16
原稿を読んでいた小林が、少し興奮したような表情で顔を上げた。青桐はカップを持ち上げてコーヒーをひと口飲んだ。
「青桐さん、これ、すごくいいです」
今読み終えたばかりの箇所をぱらぱらと捲って辿り、しきりに頷く。
「話の筋が大幅に変わって、すっきりした感じで。随分書き直されたんですね」
「ああ、…まあ」
「感情移入もしやすい構図で。続き、気になります」
「じゃあ、ここまではこれで?」
「はい。ええと、それで、このあとの展開はどう考えてらっしゃるんですか?」
頭の中にある構成を、青桐は小林に話して聞かせた。本当はメモやノートに取るのが一般的なのだろうが、青桐はそうしたことはせずに頭の中に溜め込んでおくほうだ。ぼんやりとつかみどころのない靄のような物語を、書き出すことによって無理矢理箱に詰め、形作ってしまうのは嫌だった。
創作は流動するものだ。
心の中で漂わせて、好きなように動くのを感じていたい。どう終わらせたいのかさえしっかりとしていれば、大丈夫だと確信している。
「…うん、そうかあ、そうくるんですね。うわ、楽しみだなあ」
「上手くいけばだろ。また変わるかもしれないし」
「そうですね。でも、楽しみです」
そのあとも打ち合わせは続いた。先月代筆をした雑誌のショートストーリーは中々評判がよく、入院している作家の復帰を待たずして執筆陣を刷新することになった。今までひとりで担っていたコーナーを、再来月号から三人の作家でローテーションを組んで行う。そのうちのひとりが青桐で、二カ月後の号から加わることが決定した。
「今までは毎回こちらが決めたテーマで書いていただいていましたが、刷新するならその辺りも変更となります」
ふうん、と青桐は相槌を打った。
「じゃあ…好きなように決めていいってことか? こっちで」
「はい。テーマが被らないように事前に決めていただく案もあるんですが、まあ、テーマなんてその時その時の気分に左右されやすいものですから、最初の内は前の回を担当する作家さんのテーマを次回の作家さんに早目にお伝えして、それで先生方に決めてもらえればと思います。回を重ねるごとにこのやり方も徐々に変わるかとは思いますが、しばらくはこれで」
「…分かった」
青桐が頷くと、話の区切りとばかりにテーブルに置いてあった原稿をトントンと揃えながら、そういえば、と小林は顔を綻ばせた。
「藤本さん、まだ先生のところに?」
店員にコーヒーのおかわりを頼もうと考えていた青桐は、そうだけど、と答えた。
「なんだよ?」
まだ、と言われたのがなんだか癇に障って、小林をむっとした顔で睨みつける。
「い、いえ、別に深い意味はっ…」
「当分はいると思うけどな」
多分、きっと、それ以上の断言できる言葉が見つからなくて、青桐は噛み締めた口元を隠すように頬杖をついた。
「でも、意外でした。せ…青桐さんはてっきり傍に人の気配がするのを嫌がられる方かと」
「いや──」
そういえば、朔に自分が家に人を入れない人間だなどと言ったのはこいつだったなと、青桐は顔を顰めた。小林はよく、悪気なく余計なことを言う。あいつに似ていると思い、苛ついた。ひと言多い人間に、よくよく縁でもあるのだろうか。
「あいつはいいんだよ」
「はあ」
テーブルの上に置いていた青桐のスマホが短く震えた。目を向けると表示されていたのは、その苛つかせる本人だった。
何の用だ。
「それでは、僕はこれで」
「ああ」
「失礼します」
「お疲れ」
頃合いだと立ち上がった小林に、青桐は頷いた。伝票と原稿の入った封筒を手に青桐の横を通り過ぎ、支払いを済ませて小林は店を出た。通りを渡っていく姿を窓越しにぼんやり眺めながら、青桐はうっとおしいとばかりにスマホの画面を伏せ、通りかかった店員にコーヒーのおかわりを頼んだ。
顔を見合わせた途端、由生子は思い切り嫌そうな顔をした。
「社に来るときはスーツって約束だったでしょ」
「は? 知らねえよ」
ゆっくり時間をかけてコーヒーを味わい、たっぷり時間をかけて呼び出された場所にやって来た青桐は、不機嫌さの滲み出る声を隠そうともしなかった。
「…まあいいけど。こっち来て」
エレベーター前で青桐を待ち受けていた由生子は、ため息まじりにそう言うとくるりと背を向けて廊下を歩き出した。廊下にみっしりと敷き詰められているカーペットが、ヒールを穿いている由生子の足音を消していく。
廊下に並んだひとつのドアの前に立つと、由生子はノックもなしにドアを開け、青桐を振り向いた。
「どうぞ」
そう言って由生子は先に入った。
後をついて足を踏み入れた途端、かすかに青桐は目を瞠った。
以前はやたらと装飾過多だったその部屋はとてもシンプルに──やや殺風景すぎるほどになっている。
由生子が変えさせたのか。
「早く終わらせましょ、そこ座ってよ」
来客用のソファに青桐を促し、テーブルを挟んだ向かいに由生子は座った。既にテーブルの上にはいくつかの書類が並べられてある。相変わらずこういうところは用意がいいと青桐は思った。
「はい、最初はこれ」
腰を下ろした途端にペンを差し出され指示が飛んでくる。
少しも休ませる気のない仕打ちだ。しかしお互い様かと青桐はそれを受け取った。
「どうにかなんねえのか、毎回毎回」
「逆に私が面倒と思わないって何で思えるわけ」
口の減らないやつ、と内心で悪態をついた。
「まあそれももう終わるけどね」
ぴくりと青桐の指が止まった。
「今年いっぱいでしょ。そうすればあんたも解放される」
「へえ…」
由生子は必要な各箇所に付箋を貼り付けており、青桐は迷うことなく署名をした。一枚、また一枚。何枚も重ねられた書類の束。まるで理解できない言葉の羅列が名前ひとつで意味のあるものに変わる。
すべてを終えて青桐はペンを置いた。
「お疲れさま」
気がつけば日が暮れかけていた。
窓の外はもう薄暗い。
ああそうだ、と立ち上がりかけた青桐に由生子が言った。
「確認書類はまた近いうちにそっちに持ってくから」
その言葉に青桐は顔を向けた。
「来なくていい」
「え?」
「もううちには来なくていい。連絡してくれれば取りに来る」
「え…なに、どういうこと?」
ここに来ることを嫌っているはずの青桐が何を言うのかと由生子は目を瞠った。
「いいから家の鍵返せ」
「だから、何なのよ。私が行っちゃいけない理由とかあ──」
「朔がいる」
由生子を遮って言い放つと、薄く唇を開いたまま由生子は青桐を見上げた。
「……うそ」
青桐はただ由生子を見返した。
手のひらを突き出す。
「鍵」
信じられないような顔でその手を見つめる由生子に、なにひとつ青桐は説明しなかった。
煉瓦造りの図書館には今日は寄ることなく、青桐は道を進んだ。
落ちかけた陽が、住宅街の隙間から見える堤防の向こうに沈んでいく。
昨日遅くなると言って仕事に言った朔は、帰って来るなり、明日も遅くなるよと言った。昨日の明日、つまり今日も朔の帰りは遅いのだ。
『なんかやたらと面倒で。明日も今日くらいになるかな。夕飯待ってなくてもいいよ』
二十一時ごろに帰宅した朔は申し訳なさそうに言った。
青桐は迷わず待つと言った。
どうせもともと決まった時間に食事をしたりしないほうだ。多少腹が空いたところで気にはならない。
『そっか。ああ、…じゃあ今日より遅くなりそうだったら、連絡入れるから』
そうしてレトルトのソースを掛けたスパゲティをふたりで食べた。こんなのでごめんね、と謝る朔に、どんなのでも一緒に食べるだけでいいと青桐は言った。
朔はただ困ったように笑っていた。
道の先に見えて来た店に迷うことなく青桐は入った。
いつものように同じものを買う。
顔を憶えられてしまったのか、店主ははじめのころよりも随分にこやかに対応してくれるようになった。
それを持って家に帰り、朔が帰宅するまえに青桐は作っておくことにした。
このときにしか手にしない包丁を持ち、まな板の上の野菜をざくざくと乱暴に切っていく。
ほのかな土の匂い。
青臭い野菜の匂い。
顔を顰めて願う。
物入れからミキサーを取り出して刻んだものすべてを入れた。スイッチを押し、形を失くしていくものをぼんやりと青桐は見つめた。その光景にまた思い出してしまう。
彼が手に持っていたものを見つめていたのが最初だった。
青桐はそれが欲しかった。どちらが欲しいと聞かれて答えられずにいたら、勝手に大人が割り振ってきた。青桐の手の中には欲しくないものが押し付けられた。
嫌だと思った。
こっちじゃない。
欲しかったのは…
『これが好きなの?』
まだ、誰も知らない。
誰にも言わない。
朔も覚えていない。
何度も思い出し、擦り切れたような記憶の中の視界にはその手と声だけしかない。
そのころにはもう本当に欲しいものをそうだと言えなくなっていた。
好きなものを好きといえない苦しみは呪いに似ている。
黙っていると、そっと手を差し出された。
『じゃあ、はい』
『え』
『ね?』
温かな手が、その手に持っていたものを青桐の手に握らせた。
どうして分かったんだろう。
どうして伝わったんだろう。
好きだと言えないのに。
言わなかったのに。
『ごめん…』
俯いたまま呟くと、かすかに微笑む気配がした。
『いいよ。こっちも好き』
じゃあね、と彼は言った。
『──あ』
行ってしまう。顔を見れないまま、慌ててありがとう、と早口に言った。
微笑む気配。
胸元で揺れる名札が目に入った。
月だ。
半分の、──月。
にこりと笑う口元。
『今度は言えるといいね』
はっ、と青桐は目を覚ました。
朔。
朔、…?
夢?
体を起こすとそこはリビングのテーブルだった。
眠っていたのか。
今何時だ?
壁の時計を見ると、二十一時になろうとしていた。
***
話し合いは昨日より長引いて、時計はもう二十時半を過ぎていた。やれやれ、と思いながら朔は駅に向かう。
交渉が難航しているのは住人の一人が補償内容に納得を示さないからだ。
あの人、結構面倒そうだなあ。
朔の部屋の反対側に住んでいた男。消火を一緒にしたときの印象はそう悪いものでもなかっただけに、精神的に疲労を憶えた。
もともと退去の決まっていたアパートだ。朔にしては見舞金が出ただけでもありがたい話だったが、彼は大いにごねたのだ。
敷金礼金の返金に加えて見舞金もあるというに、次の家が見つかるまでの仮住まいの世話に引っ越し費用、家具の弁済など、あらゆることを不動産屋と大家の代理人に突き付けていた。だが、今回の火事はアパートの老朽化に伴う出火ではなく、住人のひとりによる火の不始末が原因で彼らに非はない。どちらも譲らず、最後には向こうも弁護士を立てると息巻いて、平行線のまま話し合いは終わった。
はあ、と深く朔はため息をついた。
本来なら、既に納得している朔はあの場に必要ない。だが被害内容で言えば朔のほうが明らかに大きいため、あとで自分もと言い出されないために話し合いの場に呼び出されているのだ。ちなみに階下に住んでいた住人は未だに行方が分からないという。
「面倒だな…」
知らずに独り言が漏れて、朔は深く息を吐いた。
駅が見えて来た。そろそろ青桐に連絡しておいたほうがいいかもしれない。
「こんばんは、仔猫ちゃん」
「うわっ」
スマホを取り出した途端、背後から抱きつかれて朔は声を上げた。
この声は。
「花ちゃん…っ」
肩越しに振り返ると、にやりと笑う顔が肩に乗っていた。
髪を上げている。背中に感じる感触からスーツを着ているのだと分かった。通行人の視線が痛い。
「そんなに驚く?」
朔にぴったりとくっついたまま、くすくすと笑う安西に朔は顔を顰めた。
「あのね、ここ道の真ん中なんだけど…」
「知ってる。わざとだもん」
「花…」
「ふふふ」
楽しそうに笑って安西が体を離す。はあ、と体の力を抜いて振り返り、あ、と朔は目を瞠った。
「前村」
よく見知った顔が、笑いを堪えた顔で花の後ろに立っている。
「おー藤本、久しぶり」
「こっち来てたんだ?」
「そ、またまた出張ー」
どうりで、と朔は思った。
抱きついて来た花の体からすごくいい香りがする。普段はつけないその香りが前村が訪れるときだけ香るようになったのは、いつからだっただろうか。
「藤本、そっちは大丈夫か?」
「うん、まあ」
「ほんと? 上手くやれてんの?」
きっちりと着込まれた三つ揃いのダークスーツ。似合い過ぎていて、朔は思わず見惚れた。
「大丈夫だよ」
「そうか?」
朔は安西には今の状況を話していた。青桐の家にいることを言ったときは、それよりも火事に遭ったことを話さなかったことを酷く叱られた。
顔を覗き込むようにして安西は少し首を傾げた。
「少し話す?」
「いや、今日は…帰ろうかな」
一瞬迷って朔はそう答えた。
青桐はきっと何も食べずに待っている。
昨日と同じように。
そう、と花は言った。
「でも、何かあったら連絡すること、いい?」
「ん」
頷くと、安西は確認のように朔の目を覗き込んだ。
迷いのない視線が朔は羨ましいと思う。
「じゃあ、また。前村も」
「おう」
軽く手を上げる前村に手を振り返して、朔はふたりに背を向け、改札へと急いだ。
***
スーパーで買い物を済ませマンションに着いたのは二十一時半を過ぎていた。
「ただいま」
がたん、と奥のドアが開く音がした。青桐はリビングにいたようだ。
「おかえり」
「ごめん、遅くなって」
なんとか連絡はしておいたから大丈夫だろうと、朔は俯いたまま靴を脱いだ。
「夕飯は?」
「待ってた」
やっぱり、と朔は苦笑した。
「じゃ、すぐご飯にしようか」
持っていた荷物を青桐に手渡す。
横を通り抜けようとした瞬間、朔は二の腕を掴まれた。
「え?」
驚いて朔は振り向いた。
青桐の手から渡した荷物が廊下に落ちた。
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