第5話 父の思惑とはっ

 

 俺が、小蝶がこの家を離れては生きられぬかもしれないと思うのには、理由がある。

 小蝶には闇がある。


 おきゃんでさばさばしているようでいて、その情念には深く暗い部分があるのだ。おそらくは自分でもそこからは目を逸らし、さばさばと装っているのであろう。

 小蝶は、今でこそ俺の妹として居場所があるが、もともとは家族にはまったく恵まれずに育った。天真爛漫でいつづけられたはずがない。

 そして、その暗い部分が、小蝶に諦念を抱かせ続けている。

 いかな努力をしても、自分に幸せは来ない、と。


 俺が嫁を取るという話に、「二度とおそばへは寄りませぬ」と迷いなく言えてしまうのも、その諦念からだろう。

 おそらくは、俺の見合い話が決まりでもすれば、密かに安堵するのだ。

「ああ、やっぱりこのようなことになった」と。

 この救いのなさに、本人は気がついていない。


 俺がそれに気がついたのは、松永の糞爺が小蝶を欲しがったときだ。

 そのとき小蝶は、開口一番に「兄上、私、覚悟はできております」と口走りかけ、直治どのにたしなめられたのだ。

 年頃の娘であれば、本来なら「嫌」の素振りや、そのひと言くらいあっても良かった。

 それを口に出すことがなかったのは、「やはり」という諦念の思いが強かったからなのだろう。


「狩野の家のために」と、純粋に考えたというのも有りするだろうが……。

 あのときは、気心許せる仲間の前だった。取り繕う必要はなかったのだ。

 だというのに、あまりに迷いがなく、早い応えだった。


 このような宿痾しゅくあ※、たのむ先を失ったときに小蝶自身を滅ぼしかねまい。

 そして……。

 逆に、嫁にしないことではなく、嫁にすることを考えるならば……。


 元をただせば、小蝶は大和絵の土佐派棟梁、土佐光元の娘だ。絵師の家柄としては一流中の一流と言える。

 そして、絵筆を握れば当代でも五指に入ろう。

 さらに家宰もでき、器量もよい。

 狩野の家の嫁として、これ以上は望めぬほどであろう。


 ここまで考えて思うのは、結局、決めねばならないのは俺なのだ。

 嫁にするにせよ、せぬにせよ、俺が決め、俺が責任を取らねばならぬ。

 決断は、棟梁であり家長である俺がやるしかないのだ。



 ただ、一つだけ決める前にしておくことがある。

 父に、小蝶を俺の妹として、狩野の家に入れたときの真意を聞いておきたい。

 父には父なりの、目算があったはずなのだ。

 その目算に忠実に従おうなどとは思ってもいない。だが、聞いておくことで、なにか俺の聞いていない事情を知ることができるかもしれぬ。

 

「小蝶、仕事に戻れ」

 俺は、そう言って立ち上がった。

 久しぶりに父に会いに行こう。

 父は、大徳寺に詰め切りで仏涅槃図を描いている。縦十九尺五寸、横十一尺六寸もある巨大なものだ。とはいえ、それもそろそろ完成の頃合いのはずだ。

 俺が話を聞くくらいの間ならば、絵筆を措いてくれるだろう。



 俺が後ろに小蝶を連れて部屋を出て、庭を一瞥し陽の光に目を細めていると、直治どのがこちらに向かって歩いてくるのに気がついた。

 顔色が悪い。目が血走っている。

 普段のどこか達観したような、知の働きが見られない。あまつさえ、握りしめた拳が震え、膝までが震えているようだ。


 訝しげな目を向ける俺に、いきなり直治どのは深々と頭を下げた。

「女中のおつるより聞きました。

 小蝶様に御縁談が来ていらしゃるとのこと」

「ああ」


 直治どのは、相変わらず狩野の派の中で最年少だ。それが最凶の女中と言われながらも、その実は甘々のおつるの本能を刺激し、このようなことを話してしまったのであろう。


「なにとぞ、なにとぞ……」

 直治どのは拝まんばかりだ。

「なにとぞ、とはどういう……」

「小蝶様を、せめてもう二年いや、一年でよいので嫁に出さずにおいていただけないでしょうか。

 これ、このとおり」

 直治どの、いきなりその場で這いつくばった。


 そこまでされれば、俺だってその先は想像がつく。

「小蝶、仕事に戻りなさい」

 俺の言葉に、小蝶は一礼して歩み去る。


「直治どの。

 頭をあげられて、こちらに」

 俺はそう言って、自分の部屋に直治どのを連れて戻った。

「直治どの。

 その二年だか、一年だかの間に、名を成し、派を立てようと思われているのか?」

「そのとおりでござる。

 そして……」

 直治どのの必死な形相に向かって、俺はその言葉を遮って言う。


「直治どの。

 この狩野源四郎、全力を挙げてそのことにつき、邪魔をいたしましょうぞ。

 それでもなお、二年で派を立てることができるとお思いか?」

「なぜ……」

 呆然とし、信じられないという面持ちで直治どのは俺の顔を見る。


「直治どの。

 狩野の棟梁として話そう。

 派の棟梁ともなれば、常に他の派の棟梁と仕事の取り合い、せめぎ合いの毎日。

 筆を能くする者が新たな派を立てるということになれば、狩野だけではなく京のすべての絵師が敵に回る。

 それでもなお、勝ち残った者だけが派を立てられるのだ。そこには汚い駆け引きもあれば、縁故という信用も必要になる。

 若干十四歳、二年後でも十六歳にして、それを直治どのが作り上げられるのか。

 この狩野源四郎をもってしても、受け継ぐことはできても新たな派の創設は無理だと思っている。狩野の今は、四代の日夜の積み重ねの結果なのはご存知であろう」

「しかし……」

 白くなるまで唇を噛み締め、それでも反論しようとする直治どの。


 それを見ている自分の心に、もくもくと黒煙が立ち上る。

 そうか、これが嫉妬という心の動きなのやもしれぬ。

 つまり、俺は小蝶を手放したくない。そう考えて……、いや、考えてはおらぬ。そう心が動いているのだ。

 俺は……、俺は小蝶に惚れている。だから、小蝶に惚れた他の男が許せぬ。

 初めて俺は、それを明確に自覚した。


 俺は、黒煙を意思の力で押しつぶし、直治どのに告げる。

「そこまでしても、直治どのに小蝶はなびかぬ」

「な、なにゆえにそのようなことが……?」

 半ば呆然と直治どのは聞く。


 俺は、質問に質問で返した。

「そもそも、なにゆえに直治どのは小蝶に惚れたのか?」

「兄に尽くす姿を見、その描くぐい絵を見れば、当然のことでござろう」

「兄ではない」

「はっ?」

「兄ではないのだ」

 俺の言に直治どのの顎が落ちる。文字どおりの驚愕なのだろう。


「それは、どういうことでござろう?」

「狩野の家中のことにて、他言は無用ぞ」

 俺は、あえて念を押す。


「……心得申した」

 声まで蒼白になって、直治どのが応える。

「小蝶はな、我が父が、土佐派棟梁の土佐光元の娘を自分の産ませた子と偽って引き取ったのだ。俺も、小蝶が妹ではなく、はとこだと知ったのは二年前の絵比べのあとでな。

 父がこのようなことをしたのには、やはり理由がある。

 あの光元め、『武士になりたい』などとほざいて、家にも寄り付かず放蕩していたのだ。その結果、齢十六にして、どこかの女を孕ませおった。当然育てるに育てられず、日々の生計たつきに窮し、あまりの空腹に母と泣く女童を父は見ていられなくなった。

 そして、その女童を引き取るには、我が父だけでなく、そのときの棟梁たる祖父の考えも入っていたらしいのだ」

「なんと、そのようなことが……」

 直治どのにとっては、青天の霹靂であろう。


 祖父が首を縦に振っていれば、誰も異を唱えられぬ。

 狩野の誰もが、あの堅物の宗祐叔父ですら、小蝶を身内として扱っていた。

 何事にも用心深い直治どのですら、疑う余地があるはずもない。



 そこまで話し……。

 不意に父の思惑が、俺の中ではっきりと形を作った。

 これは我が父ながらにえげつない。


 土佐光元は相変わらず「武士になりたい」などとほざいていると聞く。

 さすれば、土佐の直系の血筋の娘を狩野の棟梁の嫁とすることで、大手を振るって土佐派を我が狩野が吸収することもできよう。

 もっとも、現実的には、土佐派の重鎮と呼ばれる高弟たちが自力でなんとかすしようとするだろうとは思うが……。それに、彼らにとっては、狩野の絵の手本である粉本を学べというのは、屈辱であろう。

 だが、父なれば、その不満を力押しで押しつぶす。


 簡単なことだ。

 土佐派は大和絵、なので公家におぼえが良い。

 狩野は、加えて武家にも顔が利く。

 ならば、武家に力を借りるのも容易い。交渉の席に強面の武将が一人立ち合うだけで、土佐の高弟は意のままになる。

 根回しの周到さと、実行のときの豪腕の両立が父の手なのだ。

 


※宿痾 ・・・ 慢性の病気


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