12
足の踏み場もないほど散らかった部屋の中をうろうろと歩く。プリンターから吐き出された紙がひらひらと舞い、床に置いた段ボールの中に落ちた。また一枚、また一枚、次から次に落ちる白い紙は乱雑に、裏表など関係なく降り積もっていく。
忙しなく歩き回る自分の足音に苛ついて、青桐は声を上げた。
「だから、今やってる」
『そ、それは、分かってます、はい』
どこか外にいるのか、後ろに外気の音が混じっていた。
「だったらいちいち掛けて来なくてもいいだろ」
『まあ、そうなんですが』
そういうわけにもいきませんので、と口籠って言う小林に、青桐はため息だけを返した。
「とにかく今やってるから。二時間は放っておいてくれ」
『わ、わかり──』
言いかけた小林の言葉の途中で通話を切り、ついでに電源も落として、青桐はスマホを仕事部屋の小さなソファに放り投げた。
「くそ…っ」
急な仕事の依頼があったのは三日前だ。
月刊雑誌の見開き一ページ分のショートストーリー、そのコーナーを執筆している作家がアルコールの過剰摂取で緊急搬送された。その時点で締め切りまで五日しかなかった。倒れた作家は筆が遅いことで有名で、原稿は締め切り二日前にならないと書き出さない人だったらしく、当然予備の原稿などもない。そこで執筆余裕のありそうな、いわゆる新人作家にお鉢が回ってきたわけだ。
小林が何度も進捗状況の確認を取ってくるのはそうした背景があるからだが──なにしろ掲載分が間に合わなければ間違いなく編集部は困ったことになるからだ──こうも連絡を度々寄越されては進むものも進まないのだった。
「しょうがねえなあ…」
彼の気持ちも分からなくはない。
締め切りは明日だ。
青桐はプリントされた原稿を段ボールから拾い上げて、はじめから読み直した。ほぼ出来上がってはいたが、細かな箇所の修正が必要だ。推敲して訂正し、パソコンに打ち込み、また印刷をして、ということを繰り返している。効率が悪いと言われようと、それを変える気はもちろんない。こんなふうに回りくどいやり方でしか出来ないことは自分が一番よく分かっていた。性に合わないことは出来ない性格だ。
「…あー、くそ」
くしゃっと原稿を丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。
もう一度。
パソコンに向き合ってキーボードを叩く。
明日は朔と会おうと思っていた。
連絡をしたかったけれど、これでは出来ないかもしれないと思う。
あれからもう一週間が経っていた。
以前なら何もなくても声を聞けた。
でも今は違う。
理由がなければ電話を掛けることも躊躇ってしまう自分が、もどかしくて歯痒かった。
駅ビルの地下に入っている大型商業施設の一角に、取引先の店が入っている。
「では、失礼します」
「はい。ご苦労様でした」
納品した商品の確認のために訪れていた朔は、店長に頭を下げて店を出た。卸した商品のディスプレイについての報告を頭の中で練りながらエレベーターに向かっていると、後ろから声を掛けられた。
「あ──藤本さん?」
振り返ると、忙しなく移動する人混みを背に、携帯を手にした男が立っていた。
ああ、と朔は思い出す。
確か…
「小林さん、こんにちは。変なところで会いますね」
「ほんとすごい偶然ですね。先日はありがとうございました」
「こちらこそ。来週の本番前にお会いできてよかったです。お仕事ですか?」
ええまあ、と紙袋を手に提げた小林は笑った。気の弱そうな人だが、優秀なのだと堂島が褒めていた。
「あとで先生の陣中見舞いに伺うので、差し入れと思いまして」
「そうですか。大変ですね」
提げている紙袋は駅地下に入っている有名な菓子店のものだ。毎日行列が絶えないと同僚が零していたのを聞いたことがある。担当する作家へ持って行くのだろうと朔は思った。
「いえ、私よりも先生のほうがずっと──あっ、そういえば藤本さん、青木先生とは同級生だったと聞きましたけど」
「ええ」
きっと漏らしたのは堂島だな、と朔は内心で苦笑した。
「高校のころ…そのあとは、それきり疎遠でしたけど」
そうですか、と小林は頷いた。
「まあでもまた再会したっていうのは、縁があるんですよ。そういうことって大事にしないと」
「そ──そう、ですね」
朔が面食らっていると、にこりと小林は笑い、それからあっと声を上げた。
「僕、このあと青木先生のところに行くんですが、よかったら一緒に差し入れを選んでいただけませんか?」
「え、おれ…あ、僕、がですか?」
「そのほうが喜んでもらえるかと。先生今ちょっと大変なので」
「え?」
いやあ、と頬を掻きながら小林は申し訳なさそうな顔をした。
「僕が急な仕事を捻じ込んでしまったせいで…執筆期間が四日しかない上に、明日が締め切りで。先生のことだから多分徹夜して書いていると思います。先生、書き出すと周りが見えなくなるし、昼夜逆転してあんまり食事も取らないみたいなので」
ちょっと心配ですよね、と小林が続けた。
「もしお時間大丈夫なら、選んでいただけませんか」
朔は曖昧に頷いて腕時計を見た。十七時五十分。今日は売り場確認をして終業時間を過ぎればそのまま直帰してもいいと言われていたので、問題はない。一度戻るつもりでいたが、報告は明日朝一番に家で作成して週明けに提出すれば間に合うだろう。
「じゃあ…、ぜひ」
一週間前、真夜中に掛かってきた電話の、青桐の声が耳を掠めた。
何がいいかと尋ねられ、時間的に食事的なものがいいかもしれないと朔が言うと、では降りましょうか、と小林に促された。
下りのエスカレーターに乗り、地下二階の惣菜や菓子店が並ぶ方へと足を踏み入れる。食べ物の匂いに溢れた売り場は、帰宅するサラリーマンや夕飯を買い求める人たちでごった返していた。
「僕正直青木先生がどんなものを好むのか知らなくて、助かります」
「そうなんですか?」
「先生、家に人が入るのすごく嫌がるので、大抵は外で会うんですが、食事はまだ一緒にしたことないですねえ」
男ふたりで人混みの中を隙間を縫うようにして歩き、綺麗に飾られたガラスケースの中を覗いて行く。
コロッケや唐揚げ、中華に和食、洋食と、ないものはないといえるほどに並んでいる惣菜に、どれもが美味しそうに見えて目移りする。鮮やかなレタスをふんだんに使った山盛りのサラダが目に入り、思わず朔は笑みを零してしまった。
野菜、嫌いだったな。
食事についてくる付け合わせはもちろん、サラダは全くダメで、料理に入っている小さな野菜の欠片まで選り分けて食べていた姿を思い出した。
「ああ…お腹空きましたねえ…」
「ほんとですね。俺も、買って帰ろうかな」
心の底から空腹のような声を出す小林に笑いながら朔は言った。たまにはデパ地下の惣菜で贅沢してもいいかな。
「んー…、青桐は、…ああ、あれがいいかも」
「え、どれですか?」
並んで待つ人だかりの肩越しに小林はガラスケースを覗き込んだ。ほら、と朔が指差したのは、老舗洋食店の大きな手作りハンバーグの弁当だった。
***
ちょうど原稿の直しがすべて終わったところだった。
何か物音がしたような気がして、ふっと青桐の意識が逸れた。
いつの間にか陽の落ちた部屋は暗く、パソコンの青白い明かりだけが手元を照らしている。
何時だ?
パソコンのモニターの端に出ている時刻は二十時を過ぎていた。
もうそんな時間か。
朝からずっと座り続けていたせいで強張ってしまった背を、青桐は軽く伸ばして立ち上がった。何か食べるかと部屋を出ようとして、ソファに放り出したままのスマホに目が留まった。そういえば昼くらいに小林から電話が来て、うっとおしいから電源を落としたのだったと思い出す。拾い上げて、電源を入れながらリビングに向かった。電源がついたところでまたテーブルに放り、キッチンの冷蔵庫を開ける。
なんもねえな。
ビールの缶が二本と、飲みかけのミネラルウォーター。青桐は料理をしなかった。作り置いたものはあったが、今はまだ駄目だ。
仕方なしに冷凍庫を開けた。先日由生子が買って来たものが乱雑に詰め込まれている。そのままだったと、完全にあることを忘れていた。何があったかと漁り、これでいいかと取り出したのは、冷凍の肉まんだった。まあ、少しは腹の足しになるか。
袋を開け、ふたつ皿に置いた。置いてから濡らすんだったと、蛇口をひねってカチコチの肉まんをくぐらせる。ラップをしてレンジに放り込んで、缶ビールを取り出した。
レンジが作動する薄闇の中でプルトップを開け、ひと口飲もうとして、視界の端が光っているのに気がついた。
テーブルの上のスマホの画面が明るい。近づくと、小林からの着信だった。
『お疲れさまです、せ…青桐さん』
「ああ、お疲れ。原稿さっき出来た」
電話の向こうの小林の気配が明るくなった。
『そうですか、ありがとうございます!』
「急いでんならデータで送るけど」
はいっ、と小林が言った。
『そうして頂けると! 僕もっ、すぐに社に戻りますのでっ』
まだ外にいるのだろう、かつかつとどこかを足早に歩く足音がする。
「…わかった。送っとくよ」
それじゃ、と切ろうとしたとき、小林の言葉に青桐の手が止まった。
『ああ、そうそう、先生ハンバーグどうでした?』
ハンバーグ?
チン、とレンジが鳴った。
「…は? 何それ?」
『えっ、受け取りませんでした? 夕食にと思って買ったんです。藤本さんが選んでくれて』
──藤本。
「さ…、え、なんで…」
なんで、小林と朔が?
『ちょうどT駅の地下で会いまして。先生への差し入れを選んでいただきました。本当は僕がお届けするはずだったんですが、他の作家さんに呼び出されてしまいまして──』
呼び出された作家の自宅は青桐の家とは真逆だった。差し入れの入った袋を見てどうするかと困っていると、朔が自分が届けるからと言った…
『藤本さんなら先生のお知り合いだと聞いてましたのでいいかと──住所をお渡ししましたけど、あれ、まだ着いてないですか?』
おかしいなあ、と呟く声に、はっと青桐は顔を上げた。
さっき、物音がしていた。
あれは──玄関か。
『もう一時間くらい経って…』
「わかった」
『せ』
通話を切って青桐は玄関に走った。鍵を開け、ドアを押し開ける。どさ、とドアの外側で何かが落ちる音がした。
店名の入った小さな紙袋。
「──」
朔が来ていた。
朔が、ここに。
来て、ドアノブにこれを掛けて帰って行った。
青桐はそれを拾い上げてスマホを操作した。電話を掛けようとして目を見開く。メッセージが入っていた。
ずっと、六年もの間使われていなかった朔とのトークルームに、彼からのメッセージが届いていた。二十分前だ。
すぐに通話を押した。
なんで、──
なんで俺は。
すぐに繋がった。
「朔?!」
朔が名乗るよりも早く、青桐は噛みつくように声を上げていた。
ガサガサと、風が擦れるような音。
『…青桐? お疲れさま』
耳元で聞こえる朔の声に体温が上がる。
青桐は玄関の中に紙袋を入れ、置いてあったキーを取って外に出た。
『ドアのところ見た?』
「見た。つうかなんでインターホン鳴らさねえんだよ!」
エレベーターのボタンを苛々と押す。
早く来い。
『え、だって執筆中で忙しいって小林さんが言ってたから。それに…』
「それに?」
くそ、あいつ。
余計なことを。
「エントランスどうやって入ったんだ」
ようやく来たエレベーターに乗り、一階を連打した。
このマンションは一階の中央エントランスで住人を呼び出さなければドアが開かない仕組みだ。フロントにいるコンシェルジュに頼めば不可能ではないが、この時間は彼らはもういない。
ああ、と朔がかすかに笑った。
『ちょうど出てくる人がいたから、すれ違いで入っただけだよ』
こつこつ、と足音が聞こえる。
外を歩いているのか。
「今どこ?」
『もう、家の近く』
「待って、俺、すぐ行くからっ」
一階に着いた。開くエレベーターの扉をもどかしくすり抜けながら、青桐はエントランスの自動ドアをくぐり、外に出た。走れば5分とかからない。青桐は駅のほうへ向かう道を駆けだした。
違う、と朔が言った。
『俺の家。もう帰り着く…忙しいって聞いたから』
今にも切られそうな気配に、青桐は被せるように言った。
「もう終わった。あと、データ送るだけ」
『そう。じゃあ、ちゃんとご飯食べて、休んで』
その声の向こうに電車の音がかすかに混じる。
駅の近く。
きっと、自宅の近くで降りたばかり…
構内のアナウンスが遠く聞こえている。
青桐はゆっくりと走るのをやめた。
もう、追いつけない。
「朔…」
なんて言えばいい?
本当は会いたい。戻って来て欲しかった。出来るなら朔のところに行きたい。
でもそんなことは言えるわけもない。
朔の足音が止んだ。
お互いに黙り込む。青桐は次の言葉を探して。朔は、スマホの向こうでただじっと立ち尽くしている気配がした。
カンカンカン、と踏み切りの警笛が鳴る。これは、どちらからだろう。
やがて、青桐の耳元で朔が身じろいだ。すうっと息を吸い込む。
『来週の朗読会、来る?』
静かに言われた言葉に、一瞬心臓が止まりそうになる。
「行く、…行くに、決まってる」
走って上がった息はもう落ち着いているのに、息をするのが苦しかった。
明日会いたいという言葉を飲みこんだ。
でも明日は会えない。
きっと何かしらの直しが入る。
仕事くらいきちんとしていると朔には思われたい。
「絶対、行く」
途切れ途切れになる声が知らずに震えた。
『うん。じゃあ…おやすみ』
そう言った朔が笑ったような気がした。
家に戻ると、玄関の中に置いていた紙袋を持ってリビングに入った。容器を取り出し、中を開けると、デミグラスソースのたっぷりかかった大きなハンバーグとライスが入っていた。
紙袋の底に、折り畳まれた紙が入っている。
取り出して広げた青桐は、かすかに目を見開いた。
『俺も一緒の夕飯。付け合わせの野菜は全部俺のに入れてもらったよ』
朔の字だ。
朔は、青桐が苦手なものを覚えていた。
胸の奥が熱くて、たまらなくなる。
少しは期待してもいいんだろうか。
また、元のようになれるだろうか。
淡い期待が膨らむのを、青桐は必死で押し殺した。
声だけじゃ足りない。
今すぐにでも朔に会いたい。
会って、そうして抱き締めて、今度こそ離したくないと青桐は思った。
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