第7話 無理難題にござるっ


 俺は織田殿に誰何され、恐ろしさを押し隠しながら答えていた。

「京の御用絵師、狩野源四郎にございます」

「おお、そちが世に名高き狩野の棟梁か」

「ははっ」


 甲高い声が耳をつく。

 このお方は、松永久秀殿のように恐ろしい。

 だが、その素はどのようなものなのであろう。

 この方の素が、松永殿と同じく悪の道さえ躊躇わないものであれば……。

 関白様は再び期待を裏切られ、世はさらに混迷を極めることとなろう。


「源四郎。

 我が家臣の者と、相撲をとれ」

「はっ?」

「わしの声が聞こえなかったのか。

 猿、お前なら源四郎より小さくてちょうどよい。

 相手をしろ」

 あまりのことに、俺の身体は凍ったように硬直した。


「棟梁は大切な身体。

 お許しいただけるのであれば、私めが代わりに……」

「相撲であれば、腕に覚えが……」

 と、直治どのと信春が口々に言うのへ、「出すぎるな」の一言が織田殿から被せられた。


 仕方あるまい。

 俺は相撲など、子供の時すら取ったことはない。だが、勝てと言われたわけでもなし、形だけ取るだけならできよう。

 見れば、猿と呼ばれた小男も一廉の武将なのであろう。小柄で金壺眼を光らせているが、その筋骨はたくましい。俺より背こそ低いが、どう見ても勝てるとは思えぬ。


 互いに諸肌脱ぎになり、相対すれば……。

 猿と呼ばれた男は、俺を気の毒そうに見ている。この男から見ても、俺が相撲など取れる身体でないことは一目瞭然であったのだろう。

 ふと見やれば、信春と直治どのは蒼白。

 小蝶は、蒼白を通り越して土気色になっている。


「木下藤吉郎でござる。

 棟梁どの、失礼ながら主命ゆえ、相手をさせていただく」

「狩野源四郎。

 まこと恥ずかしきことながら、相撲の『す』の字も知り申さぬ。

 とはいえ、精一杯気張りますゆえ、お相手よろしくお願いいたしたく」

 そう声を掛け合い、腰を割って相撲を取る体勢になった。


 俺は、投げ技など知らぬ。

 ぶつかったら押す。

 それしか思いつく方法はない。

 また、押したあとになにをどうすればよいのかもわからぬ。だが、今さら他にどうしようもあるものか。


「それっ」

 と、織田殿の掛け声がかかり、俺は棒立ちに立ち上がり、次の瞬間、弓場の土の上をごろごろと転がっていた。

 なにが起きたのかなどわからぬ。

 ただ、全身に鈍い痛みがあった。


 その場に座り込み呆然としていると、織田殿から声がかかった。

「もう一番」

「なにとぞ、ご寛恕いただきたく」

 許しを請うたのは、俺ではない。

 木下と名乗った、相手の方である。情けないことだが、俺との相撲は子供でもいたぶったような気がして、気が晴れぬのであろう。


 また、俺が狩野の棟梁ということで、雑兵でなく家臣の武将を俺の相手にしたのであろうが、それによってさらに俺がなんとかできる相手でなくなったということも言える。


 だが……。

 非情の声が響いた。

「許さぬ。

 もう一番」

「はっ」

 木下殿も、重ねての主命であれば断れるわけもない。


「棟梁、先ほどの繰り返しは許さぬ。

 相撲を取れ、相撲を」

 全身の痛みの中で、俺は必死で考えを巡らせる。

 この織田殿の酔狂がなにを意味しているのか、である。

 同時に、言われぬでも先ほどと同じでは身体が保たぬ。なにか手を考えねばならぬ。


 というか……。

 手など、やはりない。

 あるわけがない。

 先ほどと同じ、ぶつかったら押すしかない。とはいえ、先ほどはいつぶつかったかすらもわからなかったし、当然押し返す余裕などどこにもなかった。

 ただ、棒立ちに立ってはいけないということだけはわかる。


 京の町では、案外相撲は盛んである。

 さほど関心がなかったから、見たこともなかった。

 だが……。

 俺は、洛中洛外図に、相撲を取っている男たちを描かなかったか?

 思いを巡らせば、信春が描いた相撲を取る男たちの下絵が何枚も脳裏に浮かぶ。


 組み合わねば駄目なのだ。

 棒立ちに立ったら、組み合うではなく、抱き合うことになってしまう。

 つまり、低く構えねばならぬのだ。

「もう一番、棟梁、立て」

 重ねてそう言われて、俺はのろのろと立ち上がる。

 もう少しだけ、考える時間が欲しい。そのための時間稼ぎである。


 低く構え、諸手突きに両腕を突き出せば……。

 いや、絵師として手や指を傷つける愚は冒せぬ。足なら一本くれてやってもよいが、手、指、そして目だけはなにがあろうと守らねばならぬ。

 となれば、頭から行くしかない。

 そして、織田殿の掛け声を聞いてから立ったのでは遅い。「それっ」の「そ」で立たねば、絶対勝てぬ。


 勝てぬ?

 俺は勝つ気なのか?

 あまりのことに、俺の顔に笑みが浮かんでしまった。

 おのれの愚かさに呆れ果てたということだ。


 再び木下殿と顔を見合わせて……。

 妙に視界が鮮やかだ。

 木下殿、なんで気味が悪いものを見るように俺を見る?

 信春、直治どの、小蝶も、なぜそこまで俺を気遣うように見る?


「それっ」

 織田殿の掛け声の発声の気配とともに俺は、自分を矢とし、自分の頭を鏃として立っていた。

 がつんという衝撃があり……。

 俺は押している。

 押せているではないか。


 木下殿が俺の上体を起こそうと力を込める。

 その右手が、俺の帯を掴みに来ている。だが、俺は木下殿の力の耐えて上半身を起こさせず、腰まで木下殿の手が伸びぬようにする。

 おや、木下殿の右手は、指が六本もあるではないか。

 目が冴えて、その細かい動きまでが見える。

 

 絵師は、一日筆を咥えて下を向いているのだ。

 顎と首の力は、鍛錬せずとも毎日酷使している。年配の絵師ともなれば、大作の仕事終わりに灸を据えることも珍しくない。

 絶対に身体を起こしてはならぬ。俺はそう決めて、ただひたすらに頭から押す。


 次の瞬間、俺は前につんのめり、うつ伏せに倒れ込んでいた。



 俺は、城の井戸で行水を許され、土と汗にまみれた身体を洗った。

 ついでなので元結をほどき、髪まで洗ってしまう。

 ようやくせいせいした気分になって、織田殿が待つ城の一間に向かった。


 板の間に座り、上座の織田殿に改めて平伏した。

 俺の後ろには、信春、直治どの、小蝶が座り、俺と織田殿との間の横方には沢彦師が座った。その下座よりには、木下殿も他の家臣と一緒に座っている。

「棟梁。

 おもてを上げ、もそっと近くに」

「ははっ」

 俺はそう返事をして、にじり寄る。


「棟梁、初対面でわしを値踏みしたな。

 だから、わしも値踏みし返したのよ。

 だが、見事であった。

 狩野の棟梁の力、見せてもらったぞ」

 なるほど。

 織田殿を見た俺が、松永久秀殿を思い浮かべてしまい、目の色に疑いを浮かべてしまったのを見抜かれたのか、と思う。


 織田殿の目が、つつっと木下殿に向かう。

「猿、生まれて初めて相撲を取る男に押し負けて、技を使うとは何事ぞ」

「お言葉ながら、小兵が技を使ってどこが悪いのか、さっぱりわかりませぬ。

 勝負は勝てばよいのでござる。

 それも技なりを使って、楽であればあるほど言うことなし」

「ははははは、言いおる。

 とはいえ、手加減、大儀」

 織田殿の小姓までも含め、皆、笑った。

 そうか、俺に怪我をさせないよう、木下殿は相当に手加減してくれたのか。


 だが、悪い気はしなかった。

 その笑いは、俺を嘲るものではなく、織田殿と木下殿の信頼を表すものだったからだ。

 木下殿は、決して偉丈夫ではない。だが、戦さに出て、負けたことはないのではないか。その強さへの自信が先ほどの言として現れ、それが誰からも認められているからこそ笑いにも繋がったのだ。


 松永殿の屋敷で、またその家臣、使用人とも付き合う中で、笑いなどなかったと思う。というより、松永殿の前で笑うとしたら、命乞いのへつらい笑いであろう。


 織田殿の人としての質は、松永殿のそれとは大きく違うのではないか。

 たとえその才の質は同じであっても、その才を使う人の質が異なれば、為しうることは大きく異なるのではないか。

 俺は、そう考えていた。

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