14
どうしてこんなことになったのだろう。
前を歩く青桐の背中を見て、朔は複雑な気持ちになった。
まさか家に行くことになるなんて。
今朝方の騒動を隠せるとは考えていなかったが、青桐があんなことを言い出すだなんて思ってもみなかったのだ。
青桐の手には朔のスーツケースが握られている。通り沿いでタクシーを降りてからずっと、青桐は持つと言って聞かずマンションまでの道を引き摺って歩いている。その後ろを花束を抱え朔はついて行った。
先日迷いながら歩いた道だ。
閑静な住宅街、等間隔で外灯の並ぶ暗い通りに、かたかたとスーツケースのキャスターの音が響く。
「……」
本当にいいんだろうか。
小林は、青桐が家に人を入れるのを嫌がると言っていた。確かに、思い返せば高校のとき一度も彼の家に招かれたことはなく、彼はいつも、朔の部屋に来たがっていた。
「──朔」
いきなり青桐が振り返って、びく、と朔の肩が跳ねた。
「何か買おう。腹減ってるだろ」
「…え?」
「そこ、店だから」
言われて前方を見れば、青桐の向こうに煌々と明るい店の入り口が見えた。どうやら深夜営業のスーパーのようだ。
「あ…うん」
思えば開演前に軽く食べてから何も食べていない。打ち上げをしようと前日堂島に言われていたのだが、ミノリ屋は明日も変わらず営業日であるし、会場の後片付けもある。遠慮をすると、堂島が事務所にノンアルコールビールを用意してくれていた。労いを兼ねてスタッフたちと乾杯だけ交わし、早々に青桐と朔は暇を告げた。小林は片付けを手伝うと言って、ミノリ屋に残っている。
思い出した空腹に素直に頷くと、青桐はまたくるりと背を向け、店のほうへ向かった。
「あ──青桐」
少し足早になった彼の後を、慌てて朔は追いかけた。
「…お邪魔します」
入って、と促され、開けられたドアの前で躊躇いながらも朔は玄関に足を踏み入れた。靴を脱ぎ、先に廊下に上がると青桐がスーツケースを中に入れてドアを閉めた。
「ありがと、重かっただろ」
途中何度も自分で持つと言ったが青桐は譲らず、結局ここまで運ばせてしまった。
ちらりと青桐は視線を上げた。
「平気だよ。リビング、突き当たりだから」
「うん」
長い廊下を進むとガラスのドアがあった。そっと押し開けると、想像していたよりもずっと広いリビングに驚いた。朔のアパートの部屋が丸ごとすっぽり入りそうだ。
「……広い」
やたらと広く見えるのはソファとテーブル以外にほとんど物がないせいだろうか。あとは床の上に積まれた本の山が隅にあるくらいだ。
先日訪れたとき、外見の立派さに足を踏み入れるのに気後れしてしまった。けれど見た目の豪華さとは裏腹に、どこか家の中は寂しい。
ここに、ひとりで。
「……」
朔、と呼ばれた。
「それ貸して」
振り向けば、青桐が後ろに立っていた。リビングの入り口を塞ぐ形で立ち尽くしている朔の手から、スーパーのレジ袋と花束を取り上げる。
「メシにしよう」
「うん、あ、──手を、洗いたいんだけど」
ダイニングテーブルに袋を置こうとした青桐が、そっち、と廊下の先を指差した。
「戻って、最初のドア。洗面所と風呂だから」
「ありがと、じゃあ、借りる」
「ん」
青桐がこちらを見た。目が合いそうになって慌てて朔は廊下を戻り、右側にあった最初のドアを開ける。広すぎる洗面所には洗面台がふたつもあり、朔は手前側のレバーを上げた。ざあ、と水が流れ出す。ふと、目の前の鏡に映る自分と目が合った。
頬が赤いのは、やたらに多い間接照明のせいだ。
何でもない、大丈夫。
明日には出て行く。今夜だけ、今夜だけだ。
今さらのようにどくどくと心臓が跳ねている。
落ち着け、と朔は祈るように流れる水に手を入れた。ぴり、とした痛みが右手の甲に走った。
「い…った…、っ」
しまった、と思った。濡らしてしまった。
明け方に負った火傷に水が沁みた。
スーパーで買って来たものをテーブルの上に広げると、それなりに豪華に見えた。スーパーの惣菜と言ってもこの辺の土地柄か、一般のいわゆるスーパーとは違い、どちらかと言えばデリに近い店だった。どれも手が込んでいて美味しそうで、選ぶのに時間がかかった。
「美味しい」
切り取ったレバーのテリーヌをフォークで口に入れると、舌の上でふわりと蕩けた。こんなに美味しいものを食べたのは久しぶりだ。冷たい口当たりが火照ったような身体にちょうどいい。
「いつも、食事はあそこ?」
朔が尋ねると、青桐はいや、と言った。
「ほとんど行ったことないよ」
「え?」
「いつもは、なんか…あるので適当に済ましてる」
くい、とミネラルウォーターの入ったグラスを煽り、青桐は目の前の皿から箸でハムを摘みあげた。ワインを買っていたのにそれを開けず、青桐は飲み物にミネラルウォーターを選んだ。朔にも同じものが出されている。
「そうなんだ」
会話は途切れがちだった。ぎこちなくて、どこかちぐはぐだ。朔はあまり顔を上げないようにして目の前の食事に専念した。余計なことを考えると駄目な気がした。
ふたりきりの空間が、ひどく心許ない。
この間は少しだけ昔に返ったような気がしたけど。
やっぱり、青桐は嫌なんじゃないだろうか。
家の中に自分以外の人間がいるというのは、彼にとって苦痛なのだ。
「あの、さ…」
フォークを置いて、朔はミネラルウォーターをひと口飲んだ。氷がカラン、と音を立てる。ひどく冷たくて美味しかった。
「今日は、ありがとう。明日は──出て行くから」
「…は?」
青桐が朔を見た。
「堂島さんにも言おうとしたんだけど、アパートの大家さんから見舞金? っていうのかな、それ貰ってるから、お金のことは大丈夫だし、俺やっぱり…」
そこまで言って顔を上げると、零れ落ちそうなほど目を見開いて、青桐は朔を見ていた。
「なんで、そんなこと言うんだよ」
静かな怒りを含んだ声に、今度は朔が目を見開いた。
「え、いや…だって」
「次が見つかるまでいればいいって俺言っただろ」
「そ──そんなの、出来な」
がたん、とテーブルに手をついて青桐が立ち上がった。
剣呑な表情に息を呑んでいると、いきなり右の手首を掴まれ引っ張られた。
あ、と声を上げるよりも早く、青桐は傷を覆っていたガーゼを一気に剥ぎ取った。
「ッ──」
「…やっぱり」
空気にさらされた火傷の痕がじんじんと痛んだ。さっき水を掛けてしまったせいか、少し化膿しているのか、熱を持ったように痛くて熱い。
「利き手こんなんでどうやって過ごすの」
睨まれるように言われて、誤魔化せなかったかと思った。
昔からそうだ。青桐は案外小さなことも見逃さずに、ちゃんと見ている。
さっき洗面所で思わず上げてしまった声を聞いていたのかもしれない。
大丈夫、と朔は言った。
「病院行って、薬、ちゃんともらってるし、大したことな」
「どこがだよ!」
朔の声を遮って青桐は怒鳴った。
「何が大丈夫だよ、全然大丈夫じゃねえだろ! 火事に遭って火傷して大変な目に遭ったってのに誰にも言わねえで朗読もやりこなして、自分の顔見てみろよ、熱が出てるのに気がつかねえのかよ!?」
「え…、ねつ?」
呟いた途端、くらりと目の前が揺れた気がした。
それに気を取られていると、ひやりとした大きな手が額に当てられた。
「熱いよ、事務所にいたときから熱っぽかった」
朔は自分の頬に触れてみた。持ち上げた手の先がぼんやりと熱い。触れた頬の温度はそれよりもずっと熱かった。
「気が抜けて熱が上がってる」
「……」
ああそうか、と朔は思った。
今日は大変だった。いろんなことが起こって、目まぐるしくて息をつく暇もなくて、でも、任された朗読会をふいにすることは出来なかった。必死で──せっかく、声をかけて貰ったのに。
期待に応えなければと、それだけだった。
それに──青桐が…
青桐が来るから。
朔はぼんやりと目の前の青桐を見た。
「…なんで、連絡ぐらいくれないんだよ」
連絡。
「いつも、…なんでそうなんだよ」
目の奥が重く、じん、と痺れていた。
目を合わせているだけでじわりと涙が溢れてくる。
「だ、って…」
だって、迷惑を掛けられない。
あんなことがあって、再会して、冷たくした。どうしていいか分からないのに、連絡なんて出来ない。
なんて、なんて言えばいい?
どんなふうに言えばよかったんだろう。
今日のこと、再会したときのこと、六年前のことが朔の中でぐちゃぐちゃに絡まり合い、混じり合っていく。
「ごめん、青桐…」
ぽたっと涙が落ちた。
本当は疲れ切っていた。もう限界だった。心の弱った部分を繕えなくて、ひび割れていた傷を抑えることが出来ない。直したつもりの指の間から小さく剥がれ落ちていく。
青桐が目を見開いた。
「ごめん、…ごめ、こんな、こんなっ、つもりじゃ…」
こんなつもりじゃない。こんなはずじゃなかった。
謝りたいのに、どうしても上手く出来ない。
「朔」
「…う、…」
泣きたくない。でも止まらない。
「ごめっ、俺、怒鳴って…! もう、もうベッドに行こう? な?」
子供のようにしゃくり上げ始めた朔に、慌てた青桐が傍にひざまずき、宥めるように見上げてくる。ゆらゆらと揺れる視界で見下ろせば、その綺麗な顔にぽたぽたと涙が降り注いで、どうしようどうしようと朔は思った。
汚してしまう。
青桐が汚れてしまう。
「…朔?」
拭おうと手を伸ばす。けれど手はなぜか彼の頬の横をすり抜けていった。上手く出来なくてまた涙が落ちる。
「う、…っ、うう、うーっ…」
「朔、…おいで」
代わりに差し伸べられた青桐の両手に頭を抱え込まれ、朔は椅子から滑り落ちた。床にぺたんと座り込むと後頭部をそっと引き寄せられ、広い肩に強く顔を押し付けられる。柔らかな布地に頬が埋まる。涙で濡れたそれが気持ちよくて擦り寄ると、そのままきつく抱き締められ、背中をゆっくりと撫で下ろされた。
「泣かないで、俺が悪かった」
「……ふ、う、っう」
嗚咽を堪えると、涙が湧いた。
上手く言えない言葉の代わりのように、あとからあとから溢れてくる。
青桐の肩の上で浮いたようになっている自分の両腕を、朔は青桐の首に回した。腫れて熱い指で彼の項の下の服を握りしめ、縋るように指を立てた。
「ごめん。ごめん、朔。ごめん…」
ゆらゆらと体が揺れる。
気持ちがいい。
揺れているのは青桐だろうか、それとも自分の体なのか、重なった胸から同じ速さで鼓動が伝わってくる。とくとく、と響く音に安心する。ここにいる。ぼんやりと熱に浮かされた意識は、ふうっと息を吐いたとき、ふわりと解けるようにそこで途絶えてしまった。
***
熱にうなされるように泣きながら意識を手放した朔を、青桐はそっと抱きかかえて自分のベッドに運んだ。
躊躇いつつも寝苦しいだろうと服を脱がせ、自分のパジャマを着せた。
涙の跡が残る頬を濡らしたタオルで拭い、火傷の手当てをしようと近所のドラッグストアまで走った。傷口に買って来たガーゼを当てる。傷は大きくはなかったが爛れた皮膚の一部が少し膿んでいるようだった。薬を貰ったと言った朔の言葉に、悪いと思いつつも彼のスーツケースを開け──幸い鍵もかかっていなかった──荷物の中を探して見つけ出した薬は、塗り薬と内服の化膿止めだった。
飲んだほうがいいよな、と青桐は思った。
「……」
ぎし、とスプリングをを軋ませて青桐はベッドに上がり、朔に覆い被さった。朔はぐったりと目を閉じていた。
頭をそっと持ち上げ手のひらで支える。柔らかな髪の感触にぞくりと腰が震えた。
開いた片手で朔の唇を開いた。漏れる息が熱かった。錠剤を押し込むと、青桐は自らペットボトルの水を煽り、朔と唇を合わせた。
「ん…、う」
流し込まれた水を朔がこくりと飲む。口を離し、確かめればまだ薬が残っていた。青桐はもう一度同じようにして朔に水を含ませた。
「朔、飲んで」
「ん、…んっ…」
薬だと耳元で囁くと、少し意識が戻ったのか朔が喉を震わせて飲み込んだ。むせて小さく咳き込む体を手のひらで撫でさすると、すう、と脱力してシーツに体が沈んでいく。
また深く眠りに落ちたようだった。
薬が残っていないのを確かめて、青桐はほっと息を吐いた。
「…朔」
そっと枕の上に頭を戻す。
ことりと首が横を向いた。
サイズの合わない大きなパジャマの襟から覗く首筋、鎖骨の窪み。
なめらかな肌、細い手首。
閉じた瞼の濡れた睫毛。
こめかみに乱れた髪がひと筋貼りついている。
青桐は指先でそっと払う。そのまま指は滑り下りて、朔を確かめるように顎の輪郭を撫で、耳の形を辿った。
「さく…」
好きだ。
ずっと、ずっと好きだ。
胸の中でならいくらでも言える。
好きだと伝えたい。でも口にしようとするたびに言葉が出なくなってしまう。
それは繰り返し、幼いころから奪われてきたからだ。
自分が好きだと言ったものは、皆この手から取り上げられてきた。
そうしていつの間にか青桐は、本当に好きなものに好きだと言えなくなってしまっていた。
「……」
『あんたはそれを乗り越えないと一生駄目になるわよ。私も、誰も、あんたを助けてはあげられない。自分の事は、自分で克服するしかないのよ』
由生子にも何度も言われた。
失くしてしまったあとでいくら後悔しても遅いのだと。
「…分かってるよ」
そんなことは分かってる。
朔が再び目の前からいなくなったら、もう生きていける気がしない。
嫌だ。
もう、あんなのは嫌だ。
あんな思いは二度とごめんだ。きっと耐えられない。
だから今度こそ、──
「朔、俺は、俺はね……俺は…、っ」
ぐっと喉の奥で声が詰まる。
はくはく、と青桐の口から言葉にならない息が漏れた。
好きだよ。朔がずっと好きだ。
好きなんだよ。
その声を聞いたときからずっと、朔が俺を知らないときから。
ぽたっ、と青桐の目から涙が零れた。
それは朔のこめかみに落ち、肌を伝って耳を濡らした。
青桐の顔がゆっくりと下り朔の首筋に埋まる。そして朔を押し潰さぬように体を重ね、抱き締めると、濡れた耳朶を唇で拭った。
***
暖かくて大きなものに包まれている。
これは夢なのか。
もう大丈夫。大丈夫、と誰かが言っている。
その声は青桐に似ていた。
青桐。
そこにいるんだろうか?
ごめん、と朔は思った。
こんなはずじゃない。
こんなはずじゃなかった。
本当は会いたかった。
「ごめん、青桐…ごめん」
戻れなくなるなんて思わなかったんだ。
あの日、青桐のまえから逃げ出した朔は。そのままひとりでいるのが苦しくて両親のもとに向かった。明日から夏休みだということもあり、言い訳は簡単に出来た。正月に会えなかった父親がひどく喜んでくれたことが朔の救いだった。母親は様子がおかしいと何か気づいたようだったが、結局何も言わなかった。
久しぶりに親子三人でいる間、青桐から届くメールやメッセージ、着信に気づかないふりをした。
そうして五日ほどが過ぎ、ようやく気持ちが落ち着いた朔は家族が寝静まった真夜中に、久しぶりにスマホを手に取った。電源を入れた明るい画面に並んでいたのは、心のどこかで予想していた通り、青桐からの通知ばかりだった。
会いたい、と思った。
会って、ちゃんと話がしたい。
通知をひとつひとつ辿っていくと、一番新しいメッセージがその日の夕方に届いていた。
それに返事をした。
なんて返せばいいか分からず、送ったのは一言だけ。そして朝になり、両親に家に戻ると言って別れを告げ、新幹線に乗った。
新幹線の窓に映る自分の顔は不安に満ちていた。
どうやって話そう。
どんな顔で会おう。
新学期が来れば全部元に戻れるとは思わないけれど、せめて少しでも笑い合えるようにはなりたかった。
なのに、待ち合わせ場所に着き、青桐の後ろ姿を見た途端、朔は怖くなった。
青桐は知らない誰かと話していた。
笑っていた。
その横顔が知らない人に見えた。
「…青桐」
背中がすうっと氷が這うように冷えた。
怖い。
会うのが怖い。話を聞くのが怖い。
もしも、あのとき高瀬が言ったようにただのゲームで、俺は、青桐にとって何でもない、ただの同級生で。
俺だけが、こんなにも好きになって──
好きなのは俺だけ。
そんなの、当たり前じゃないか?
どこからか声が聞こえてくる。
男が男を好きなんて。
「──」
その瞬間、朔は踵を返して駅の構内に駆け戻った。さっき出て来たばかりの改札をくぐり、ホームに駆け上がるとちょうど来た電車の行き先も見ずに飛び乗った。
電車はすぐに動き出した。
知らない景色が窓の外を流れていく。
手に握り締めていたスマホが鳴った。
びく、と体が震えた。画面を見れば母親からだった。
メッセージが──
「…え」
朔は声を失くした。
それは、父が倒れたとの知らせだった。
「私さあ、藤本には肝心なとこを伝えてないんだよねえ」
「え、なんの話?」
カウンターに身を乗り出して言うと、目の前に座る男が、きょとんとした顔をした。
くすっと安西は自嘲気味に笑う。
「青桐のあれ、トラウマになってるやつ」
へええ、と男は声を上げ、出されたピーナッツを摘んだ。
「青桐くんトラウマなんかあるんだ? 意外」
「あー前村には言ってなかったっけ。ごめん」
じゃあこれはオフレコで、と安西は声を落とした。
それより、と前村はビールを一口飲む。
「肝心なこと言わなくてどう言ったんだ?」
首を傾げられて、安西はカウンターから身を起こした。
「青桐の弱みにつけ込んで高瀬が一方的に仕掛けたってとこだけ」
「え、弱みって?」
「まあ、家庭の事情」
「ああー…なるほどね」
「あながち間違いじゃないし」
苦笑する前村につまみのおかわりを出しながら安西は言った。
「私はさあ、あのふたりに幸せになってもらいたいんだよねえ」
前村がまた一口ビールを飲む。今日は客は少なく、今は彼ひとりしかいない。オーナーもとっくに帰ってしまった店の中はふたりきりだ。だからこんな打ち明け話が出来る。最近就職したばかりの前村は、出張でこちらに来るたびにここに顔を出すようになった。
「それにはどうしても、青桐に自分の口で言わせたくて」
「うん?」
「だからさあ、再会したって聞いて、藤本に何にも言わないで待てって言った。今度こそ必ずあいつの口から言わせたいし。もちろんさ、私のことも内緒だから…、藤本は動揺して青桐を叩いたって、落ち込んでてさ」
「ああ…藤本らしいなあ」
「うん」
昔とちっとも変わらない優しい笑みを前村は浮かべた。安西も同じように笑い返す。
「こんな私の分まで幸せになって欲しいって思うよ」
前村が新しく出されたピスタチオの殻を割った。ぱき、と小さな音が店の中に響く。
ぱき、ぱき、と出された全部の殻を剥く間、ふたりは無言だった。
剥いたピスタチオをカウンターに綺麗に並べ、そのひとつを前村は口に放り込んだ。
「今日の格好、すげえいいじゃん」
安西は口の端を上げた。
「だろ? 自分でもそう思う」
「うん、そのスーツ、最高似合ってるわ」
ふたりは目を合わせると、どちらからともなく声を立てて笑った。
***
朔の目頭に溜まった涙が溢れ落ちていく。
青桐はそれを指で掬った。
薄く開いた唇が震えている。
「朔?」
苦しいのだろうか。横向きに体を丸め、指先が何かを探すようにシーツの上を彷徨っている。
その手を掴み握り締めると、ぎゅう、と握り返された。
「……、め…」
深い眠りの中で何を見ているのだろう。
青桐は朔の眠るベッドの上で、夜が明けるまで手を繋いで寄り添っていた。
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