15



 会社からの帰り道に、朔は駅の傍にあるスーパーに寄って買い物をした。以前青桐と行ったところは毎日行くのには少し高すぎて、普通の金銭感覚を持った朔には敷居が高い。昨日買い物をして帰ると言ったら会社の女の子がくれたエコバックに荷物を詰めて店を出る。今ではもう迷わなくても歩けるようになったマンションまでの道をゆっくりと辿る。

「あ」

 目の前の住宅地を囲う茂みの中から出て来た猫が朔をちらりと見て、また逃げて行った。どこかの飼い猫なのか、この何日か、大体いつもこの時間に同じような場所で遭遇する。昨日はもう少し向こうだったか。

 猫の逃げて行ったほうを見ながら朔は苦笑した。植え込みから長い尻尾がはみ出ていて、おかしい。

「見えてるよ」

 笑いながら言うと、にゃあ、と嫌そうな返事が返ってきた。



 あれから一週間ほどが過ぎていた。朔は青桐のマンションにあのまま身を置いている。

「…ただいま」

 そっと、静かに玄関のドアを開けたつもりだったのに、ばたん、と奥のほうからドアが開く音がした。ばたばた、と続く足音に顔を上げると、L字に曲がった廊下の先から青桐がこちらに来るのが見えた。

「お、かえり」

 ぷ、と朔は笑いを堪え、ただいま、と返す。

「なんでいつもそんな、走って来るの」

「え、だって」

「はい」

 靴を脱いで廊下に上がると、持っていた荷物を青桐に渡した。

 可愛いうさぎのキャラクターがプリントされたエコバックは、妙に青桐に似合っている。

「お腹空いただろ、ご飯にしようよ」

 そう言ってリビングに入る朔の後ろを青桐がついて来た。

 熱を出したあの朗読会の翌日も、朔の熱は引かなかった。相当疲れていたのか、結局すぐ出て行こうと思っていたのに出来なかった。大したことないからと起き上がろうとするたびに、散々青桐にごねられたからだ。

『いい加減にしろよ、そんなに俺といるのが嫌かよ!?』

『いや、そういうわけじゃ、なくて…っ』

 違うと言うと青桐はますます不貞腐れた。

 まるで子供だ。

『じゃあなんなんだよ、いいから大人しくしてろって』

『でもだって』

 その日でもう二日もベッドを占領していた。居た堪れなくて言い返す。それに。

『ほんとはっ、人を家に入れるの嫌だろ? だから』

 早く出るから。

 ハア? と青桐は大声で言った。

『なんっだよそれっ』

『え、あの、小林さんから聞いて』

『ふざけんな!』

 熱でふらふらする体を思い切り揺さぶられ、朔は眩暈がした。

『他のやつはそうでも俺が朔を嫌がるわけないだろ、なんでそんなふうに思うんだよ、…俺は』

 俺は──

 青桐ははく、と喉に言葉が詰まったように息を漏らした。

『…っ』

 はくはく、と繰り返し──出てこない声に、青桐は顔を顰めてぎゅっと唇を噛み締めた。

 その表情を朔は前にも見たことがある。

 青桐は言いたいことが上手く言えないときがあるようで、時々、同じように苦しそうな顔をしていた。

 なぜだろう。

 何かあるのだろうか。訊きたいと思ったが、訊いてはいけないような気がした。

『…いいからここにいろよ。俺がいいって言ってるんだから。それでいいだろ』

 何も言えなくなった朔は、うん、と頷くしかなかった。



「ご飯出来たよ」

 部屋のドアをノックすると、すぐにドアが開いた。

 食事が出来るまで残りの原稿を書いてしまうと言っていたから、てっきり没頭していると思っていたのに、あまりの早さに朔は目を見開いた。

「もういいのか?」

「うん」

「よかったら持って来るけど…?」

 気を遣っているのだろかと言うと、なんで、と青桐は首を傾げた。

「一緒に食うよ」

 リビングに引き返し、テーブルに着いた。向かい合って食事をするのはもう慣れた気がする。

 テーブルの上に並んでいるものは簡単なものばかりだ。まだ利き手の傷が治り切っていないし、平日なので凝ったものは出せない。これでも、させてもらえるだけマシになったほうだ。はじめは青桐が朔に料理をさせるのを──主に傷に障るからという理由で嫌がったため、デリバリーや冷凍物で食事をしていたのだが、朔は三日で根を上げた。元々自炊していたので、市販の濃い目の味に馴染めなかったのだ。

 置いてもらっているのだから食事くらい作ると言うと、傷がまた化膿でもしたらどうするんだと心配する青桐を説き伏せて、ようやくキッチンに立てる許可を取り付けたのは一昨日だった。何度言っても取り付く島がなく、仕方なく最後にそれなら出て行くからいいよと言ったのが相当効いたのか、それ以来青桐は朔のすることを遠巻きに眺めるだけであまり口を出してこなくなった。

 過保護だよなあ…

 今も、食事をしながら右手をちらちらと気にしている。火傷はもう痛むこともなく、覆うガーゼも小さなものに変えていた。薬もあと少しで飲まなくて済む。

「美味い」

「そう? よかった」

「うん、美味いよ」

 朔が出したものを青桐は嬉しそうに食べる。

 それが嬉しいと思う。

 高校のころもこんなふうに一緒に食事をしていた。

 あのときは青桐といることにまだ慣れなくて、随分緊張したんだっけ。相変わらず野菜に一切手をつけないのが青桐らしいけど。

「…なに?」

 思い出した朔が思わず口元を緩めると、青桐はじっと朔を見つめた。

「なんでもないよ」

「……」

 それでも気になるとありありと目に滲み出ていて、朔は苦笑した。

「会社で面白いことがあって、思い出しただけだよ」

「ふーん…どんな?」

「うん、ほら、うちの…」

 昼間の上司の失敗談を朔は面白おかしく話して聞かせた。前にも何度か同じ人の話をしていたので、ほらうちの、というだけで青桐には分かるようになった。

「ふふ、ははっ」

「変な人だろ」

「うん、おかしいなそれ」

 同じ話題で笑い合える、そんな変化に胸の中が温かくなる。

 六年の空白を経て、またこんなふうになるなんて思いもしなかった。

「お茶淹れるよ」

 食事を終えて立ち上がると、青桐がまたついてくる。

「なあ、皿は俺が洗うって」

「ん」

 分かってるよ、と朔は笑う。

 穏やかな日常だ。

 でも、話さなければならないこともまだたくさんある。

 自分が戻らなかった理由を、朔はちゃんと青桐に言えていない。

 なにもかもが曖昧なままだ。

 このままでいいはずはない。そう感じながら、言い出す機会を朔は頭の片隅でずっと考えていた。



 真夜中すぎ、青桐は仕事部屋を出て廊下をそっと歩いた。

 朔はもう眠っている。青桐の寝室の向かいが、今は朔の寝る場所だった。

 ドアの前で立ち止まり、そっとノブを回した。開いたドアの隙間から、客など来ないのに用意されていたベッドの上の布団が、ふわりと形を保っているのが見える。

 音を立てないように近づいた。

 朔はドアに背を向けて丸くなって眠っていた。

 ほっと、息を吐く。

 よかった。

 ちゃんといる。

 よかった…

 さらさらとした黒髪が枕に零れている。手を伸ばして、気づかれぬくらいの力でその髪を撫でた。

 安らかな寝息が耳をくすぐる。

 抱き締めたい。

 口づけたい。

 本当は帰って来たときに抱き締めて迎えたいけれど、勿論そんなことは出来るはずもない。

 そんなことをしたら、朔はまた出て行くと言うだろう。

 それでなくてもいつまでここに引き留められるのか、青桐には自信がなかった。

 ここにいて欲しいのに、またいつ姿を消してしまうか気が気ではない。

「……」

 入ったときと同じように音を立てずに部屋を出た。

 リビングに入る。

 窓の外は薄青く、部屋の中は水の底に沈んだような色をしていた。ブラインドの隙間から漏れる青白い光が部屋を横切っている。

 今夜は満月だ。

 願えば誰かが見下ろしている。

 冷蔵庫の奥から作り置いていたものを取り出して皿に注いだ。スプーンで掬って口に入れ、ろくに味わいもせずに飲み込んだ。

 いつか、これを美味いと思える日が来るんだろうか。

 そうすれば叶うんだろうか。

 青桐は顔を顰めた。

 半分以上残ったそれをシンクに流した。乱暴に水で洗い流し、口直しとばかりに冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、青桐はそれを一気に飲み干した。


***


「……」

 冷蔵庫の中を覗き込んで、朔はふと首を傾げた。

 なんだろう?

 何か、変な感じだ。

 まあいいか、と簡単な朝食を作ろうと卵に手を伸ばす。パンを焼いて、目玉焼きと、あ──ハムが。奥のほうに入ってたっけ。先に使わないと駄目だな。

「おっ、…と」

 伸ばした指先が奥に置かれていた小さな鍋の蓋に当たった。乗せてあるだけのそれは簡単にずれて落ちてしまった。しかも鍋の向こう側だ。仕方ないな、と朔は鍋を手前に引き出して蓋を取った。

 この鍋は朔がここに来たときからあった。覗き込むと何かが入っていた。なんだろう、もう少なくて、底の方に残るだけだ。

「おはよう」

「あ、おはよ…」

 後ろから声が掛かり、慌てて朔は振り向いた。取り出せた蓋を鍋に被せ、元の位置に押し込んだ。

「早いな。昨夜も遅かったんじゃないの?」

 朔が眠ったのは十一時ごろで、隣の仕事部屋にはまだ明かりが点いていた。ここに住み始めてから気づいたが、青桐はいつも明け方近くまで起きて仕事をしている。

「そうだけど」

 欠伸を噛み殺しながらキッチンに入ってくる青桐を朔は見上げた。

「もう少し寝てればいいのに。俺は勝手に行くから」

「…やだよ」

 むっと顔を顰めて、青桐は低く呟いた。

「一緒に飯食いてえもん……嫌?」

「そんなわけないよ」

 朔は苦笑した。

 最近青桐はそんなふうに聞いてくる。

 嫌なわけないよと何度か言っても、また同じことを言うのだ。

 朔はフライパンをコンロの上に置き、火をつけた。

「目玉焼きでいい?」

「ん」

 青桐は卵を割る朔の手元をじっと見ていた。

 まだ眠いのか、綺麗な二重瞼がとろんとしている。朔が目を離すと、こし、と手の甲で目尻を擦っていた。

「あっち行って、座ってなよ」

 眠いのだろうとダイニングテーブルを指差すと、青桐はなぜか傷ついたように目を揺らした。

「…俺邪魔?」

 え、と朔は振り返る。

「そうじゃないけど、眠そうだから」

「じゃあ、いていい?」

「いいよ…?」

 寝惚けているのかな、と思いながら朔はフライパンに目を落とした。ちょうどよく卵が焼けていた。朔は火を止めながら、そうだ、と思い出したことを口にした。

「俺、今日ちょっと遅くなるから、夕飯は悪いけど先に何か食べてて」

「…遅いって…?」

「うん。アパートのことで呼び出し」

 トースターが出来上がりを知らせて朔は顔を上げた。皿を取ろうと振り向き、棚の上に手を伸ばす。この家の皿は何故か大きなものほど上の段に積まれていた。

 すっと、取ろうとしていた皿が伸ばした手の先で宙に浮いた。

「これ?」

「あ、うん、ごめ──」

 真後ろに立った青桐が、先に皿を取り上げたのだ。

「ありがと…、?」

 振り返ろうとして、朔は息を呑んだ。

 ぴたりと青桐の胸が背中に張りついている。

 かたん、と皿が置かれた。

「あ…」

 青桐、と呼ぼうとして声が出なかった。

 朔は背中から強い力で抱き締められた。肩の上に青桐の額が乗る。首筋に擦り寄られ、柔らかな髪のくすぐったさに思わず朔は身を竦めた。前に回った腕にきつく腰を引き寄せられて、朔は焦った。気づかれる。

「や、何す、…っ」

 さく、と青桐が言った。

「帰って、来る?」

「え…」

「ちゃんと、…ここに帰って来る?」

「──」

 よく見れば、朔の胸に回った両腕は、まるで縋りついているようだった。ワイシャツをぎゅっと握りしめている。

 心臓が引き絞られるように痛んだ。

 なんで、…

 落ち着け、と朔は自分に言い聞かせた。吐き出す息が震えないように願う。

「帰るよ、ちゃんと、帰って来るから」

 ほんと? と耳の下でくぐもった声がした。

「ほんとだよ」

「…前のとこに戻らない?」

「戻らないよ。もう、住めないし」

 ん、と小さな声がした。

 すり、と青桐が額を擦りつけてくる。

「事後処理の話とか、そう言うのだから」

 子供のようにこくりと頷く頭を、そっと朔は抱え込むようにして撫でた。

「ごめん」

 と言うと、青桐はゆるく首を振った。

 不安になるのは自分のせいだ。

 何も言わずに、なにひとつ告げずに姿を消したから。

 そのときの青桐の様子は安西から聞いていた。

 たくさん傷つけた。

 なのに好きな気持ちを隠そうとするばかりに、ひとつも優しく出来ない自分がどうしようもないと思う。

 青桐は朔を友達だと言った。けれど朔は違う。それ以上の感情を持っているだなんて知られたくない。

 こうしてまた会えたのに──もう会えないと思っていたのに。

「ほら、もう出来るよ、離して」

「ん」

 ゆっくりと青桐が腕の力を抜いた。朔は緩んだ腕の中で体を返した。少し離れて青桐に笑いかける。

「じゃあ…ちょっと遅くなるけど、夕飯待っててくれるか?」

 一緒に食べようと言うと、泣きそうな顔で青桐が頷いた。

 彼を愛おしいと思う。

「あー…、パンちょっと焦げちゃったなあ」

「いいよ、俺が食う」

「半分こしようか」

 出来ることなら抱き締め返したい気持ちを、朔は自分の中に押しとどめた。

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