すぐご飯にしようか」

 向けられた笑顔にほっと体から力が抜けた。

 いつものように朔が差し出した荷物を受け取って──そして。

「──」

 甘い香りがしたその瞬間、強く朔の腕を掴んでいた。


***


 荷物が足下に落ちた。買ってきたものがバッグから出て廊下に転がる。朔が逃げるよりも早く青桐はその項に顔を埋めていた。

「なっ、に、ちょ…っ」

 身を竦める朔の肌に、青桐は鼻先を擦りつけた。鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。びく、と朔は肩を竦めた。

「…青桐、っ…」

「匂いする」

「え…?」

「香水」

 甘い匂いが朔の体から香っている。

 襟元や背中から。

 これは移り香だ。

 しかも女。

 どこの誰かも知らない──他人の匂いだ。

「どこでついた?」

「──あ」

 思い当たることがあったのか、朔は小さく声を漏らした。

「…電車だよ。込んでたから、多分…」

「後ろ、女だったんだ?」

「うん、そうかも」

 ごめん、と朔は言って青桐の胸を押した。

「香水苦手だっけ。先に着替えてくるよ」 

 朔はそのまま後退り、目も合わせずに背を向けた。青桐の胸のどこかが、ぎし、と音を立てて軋んだ。

「──」

 気がつけば、青桐はまた朔の腕を掴んでいた。

 朔が驚いた顔で振り向いた。

「なに──」

「脱いで」

 掴んだ手に力を込めた。

「ここで脱いで」

 自分の胸に引き込んで背中を鷲掴んだ。力任せにジャケットを引っ張り肩を抜こうとすると、あまりのことに驚いた朔が身を捩った。

「青桐っ」

「いいから」

「馬鹿、何す、っ、自分でっ…!」

「だめ」

 逃げようとする朔を片腕で抑え込む。

 顔を肩に押さえつけると、押し返す指が青桐の胸元をきつく握りしめた。その息遣いが肌を湿らせて、青桐の体温が上がる。

 理性が揺らいでいく。

「ちょ、っと、まっ」

 青桐、と喘ぐように自分を呼ぶ声が、耳元でした。

 腹の底に溜まる熱を青桐は感じた。

 どろどろと、それは目の前を塗りつぶしていく。

 欲しい。

 欲しい──朔が。

「…脱げよ」

「──」

 気圧されたように朔が息を呑んだ瞬間、青桐の中で何かが弾けた。

 一気に服を剥ぎ取り廊下に投げ捨てた。ネクタイに指を掛ける。朔が慌ててその手を止めようと掴んだが、青桐は構わなかった。壁に朔を押し付け、乱暴にノットに指を掛けて引き下ろした。ネクタイはいとも簡単だった。容易いほどにあっけない。あと少しで解けそうだ。

 次は──

 そこで、青桐は強く胸を突かれた。

「っ!」

 ぐらりと体が傾いだ。

「いい加減にしろよ!」

 はっ、と青桐は我に返った。

 朔の首に緩くかかったネクタイの端が自分の手に絡まっている。

 ゆるゆると顔を上げると、朔のワイシャツはぐしゃぐしゃに乱れて、襟元のボタンが外れていた。

「なんでだよ、なんでこんなことするんだ…! 自分でやるって言ってるだろ…っ」

「朔」

 今、自分は何をしたのだろう?

 耳障りな荒い呼吸が耳元で聞こえる。

 それが自分自身のものだと、青桐はようやく気づいた。

 薄暗い廊下に散乱した荷物。こちらを見上げる朔の顔は何かを堪えるように歪んでいた。

 高揚した熱が冷めていく。

 違う。

 違う、こうじゃない。

 こんなんじゃない。

 こんなことがしたかったわけじゃない。

「──朔、ごめ、ん、…俺」

「なんで…、」

 朔はそこで黙り込んだ。

 青桐は震える指を握りしめた。何か言わなければと、苦し紛れに青桐は呟いた。

「ごめん…匂いが、嫌だったから…」

「それだけ?」

「え?」

 顔を上げると、 朔はまっすぐな視線を青桐に向けていた。

 落ちてきた前髪が片目を覆っている。

「理由…、それだけなのか?」

 理由?

「それだけって…」

 そんなものはひとつだ。

 見つめ合ったまま、出せない声を青桐は口の中で何度も転がす。

 けれど唇は薄く開くばかりで、何も出てこない。

 吐き出せない思いはまた自分の中に戻っていく。

 駄目だ。ちゃんと言うんだ。

 言わないと。

「青桐は…」

 朔がほんの少しだけ足を踏み出した。

 その動きで解けたネクタイが朔の首から滑り落ちた。絡んだ青桐の指にぶら下がる。

 俺は?

 朔は何かを言いかけてやめ、ふっと口を噤んだ。

「…シャワー浴びてくる。それ、悪いけど運んどいて」

 そう言って青桐のまえを通り過ぎた。足早に廊下の角を曲がり遠ざかる足音。二度ドアの開く音がして、浴室に入っていくのが分かった。

 かすかに聞こえ始めた水音に、立ち尽くしたままだった青桐は力なくその場にしゃがみ込み、両手のひらで顔を覆った。



 ざあ、と流れ落ちる冷たい水に朔は頭を突っ込んだ。

 静まれ。

 静まれ、心臓。

「は…っ、…」

 跳ねまわる鼓動を宥めたい。深く息を吸い込みたい。けれど呼吸は浅くて、苦しかった。肩で息をしながら、温くなりはじめたシャワーの中に朔は蹲った。

 項に触れた青桐の肌の感触。

 抱き締めてくる腕。

 何度もあった。これまでにも何度もあったことだ。

 大丈夫。

「……」

 腰の奥で鈍い熱がわだかまっている。

 朔は手を伸ばした。

 解放しなければ辛いだけだ。

 ん、と奥歯を食いしばった。

 声を漏らしてはいけない。

 気づかれては駄目だ。

「…っ、あ、は…」

 罪悪感に泣きそうになる。

 早く、と願いながら、朔は両手で擦り立てた。

「──っ、…っん」

 快感が背筋を駆け抜ける。

 きつく目を瞑った瞬間、瞼の裏が白く弾けた。

「は……」

 熱いシャワーが何もかもを洗い流していく。

 次第に鼓動が落ち着いていき、朔は深く息を吸い込んで、吐き出した。流れ落ちる水を仰ぎながらぼんやりと思う。

 いつまで隠しておけるだろう。

 いつまで…

 もういっそ、この気持ちを吐露して楽になりたい。

 安西は何も言うなと言っていたが、もう限界な気がした。

『俺とまた友達になって』

 友達だと言いながらも過剰なまでの干渉や接触に、勘違いをしそうになる。自分に対しての青桐の距離感は高校生のときから近かった。他の誰にも向けない執着を隠しもせずにぶつけてくる。

 だから間違えてしまう。

 慣れていたはずなのに。

『理由…、それだけなのか?』

 さっき、思わず口にしてしまった。

 馬鹿だな、と思う。

 答えはいつも返ってこなかった。

 青桐が何も言わないのは、きっと本当にそれだけだったからだ。もしも──万が一にもそうなら、もっと早くに言われていてもおかしくはない気がした。

 好きなのは自分だけ。

 自分だけだ。

 自嘲気味に朔は笑った。

 香水か…

「……」

 花と話がしたい。

 けれどそれも出来ない。今夜、安西と前村は一緒にいるだろう。時々にしか会えない彼らの邪魔をしたくはなかった。

 朔はシャワーを止めて、ゆっくりと立ち上がった。

 何でもない顔をするのは慣れている。深く息を吐いて、浴室を出た。

 ドアの向こうから気配がした。

「…朔?」

 こん、とドアがノックされる。

 朔は体を拭く手を止めてじっとドアを見た。

「何?」

 どきりとした。

 ずっと、そこにいたんだろうか?

 まさか。

 身じろぐ気配に動けずにいると、青桐が言った。

「メシ、作ったから…出てきて」



「…うわ」

 リビングに行くとテーブルの上にはふたりぶんの食事が用意されていた。

 カレーだ。

 それと、さっきスーパーで買ってきたポテトサラダ。

 カレーはレトルトで、何日か前に安売りしていたので青桐の昼用にと、買い置きしていたものだ。ご飯も保存用のパックのものだろう。

「青桐が…?」

「これくらい出来る」

 朔の後ろに立った青桐がぼそりと言った。

 そっか。そうだよな。

 濡れた髪の先から、雫がぽたりと落ちた。

「風邪引く」

「え?」

 よく聞こえなくて振り向こうとした顔に、ばさ、とタオルが落ちてきた。

「わ、──ちょっと」

 大きな手がどこかぎこちない手つきで髪を拭う。タオル越しの指の感触に朔は眩暈がしそうになった。

「いい、自分でするって」

 駄目、と青桐は手を止めずに言った。

「いつもちゃんと拭かないだろ」

「そうだけど」

 今日は特に慌てて出てきたからだ。

「いいから、させて」

 縋るような声で言われては断れない。

 頷くと、朔は青桐がしやすいようにと俯いた。

「…さっきは、ごめん」

 青桐がぽつりと言った。

「怒ってる?」

 朔の胸がぎゅう、と絞られるように痛んだ。

 拭いそびれた雫がまた落ちて、頬を伝う。

「…怒ってないよ」

 怒りなんてない。

 こんなに好きなのに、むしろ触れられることが嬉しいとさえ思うのに、どうして怒れるだろう。

 じわっと目の奥が熱くなった。

 込み上げる愛しさに泣きそうになる。

 今すぐ好きだと言えたら、言ってしまったら、青桐はどう思うだろう。浴室の中で吐き出した、あの浅ましい気持ちを抱いていると知ってしまったら、どんな目で自分を見るのだろう。

 思いを隠したまま笑うのは心が軋むようだ。

 本当に、いつまでこうしていられるのか。

 出来ることなら少し離れたかった。

 好きだからこそ、距離が欲しい。

 離れる口実を見つけられるだろうか──青桐の優しい指に身を委ねたまま、朔はそんなことを考えていた。


***


 久しぶりに見た夢の余韻がまだ体のどこかに残っている。

 真夜中、原稿を打つ手を止めて、青桐は仕事部屋を出た。朔の部屋の前で立ち止まり、そっとドアを開ける。ベッドの上の布団は朔の体の形に膨らんでいた。近づいて、スプリングが軋まないようそっと両手をついて覆い被さると、丸くなって眠る朔の目元に唇を落とした。

 力任せに掴み上げた腕を撫でる。

 どうかしていた。

 力尽くで朔を手に入れて、一体何になるだろう。

 好きになって欲しくて、自分だけを見て欲しくて、もっと優しくしたいのに。

 あんなに乱暴にしてしまった。

 体だけを手に入れても心がなければ意味がない。

 ずっとそう思って大事にしてきたくせに。

「ごめん…」

 青桐はもう一度朔の頬に口づけて部屋を出た。

 しんとしたリビング。

 冷蔵庫から朔が帰って来るまえに作ったものを取り出した。

 冷たいスープ。

 朔が目の前からいなくなってからずっと青桐はこれを続けてきた。

 朔の面影の残る学校の図書館で、誰に何を言われても一日中籠っていたときに見つけた、他愛ない子供向けの本の中にあったおまじないだ。

 願いを叶えてくれる。

 これだと思った。

 藁にも縋る思いだった。

 もしも、もしも叶ったら、会いに行こうと思っていた。由生子が探し出すまでもなく、青桐はずっとそのつもりだった。

 これを飲み干せることが出来たなら、──

 スプーンで口に運ぶ。

 飲み込んで、また口に入れる。広がる味は嫌な記憶と繋がっている。

 青桐は顔を顰めた。

 もう、昔のことだ。

「…っ、」

 こんなどうでもいい記憶を塗り替えて願いを叶えたい。

 言葉にして伝えたい。

『理由…、それだけなのか?』

 そんなわけない。

 ちゃんと言うから。

 ちゃんと答えるから。

 朔。

 俺を、嫌いにならないで。

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