13
ミノリ屋でリハーサルと打ち合わせを終えた朔は遅い帰宅の途についた。
本番は明日だ。
子供向けの読み聞かせ会とは規模が違い過ぎて少々気後れする。より大勢の人の前で上手く出来るだろうかと不安になったが、いつも通りでいいんだよ、と堂島から励まされた。
それもそうかと、心が少し軽くなった。
元々プロでもない自分が彼らのように出来るとは考えていない。失敗なく、きちんと終えることが出来ればそれでいいと思っている。
当日は来れないからと、面白半分に立ち会いに来た職場の上司にはえらく期待されていて苦笑しか出ないけれど。
『藤本がこれで名を上げたら、企画も色々楽しめそうだなあ』
そうかもしれない。なにかひとつ、出来ることが増えればいい。
それに、青桐も来てくれる。
口元に知らず笑みが零れた。
食事を届けたあとから連絡はないけれど、きっと来る気がした。
青桐のことを思うだけで、ふわりと胸の奥が温かくなる。
また少しでも話せたらいい。
近くのコンビニで夜食を買い、アパートへの道を曲がる。半分以上の住人が退去してしまった建物は、夜も更けているというのに明かりが乏しい。点いているのは、朔の真下の部屋と、朔の部屋とは真反対の角の窓だけだ。新しいアパートも、早く見に行かないといけない。
連絡はしておいたが、朗読会という大役が終わってからのほうがゆっくり考える余裕もあるだろうと、結局先延ばしにしたままだ。週明けにまた連絡すると先方には伝えてあった。荷物は元々それほど多くはないけれど、少しずつ減らしている最中だ。
鍵を取り出し、ドアに挿し込んだ。開くのと同時に下の住人が部屋から出て来て、ばたん、と階下のドアが閉まる。思わず横の手すりから覗き込むと、暗がりの中で煙草に火をつける後ろ姿が目に入った。
火の灯った手元が赤い。
家の中に匂いが籠るのが嫌なのだろう。度々下のアスファルトに吸い殻が落ちていたのを朔は見た覚えがある。
煙草ひとつ吸うのも大変だな、と思いながら、朔は部屋に入り、ドアを閉めた。
***
日が暮れていく。
秋の深まる日は落ちるのも早く、あっという間に暗くなっていく。
朗読会は夕暮れのあとだ。
急ぎの仕事を片付けて、ミノリ屋までの道を青桐は急いでいた。本当なら今日は一日何もしなくて済むようスケジュールを詰め空けておいたのに、午後になって父親の会社から呼ばれ、いつものように心底どうでもいい雑務をこなす羽目になった。何も自分でなくともいいはずだが、定期的に存在をアピールしろとでもいうように呼び出される。いい加減、彼らも諦めが悪いようだ。
重い気持ちを吐き出すように息を吐いた。
顔を上げれば、綺麗な空の色だった。
ミノリ屋の煙突が見えた。いつもより照明を落とした店内が、入り口から窺い見える。表には普段は置いていない立て看板があり、そのまえには何人かが列を作るようにして立っていた。ゆっくりと中に入って行く。
あと七分で始まる。
青桐はそっとその人たちの横をすり抜け、言われていたように裏の従業員用の出入口に向かった。歩きながら着いたことを連絡しようとスマホを手にしたとき、小林がドアから顔を出した。彼は青桐に言われて先に着いていたのだ。
「あ、よかった、間に合いましたね」
「ああ」
小林は開けたドアを押さえて青桐を中に通した。かちりと内鍵を掛け、店内に続く短い通路を先導する。
「ちょうど見に行こうかと思ってました」
事務所の前には堂島がいた。青桐を見てにこりと笑んで頭を下げる。青桐もそれを返した。
「こんばんは先生、よく来てくれました」
どうぞ、と事務所の中に招かれて、青桐は堂島について入った。部屋の中央のソファに座る朔が、顔を上げた。
「いらっしゃい」
「…ああ」
なんて言うべきか分からずに、青桐は曖昧に言って頷いた。朔は柔らかい笑みを浮かべていて、その表情に青桐はどきりとした。淡い色合いのグレーのシャツにリネンの黒いロングコート、黒いボトム、それは青桐の小説の、主人公の人物描写と同じ装いだ。衣装なのか、朔が意図してそれを着て来たのか、どちらにしてもよく似合っていて、青桐は息を呑んでただ見つめていた。
「藤本くん、そろそろ」
「はい」
堂島に呼ばれ、朔が立ち上がる。テーブルに置いてあった本を取ろうとした朔の手に小さなガーゼが当てられているのが目に入った。
怪我?
朔が青桐のまえに立った。
「じゃあ、行くから」
「ああ…、朔、あの…」
尋ねようとして、もうそんな時間もないと思い直す。
少し迷って、青桐は言った。
「席で聴いてるから」
「うん」
朔は頷いて、青桐の横を通り抜けた。
その背中を目で追いかけ、ふと部屋の隅に置かれているスーツケースに目が留まった。誰のものか、ひどく場違いな気がした。
それに…
なんだろう、少し…汚れている。
「大丈夫かい?」
「ええ」
気遣わし気に声を掛ける堂島の声がした。顔を向けると、朔は青桐を振り返り微笑んだ。スタッフに誘導され事務所を出て行く。堂島は廊下に出て見送っている。
「……」
何かあったのだろうか。
妙な違和感を覚えたとき、小林が青桐に時間です、と言った。
「さ、僕たちも会場に行きましょう」
ミノリ屋には中二階と呼ばれるスペースがあり、普段は立ち入ることは出来ないが、こうしたイベントの際には開放されていた。高い天井に、ほんの少し近づいた場所、昔工場だったときのままのコンクリートの床に半円を描くようにして並べられた椅子の中心に朔はいた。照明を落とした店内、蝋燭を模した人工的な小さな光が店中に配置され呼吸するように明滅している。スポットライトの代わりに吊るされた電球の下の一段高い壇上で、淡い光を受ける朔は淡々と、ときに感情を込めながら文章を読み上げていた。
「そのとき、私は誰にも言えない秘密を抱え、途方に暮れていた。あなたがもしも…」
もしも──その先を青桐は頭の中で朔と一緒に読んだ。
まだ二十歳になる前の年に書き上げたもの。
今と同じやり方で、何度も何度も書き直しては、出来上がった作品だ。
『有機物』と名付けた話の、句読点のひとつに至るまで覚えている。まさかこれで小説家と言う職業に就けるとは、夢にも思っていなかった。あわよくばと──心の隅で考えたことは否定しないが…
「素晴らしいですね、ほんと、プロみたいだ」
最後列で、並んで横に座る小林が、小さな声で呟いた。思わず口から零れ出たといった感じで、青桐に同意を求めたわけでもなさそうだったが、ああ、と青桐は返した。
「…朔は、…」
そこにいるだけで心を持っていく。
いつも──
「全然動揺されてなくて、…すごいですね」
「……」
「よかった」
動揺?
何に?
青桐は小林を見た。
小林は朔をじっと見つめている。
皆が朔を見ている。
「固く閉じた箱を開けなくとも、やがてそのときは来るとずっと思っていた。私も、あなたも、そうだ。違うのなら返事をして、そして…、私をここから解き放って欲しい」
青桐は小林の肩を掴んだ。
「よかったって…、なに」
小林が驚いたように振り向き、青桐を見た。
「え、聞いてないん、ですか」
足下の淡い光が瞳の中で揺らいでいる。
「柔らかな土が私の足の下で音を立てる。ぎゅう、と足首を抱き締める。その指の感触はあなたと同じ、まるで、人の形をした──有機物のように」
「青木由作、『有機物』──、ご清聴、ありがとうございました」
手の中の本を閉じ、朔は立ち上がった。ゆっくりと観客を見渡して深くお辞儀をする。
わっ、と湧き上がった拍手の中で小林は言った。
「…藤本さんのアパートで昨夜小火騒ぎがあって──」
「──はあ?!」
「ブラボー!」
ふたりのまえに座っていた外国人の若者が椅子を鳴らして立ち上がった。ライブ会場かと聞きまごうようなスタンディングオベーションの声に、驚いて上げた青桐の声は幸いにも掻き消されてしまった。
***
大丈夫だよ、と詰め寄った青桐に朔は言った。
「朔…!」
朗読会終了後、朔よりも早く会場から裏に戻った青桐は、花束を抱えた朔が従業員用の入り口を入るなり、その手を掴んで事務所に引き摺り込んだ。
「小火って、なんで、そんな──」
喘ぐように青桐は言った。
どっ、どっ、と心臓が飛び出しそうだ。
火事、火事だなんて。
「どうしてっ…」
真っ青になっている青桐を見上げ、朔はゆっくりと言い聞かせるように言った。
「大丈夫だよ、ほんとに」
「だって、それ、それ、は」
手に貼られたガーゼに視線を向けると、ああこれ、と朔は何でもないと笑った。
「火傷…っ」
「違う。慌てて飛び起きて外に出たとき、どっかにぶつけて出来た傷。消火が終わるまで気がつかなくて」
だから大したことはないのだと、朔は覆い被さるように身を乗り出している青桐の腕を──自分の両の二の腕を掴んで離さない手を、軽く叩いた。
「しかしまあ、驚いたねえ」
事務所に入って来た堂島が、目を丸くして言った。
「お疲れさま、藤本くん。素晴らしかったよ」
ありがとうございます、と朔が言った。
朔のアパートで小火騒ぎがあったのは、昨夜の深夜、厳密に言えば日付けが変わっていたので、今日の明け方ということになる。
前触れもなく、ふっと意識が浮き上がった。
朔はぼんやりと目を開けた。
どうして目が覚めたのか分からなかった。
ただ、様子がおかしかった。
部屋の中は暗かったが、見上げた天井は靄がかかったように、うっすらと白かった。
何だろう…それに、この匂い。…きな臭い。
煙だ、と思った。
煙…
『え?』
火事だ。
一気に目が覚めた朔はベッドから飛び起きた。急激な目覚めに頭の芯が痺れていた。よく考えもせずにすぐそばの窓を開けると、下から上がってきた煙があっという間に部屋の中に入り込んでくる。まずい。口元を覆い、慌てて窓を閉め、枕元の携帯だけ掴んで寝室にしている部屋を出た。家中が白く烟っている。玄関を出ると、階下の端に火の手が上がっているのが見えた。
真下だ。
さあっと、帰って来た時のことが思い出された。
背中を向けていた下の住人、手の中で赤く光っていた煙草、ライターの小さな炎。捨てられていた吸い殻。
煙草の火か。
『おいあんた、大丈夫か?!』
廊下の向こうから声がした。振り向くと大柄な男が立っていた。まだ退去していなかった反対側の部屋の住人だ。顔を合わせるのは奇しくもこれが初めてだった。
『は、はい…!』
『消防に連絡したから、水ぶっかけるの手伝ってくれ!』
その住人は、既にバケツを手にしていた。波打つ表面から、廊下に水が零れる。確か下のゴミ捨て場近くに掃除用の水道があったはずだ。朔は頷いて、階段を駆け下りた。
幸い火はすぐに消え、消防が着いたときには、ほぼ鎮火し、白く燻った煙を上げるだけになっていた。
朔の下の階の住人は不在だった。どこに行ったのか、消防と同時に来た警察に訊かれたが、朔には心当たりなどなかった。空が白むころ、野次馬に来ていた付近の住人も帰り出し、ようやく解放されたが、火元の真上の朔の部屋はもう住めるような状態ではなかった。
念には念を入れた消火活動で、朔の部屋の半分は水浸しになっていたのだ。
「まあ、荷物はほとんど寝室に置いてあったので、どうにか無事でしたけど。ちょっと大変でした」
「ちょっとって、あのなあ…!」
それのどこがちょっとなのだと声を上げた青桐に、朔は苦笑するだけだ。ソファの向かいに腰を下ろした堂島は、まあまあ、とスタッフが運んで来たコーヒーを、今は並んで座っている朔と青桐のまえに置いた。
「藤本くんが無事でよかったけどねえ、大きいスーツケース抱えて来て、どうしたのって話聞いたときにはびっくりしたのなんの」
ねえ、と青桐の後ろに控える小林に堂島は同意を求めた。他のスタッフからコーヒーを受け取りながら、小林はしきりに頷いている。
「本当ですよ。しかも先生も知らなかったなんて」
「すみません。誰にも言う暇がなくて」
火事の事後処理に、事情を訊かれたりなど、今日はここに来るまで目まぐるしい一日だったと、朔は苦笑交じりに話した。それを苦い思いで聞いていた青桐は、出されたコーヒーに目を落とした。書店のスタッフが小林を呼び、彼は事務所を出て行った。
どく、どく、と鼓動は落ち着いてきてはいたが、背中を伝う冷や汗が止まらなかった。
怖い。
こんなこともあるのだ。
朔が──自分の知らないところで、朔に何かがあったと思うだけで、指先の震えが止まらない。
六年も離れていたというのに。
「──」
その考えに青桐はゾッとした。
六年も──なぜ離れていられたのだろう。
こんなふうに、何があるか分からないのに。
それで、と言った堂島の声に、はっと青桐は沈んだ考えから引き戻された。
「藤本くんこれからどうするの? 私が紹介したところ、今からでもとりあえず見に行くかい? よければそのまま話し通すけど。藤本くんなら大丈夫だろうし」
携帯を手に、早速と身を乗り出した堂島に、朔は慌てたように首を振った。
「ああ、いえ、大丈夫ですよ。ホテルに行くので」
ホテル?
自分の横顔を凝視する青桐に気づいたのか、朔が振り向き、やや眉を下げて説明した。
「アパート。もう住めないから、とりあえずホテルに避難するんだ」
「そんな、だって、」
「元々再来月取り壊しが決まってて、退去しなきゃならなかったんだ。ちょっと予定より早いってだけだから」
「そう、それで私の知り合いの不動産屋をね、このまえから紹介してたんですよ」
堂島が簡単に補足する。そんな堂島をちらりと見て、朔は同意の代わりに肩を竦めた。
そういえば、と青桐は思い出した。先日ここから帰ろうとしたとき、彼は朔を追いかけて来て何かを渡していた。
あれは、紹介した部屋の…?
「でも時間なくてまだ内見にも行けてなくて。だから今日はとりあえずホテル」
「ホテルはお金かかるでしょう」
続かないよ、と堂島が心配の滲む声で言った。
「ええ、でも、アパートの大家さんが保険──」
「──俺の」
朔の声を遮って、青桐は声を上げた。
「俺のところにくればいいだろ」
朔が目を見開いて青桐を見た。
「え…」
心臓が早鐘を打つ。
それを悟られぬように、青桐はじっと朔の目を見つめた。
「俺のところがあるだろ」
「…で」
ああ、と堂島が大きく頷いた。
「それがいい! そうしなさいよ藤本くん」
「え…っ、いや、でもあの…」
満面の笑みを浮かべ、安心し切ったように息を吐いた堂島に、朔は困ったような顔を向けた。
「それは、ちょっと、あの」
朔は言いながら俯いた。
「どうして。同級生なんだから遠慮しなくていいじゃない、ねえ、先生」
思わぬ味方に、はい、と青桐は頷いた。
「朔」
肩に触れると、顔を上げた朔は青桐を振り仰いだ。
どっ、どっ、と心臓が激しいリズムを刻む。
朔が何かを言いかけた。
「でも」
「いいから」
この機を逃したら、もう二度はない。青桐は懇願する思いで朔が何か言うまえに続けた。
「次が、決まるまででいい──今夜だけでも」
声が震えそうになる。
必死だった。
何でもいいから、今だけでいい。頷いて欲しい。
朔の役に立てるのなら、何でもいい。
「……」
見返す朔の目がゆらりと揺れた。見覚えのある困った表情に駄目かもしれない、と思ったとき、こくりと首が縦に動いた。
青桐は目を見開いた。
「…あの、じゃあ…」
いいかな、と俯いたまま朔が言った。
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