第3話 何も知らない幸せ
穏やかな日が降り注ぎ、緩やかな風が頬を撫でる。
バルコニーに立ち、ミュゼは心地よい昼下がりの空気を全身で感じていた。
「こんなに気持ちがいい空気は久しぶり」
口走って、不思議に思う。
自分には、ここに来るより前の記憶がないのに、どうして懐かしいと感じるのだろう。
ただ、どうしてか、心地よい風や優しい陽の光を、眩しく遠いものに感じる。自分には勿体ない、無縁のものだと、感じてしまう。
(ずっと暗闇の中を一人で走っていた気がする)
心細くて怖くて寂しくて、でも誰にも手を伸ばせないまま、走っていたような。そんな不安が、時々胸に湧き上がってくる。
「ミュゼ」
後ろからグランの声が自分の名を呼んだ。
締め付けられそうになる胸から、すっと不安が消える。
「グラン」
ミュゼが振り返るより早く、グランが隣に立っていた。
「何か、見ていたのか?」
グランがミュゼの髪を梳く。
何か話す時、グランは必ずミュゼに触れる。
癖なのかと思うが、ちょっと擽ったい。
「ううん。陽の光と風が気持ちいいなと思っていただけ」
「そうか」
グランがはにかんで、ミュゼの肩に手を置いた。
「体は、辛くないか? この国の気が合わないことも、ないか?」
「大丈夫、むしろ不思議なほど体になじむ。息がしやすい」
自分はほんの数日前に、ここではない全く違う世界から来たのだと、グランが教えてくれた。
そういう存在は、世界に流れる気が合わないと体調を崩したりするらしい。
特にミュゼのように力が強い魔法使いは、その傾向が顕著だという。
「グランのお陰かな。私に魔力を分けてくれたんでしょう?」
腹に刻まれたグランの印から、温かい力を感じる。
この印を刻まれた時のことも、どうやって魔力を分け与えられたかも、よく覚えていない。
けれど、体に残るグランの魔力から、ミュゼを護るための印なのだと感じ取ることができた。
「ミュゼが望むなら、いつでも分けてやる。遠慮せずに言うといい」
グランの手がミュゼの頬を撫でた。
その手の熱を、何故だかとても懐かしく思う。
ここに来る前のことを、ミュゼは何も覚えていない。
失くした記憶を取り戻したいとは、思わなかった。何も覚えていない今に安堵している自分に、気が付いているからだろうか。
それとも、記憶を喰った相手が、グランだからだろうか。
記憶を喰われた事実すらミュゼには覚えがないが、嫌な気はしなかった。
頬に触れるグランの手に自分の手を重ねる。
「グランは昔、私に会ったことがある?」
失くした過去に驚くほど未練や執着が湧かないミュゼだが、それだけは気になった。
「いいや。お前に会うのは、初めてだ」
グランの手が頬から離れて、ミュゼの顎を摑まえた。
軽く持ち挙げられて、上向かされる。
「私が食ったお前の記憶は、返してやれん。後悔、しているか?」
ミュゼは首を振った。
「もう要らない。だけど、グランのことは、もっと知りたい」
ミュゼを見下ろすグランの瞳は、どこか空虚だ。
こんなに優しい人なのに、どうしてそんな目をしているのか。出会った時から、不思議に思っていた。
グランがミュゼに両手を伸ばす。
大きな手が頬を包み込み、顔が近付いた。
「そうだな。ミュゼには私を知って、愛してほしい。その為にも、私もミュゼをもっと知りたい」
不思議な言葉だと思った。
ミュゼの記憶を喰ったグランなら、ミュゼよりミュゼを知っているはずなのに。
「だが、そればかりを気にする必要はない。ミュゼはミュゼらしく、好きに過ごしていれば、それでいい。したいことをして生きろ」
「したいこと……」
今はまだ、何も思い浮かばない。
この国のことも、自分が何者なのかも、ミュゼは何も知らない。
(でも、グランが私にしてほしいことなら、もう聞いてる)
ミュゼがグランの『守護者』になること。
『守護者』とは、大昔からこの大陸に伝わる、天や神に準ずる力を持った存在なのだという。『守護者』に愛された王が治める国には、どれほど強大な権力も関与できない。
グランは『守護者』を切望している。
(別の世界から来た私じゃないと出来ないこと。私が唯一、グランの役に立てること)
自分を拾い上げて、生きる場所をくれたグランの役に立ちたい。
ミュゼの中に生まれた欲は、それだけだ。
グランの優しさが『守護者』を求めるが故であったとしても、構わない。
ミュゼにとっては贅沢すぎるほど幸せな今だと思えるからだ。
「この国のこと、知りたい。だから、城の中とか、街とか、グランと一緒に歩きたいし、教えてほしい」
「ならば、今から少し城内を廻ろう。街は後日、時間を作って案内する」
ミュゼの頭を撫でて、グランが顔を離した。
遠ざかる熱が寂しくて、歩き出したグランを追いかける。
不意に歩を止め、グランが振り返った。
「鉄面皮のように表情が変わらないお前の……、ミュゼの笑った顔を見てみたい」
ミュゼの頬に指を滑らせて微笑むと、グランはまたすぐ歩き出した。
自分の顔に手を添える。
頬を摘まんで引っ張った。
(私って、表情が変わらないんだ。全然、知らなかった)
知らないことは全部、グランが教えてくれる。
グランの傍にいられる今が、とても心地いい。
ミュゼはグランの背中を追いかけた。
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