11


「じゃあ、ここで」

 店を出たあと、一度会社に戻らねばならないと言った朔と、大きな通りまで出た。地下鉄への道との分かれ目で立ち止まり、去っていく朔を見送った。

 手の中には朔の名刺がある。

 青桐が連絡先を教えて欲しいと言うと、朔はしばらく黙り込んだあと、青桐の手の中に名刺を押し付けたのだ。

 今日のように突然職場に乗り込まれ、掻き回されるよりはいいと思ったのかもしれない。

 ここまでふたりは無言で歩いてきた。

 ほんの少し先を歩いていた朔の、細い肩先。

 斜め後ろから見た頬の輪郭。

 高校のころは身長差は10センチもなかったのに、あれから青桐の背は伸びて、見える角度は記憶の中と違っていた。

 どうしても心はいつもあのときに戻って行く。

 追いかけることが出来ていたら、ちゃんと話せていたら、もっと早くに好きだと──言えていたら。

 じっと名刺を見つめる。

 裏返すと綺麗な字で連絡先が書かれていた。懐かしい朔の字だ。

 数字の並びを辿っていた視線がふと止まる。かすかに目を見開いた青桐は、見覚えのあるそれに驚いていた。

 名刺の裏に書かれていた連絡先は、6年前、何度かけても繋がることのなかった番号──青桐がもう暗記してしまっている朔のスマホの番号と同じだった。

『ここに掛けてくれたら、出るから』

 別れ際にぽつりと言った朔の言葉。

 あれから出てくれないことが怖くなり、逆に掛けることが出来なくなっていた番号、もう既に解約されているとばかり思っていたのに。

 朔は今もこの番号なのか。

「どうし…」

 どうして。

「……」

 彼が歩いて行った道の先を振り返る。けれどもう人ごみに紛れ、朔の姿は見えなくなっていた。



 これは夢だと分かっているのに、胸を掻きむしりたくなるほどの焦燥に、青桐は奥歯を食いしばっていた。

 じっとりとした暑さが蘇ってくる。

 くそ、くそっ、なんで、

 なんで出てくれないんだよ。

『朔、さく…っ』

 朔の自宅のマンションのドアの前で、青桐はスマホを鳴らし続けていた。人の気配のまるでしないドアの向こうからは、どんなに耳を澄ませても着信音など聞こえてこない。朔がここにいないのは分かっていた。分かっているのに。

 これではまるでストーカーだ。

 なんで…。

 言い訳も弁明も説明も、何ひとつ受け取ってはもらえないなんて。

 どうしたらいいだろう。

 どうしたら、きちんと話すことが出来るのだろう。

 ドアの前にしゃがみ込んだ青桐は、為すすべなく頭を抱え込んだ。

 夏休みが終わって新学期が始まれば、否が応でも顔を合わせるだろう。けれどそれを待てないのだ。

 今、今話しておかなければ。俺が朔に声を掛けたのは、ゲームなんかじゃなかったのだと、あれは──あれは。

 震える指で握り締めていたスマホを操作し、メッセージを送った。これでもう10回以上、既読にならないままのメッセージがアプリの中で降り積もっていく。

 頼むから見てくれよ。

 頼むから。

 俺を見てよ。

 朔。

 もう一度、もう一度だ。

 青桐はメッセージを打った。

 明日、会って話がしたい。待ってるから来て欲しい。

 場所はよくふたりで歩いていた街の駅前を指定した。送ったそれをしばらく眺めてから、ゆっくりと立ち上がり、開くことのないドアを見つめてそこを離れた。

 そして翌日、朝にはメッセージは既読されていた。

 返事はたった一言、分かった、とだけあった。

 朔が来る。朔に会える。

 けれど喜び勇んで行った待ち合わせ場所に、いつまでたっても朔は現れなかった。どうでもいい人間ばかりが青桐に話しかけ、会いたい人には会えなかった。



「……っ」

 涙の膜で暗い天井が揺れている。

 夢なのに。

 これはただの記憶だ。

 瞬きをするとこめかみを伝って落ちた。

 もう何度も繰り返し見た夢。灼けつくような焦燥に駆られて真夜中に目覚めるのも、これで何度目か分からない。

 手のひらで目を擦り、青桐はベットから起き上がった。裸足の足に床は冷え切っていたが、構わなかった。寝室を出てリビングに向かい、冷蔵庫を開けた。

 ああ、今日も、食べられる気がしない。

 それでも皿に注いだものを掬った。無理矢理に口に入れ、我慢して飲み込んだ。好きでもない味に、子供のようにぽろぽろと涙が零れ落ちた。

 苦しい。

 苦しい。

 朔、朔。

 あの番号に掛けたら、本当に出てくれるんだろうか。

 もう無視されない?

 ちゃんと応えてくれる?

 本当に?

 食べかけの皿を置いて、青桐はふらりと歩き、リビングのソファの上に置いたままだったスマホを手に取った。書き直している原稿が床に散らばり、あちこちに積み上げられた資料で、リビングはひどい有様だった。

 名刺を見なくても番号は覚えている。もちろん青桐のスマホには今も朔の番号が登録してある。けれど青桐はゆっくりとひとつずつ番号を押した。

 恐る恐る耳に当てたスマホから、発信音が聞こえ始めた。


***


 半地下の階段を下りると、古い木のドアがある。取っ手に手を掛けて引くと、ずっしりと重いそれは、ぎしぎしと軋みを上げて外側に開いた。

「あーいらっしゃい」

 カウンター近くの小さなテーブルを拭いていた人が、悪戯っぽく笑って朔を見た。その顔を見て体の力が抜けていく。ほっと息を吐いてそのテーブルに歩み寄ると、何にする? と訊かれた。

「えーとじゃあ、…甘過ぎないのを」

「はいはい」

 拭いていた布巾を手に、笑ってカウンターのほうへ行く。くるりと、振り返った。

「藤本お、何か食べた? 何か作ろっか」

「あー…いい。ありがとう」

「そうかあ?」

 あまりお腹が空いていないと言うと、こんな時間なのに、と信じてない目でこちらを見てきた。唇を尖らせるさまは、男の姿をしていても中身はやっぱり女の子なんだなあ、と朔は思う。

 やがて運ばれてきた飲み物と一緒にテーブルに置かれたのは、綺麗な形のオムライスだった。

「私も食べるからさあ、ちょっと付き合え」

 ほら、とスプーンを差し出され、朔は苦笑しながら受け取った。

「これ花ちゃんが作ったの?」

「おう、そうよ? ありがたがって食べな」

 テーブルに椅子はちゃんと四脚あるのに、わざわざ向かいではなく隣に座りながら、安西花はにやりと笑った。

 


 朔が高校を辞めてからも、安西との付き合いは続いていた。

 安西は朔と同じ時期に服飾系の専門学校を卒業し、現在は母校で講師の助手として働きながら、週に何度かこの深夜営業のカフェでバイトをしている。所謂この店は安西の趣味に見合っていて、ここで働く事は彼女にとって天職のようなものだった。

 ここは店員が皆自らの性別とは逆の格好をして働く、特殊な店だ。客は皆それを知っていて訪れる。もちろん訪れる者もどんな格好をして来てもいい。一見はお断り、会員制となっていて、中身は性的なものとは無縁の健全でごく普通のカフェだ。出しているメニューも昔ながらの喫茶店のもので、酒はビールかノンアルコールのビール、注文があれば作る数種類のカクテルだけ。店の店主はかなりの高齢で、自身の身内が性的マイノリティで苦しんだ経験を持っていた。元々普通の喫茶店だったここを今のように変えたのには深い事情があるようだったが、詳しいことは朔は知らない。

 皆自分ではない誰かになる。

 寛容で温かい、小さな世界。

 時々顔見知りになった彼らと話すことがある。彼らは皆、いわば安西の友人としてここに出入りしている普通の朔を嫌がったりはしなかった。

 傷ついたことがあるからこそ、皆優しかった。

 今日はカウンターの端に、綺麗な衣装を身に纏った女の子がふたり、肩を寄せ合って座っていた。一度だけ言葉を交わしたことがある彼らの、どちらかが男の子のはずだが、後ろ姿だけでは朔にはどちらがどうなのか判断がつかなかった。

「浮かない顔だねえ」

 テーブルに頬杖をつき、オムライスを掬って食べる朔を安西は覗き込む。彼女は今日も完璧な男装をしていた。きちんと着込まれたシャツにネクタイ、ベスト、白い手袋。彼女が言うには執事の格好だそうだ。女性にしては高い背に、凹凸のあまりないすらりとした体にそれはよく似合っていた。声もどちらかと言えば低い方なので、中性的なその見た目から、朔のほうが混乱してしまうことも最初はままあったことだ。

「う、ん、そう?」

 そうかな、と笑ってみせる。にやにやと安西は口の端を上げた。

「あー仕事、失敗した? 今日は読み聞かせ会だったよねえ。まーた人妻に可愛がられそうになった?」

「……」

「…どうした?」

 反応のない朔に、安西が声を落とした。

「青桐に会ったよ」

 安西は目を見開いた。四日前に再会したことを朔はまだ彼女に話せていなかった。

「嘘」

「本当」

 仕事で偶然に。

 本当にあんなふうに再会するなんて、思ってもみなかったのだ。

 朔はかいつまんで安西に青桐と再会した経緯を話した。青桐が小説家になっていたと言うと、それは安西も知らされていなかったようで、驚きで声を失くしていた。

「はあ? あいつが、あの青木由?」

 こく、と朔は頷いた。

 信じられないと呟く安西に、何も返せず、朔は両手のひらに顔を押し付けた。

「俺、どうしたらいい?」

「どうって、…どうもこうも…」

 ふうっと大きく息を吐き出して、安西は背もたれに寄りかかった。

「あの馬鹿、なんて?」

「……」

「藤本お、ちゃんと言いな? 何か言われただろ」

 顔を上げた朔はじっと自分の手に視線を落とした。

「また俺と…友達になって欲しいって」

「友達」

 あいつらしい言い回し方だと、朔に気取られぬように、そっと安西は思う。本当は違うくせに、どうしてこうももどかしいやり方しか知らないのか。

 あいつはどうしようもない馬鹿だ。

 けれどこうなってしまった原因は自分にもあると、安西は深く息を吐いた。

「ごめん、私のせいだよねえ」

「それは違うよ」

 きっぱりと言い切ってしまう朔に、安西は苦笑した。

「まさか藤本がいなくなっちゃうなんて思わなかったからさあ…」

 私も頭に血が昇ってた、と安西は思い出すような目をした。

『おまえ、藤本に何した?! 説明しろ!』

 追いかけようとした青桐を引き留めたのは安西だ。朔の泣き顔を見て高瀬と青桐が何かしたのだと直感で分かり問い詰めた。どんなに青桐が怒鳴ってどけと言っても譲らなかった。あのときは誰もが、そのまま朔が消えてしまうだなんて考えてもいなかったのだ。

「ごめん、花ちゃん」

「そこで謝っちゃうのが藤本だよな…、でもさあ、ちゃんと後で電話くれたじゃん? 死ぬほど嬉しかったよ」

 新学期が始まったその日の夜、朔は安西にだけ連絡をした。

 青桐以外で誰かと思ったとき、真っ先に思い浮かんだのが安西だった。色々なことが重なり、自分のことで手一杯だったあのとき、安西の明るい声が聴きたくてたまらなかった。

『……安西さん?』

 甘えていたのだ。きっと、姉のような安西に。

 藤本、と驚いた声で安西が言った。

『あんた、一体何で…っ、どうしてなんでいなくなってんだよ!?』

 そして、そこでようやく、朔は事の顛末を知った。

 知ったあと、青桐に連絡をしようと何度も思った。けれど結局出来なくて、送られてくるメッセージを見ることも出来なくなった。事情を知るまえに一度だけ返事を返した。会おうと約束をしたのに、その場に行って怖くなり、結局会わずに逃げ帰って来てしまったことが、朔を躊躇わせていた。

 そして青桐からの電話やメッセージが二学期が始まって一週間ぐらい経ったころにぴたりと止んだのも、大きかった。

 怒っているんだろうか。

 酷いと思われているんだろうか。

 俺が、嫌いだと言ったから。

 身勝手に、何も知らないで言ってしまった。もっとちゃんと話を聞くべきだったのに。青桐は何度も言おうとしていたのに、聞かなかった自分がいけなかった。

 六年ぶりに会った青桐は何も変わっていなかった。

 同じように優しい目でこちらを見ていた。

 青桐は朔がまだ自分に対して怒りを抱いていると思っているようだったが、実際には違っている。

 彼へ覚えた怒りは一瞬だった。

 あとはただ後悔ばかりだ。

 なのに、再会したとき、あんなに冷たくしてしまった。

 また友達になりたいと言っていたのに。

 青桐の頬を叩いた感触が、まだ手のひらから消えない。

「…どうやって許してるって言えばいいか分からない」

 安西がふっと微笑んだ。

「そういうのはさあ、ゆっくりどうにかなるもんだよ」

「なる、かな」

「なるだろ」

 青桐は今でもきっと朔が好きだ。そして朔も、ずっと青桐が好きなのだ。

「藤本は何も言わないで待ってればいい」

 あの馬鹿が今度こそちゃんと言えばいいだけだ。そうでなければ本当に馬鹿だし、救いようがない。

 幼稚園児並みの精神年齢で、小説家だとはね。

 笑える。

 おかしくなってくすくすと笑うと、不思議そうに朔が首を傾げた。

「藤本お、可愛い」

 と揶揄うように頬を撫でると、困ったような表情をした朔の顔に笑顔が戻った。



 終電よりまえにアパートに帰った。鍵を開け、中に入る。外気とあまり変わらない寒さのアパートの部屋の中に、思わず両腕をさすった。古いアパートで、あちこち立て付けが悪く隙間風も多い。駅に近い割に家賃が安いのが気に入って選んだ部屋だったが、建物の老朽化にいよいよ寿命が来たらしく、再来月には取り壊すことが決まっていた。退去は来月中にと既に言い渡されていた。

「よい、しょ…」

 エアコンのスイッチを入れ、荷物をソファに放った。堂島から貰った書類入れはテーブルの上に置く。中にはアパートかマンションの間取り図が入っているはずだ。つい先月、話の流れで引っ越し先を探していると零したら、それならと堂島が一件紹介してくれたのだ。知り合いに不動産を営む人がいるらしかった。

 コートを脱ぎ、流しで手を洗った。もう遅い時間なのでシャワーを浴びるのは気を遣うのだが、下の住人はまだ起きているようだった。階段を上がりしなに見た窓には、明かりが灯っていた。

 起きているのならまあいいかと、朔は浴室に向かった。


***


「…ん」

 どこかで、何かが鳴っている。

 闇の中で朔は目を覚ました。薄く目を開く。

 枕元に置いていたスマホの画面が明るい。

 なんだろう…

 まだ、真夜中だ。

 3時?

 ぼんやりと覚醒しきれないまま、朔はスマホに手を伸ばした。

「………はい」

 声は遠かった。

「もしもし…?」

 呼びかけると、さく、と呟く声がした。

 朔の意識が一気にはっきりとした。布団をはねのけ、ベッドに身を起こした。

「青桐?」

 なにか、なにかあった?

 心臓がどくどくと鳴る。

『さく、…よかった、出てくれた』

 青桐の声は小さく、途切れがちに聞こえた。

『出て、くれないんじゃないかと、思って』

「…出るよ、何言ってるの」

『うん』

 ぐす、と声の向こうで音がした。

『…そっか』

 安心したように息を吐いて、青桐が言った。

『また会える?』

「…ん」

『よかった』

 拙い言葉が朔の胸に突き刺さる。

『おやすみ』

「うん…おやすみ」

 かすかに微笑む気配がして、ぷつりと通話は切れた。

 青桐の声の余韻が残る闇の中で、朔の体は、火に照らされたように熱くなっていた。


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