第2話 今はまだ、思いは汲めぬっ


 だが、そのような絵師として充実し、安心できた日々は、たった三ヶ月足らずで終わりを告げ……、かけた。

 教興寺なわてにおいて、再び三好軍が大勝し、たった一日畠山軍は潰走、六角殿も降伏された。

 再び京は、三好殿と松永殿の支配の下に入り、俺は油断のならぬ日々が続くと一度は覚悟した。

 だが、前とは大きく状勢が異なり、その覚悟はほぼ不要なものとなったのだ。


 それは、今でこそ再び三好軍が京にいるものの、その命運は尽きたと衆目が一致していたからなのだ。

 俺を含め、町衆たちは自分たちがやったことをよく理解していた。

 将軍様も、今は三好殿の一党と共に考動しているものの、近いうちに自由を取り戻されるだろう。


 京の町は変わらぬ。

 権力を持って支配する者がどのように来たりて去っていこうとも、八百年にもなろうとする国の都であるという事実は動かぬ。

 そして、町衆はそこに在り続ける。

 遷都以外、在り続けることを阻害するものはない。つまり、恐れるものはないのだ。


 ゆえに、京の町衆たちは、半ば公然と反旗を翻している。

 以前とは異なり、注文や献上についても、素直には受け付けなくなっていたのだ。

「うちらではとてもではあらしまへんが、贅沢なもん食べ尽くしておられる方の御用はおつとめはしきれまへん」

「四国の魚はうまいと聞いたで。

 海から遠い京の魚などやめときよし」

 このような状態で、三好殿の料理人が市でなにも買えぬまま、途方に暮れていたという話も伝わってきた。


 少し前には、御成の膳のために、食物を扱う町衆たちが走り回っていたことすらが信じられぬ為体ていたらくである。


 町衆は、軍勢などは持っていない。

 だが、だからといって無力ではない。

 京の都のものの流れは、町衆が支配しているのだ。

 その町衆が堺の会合衆と組んで反旗を翻せば、まともに軍を維持することなどとてもできぬ。


 兵糧の値は倍、刀槍の値も倍。鉛と弾薬たまぐすりの値は四倍。

 このようになるだけで、京になどいられなくなる。

 実際、毎年毎年寒さが厳しくなる中で豊作は遠く、米も菜も値は上る一方なのだ。それは、等しく誰もが感じていることなので、値上げのための言い訳だとしても、値切りの話は為難しがたかった。



 結果的に三好家中の者たちは強奪と言えるような買い方を始め、それがさらに三好殿の評判を落とした。

 京の都は昔から野盗の類いが多く、いずれかの軍勢がいてくれた方が都合が良い。

 だが、あくまで「いずれかの」でよいのだ。京の町は、不十分ながらその「いずれかの」を選ぶ力がある。

 野盗と変わらなくなった軍勢であれば、ますます早めに代わってもらえればよい。


 この三好殿に対する町衆からの干し上げは、さらに別の結果を生んだ。

 兵糧はまだしも、三好殿が口にする良い食材については松永殿が自らの領地から菜などを運びこんだものの、これが結果的に三好殿と松永殿の間の溝を深めた。

 食を誰かに支配されるというのは、恐ろしいことだ。疑心暗鬼の出現が止まらない。

 三好殿の体調がここのところすぐれぬこともあって、毒を盛ったの、盛らないの、そんな話にもなったらしい。

 まぁ、実際に盛られてはいるのだが……。


 人は疑いたい相手を疑うのだ。

 松永殿は、疑われるに相応ふさわしいお人であった。これは、自業自得というものであろう。


 ともかく、そのような中で、狩野の家に対して三好殿も松永殿も、再び「小蝶を差し出せ」などと言えるはずもない。自らの家中の騒ぎに掛かりきりだというのに、将軍様との間、天子様との間もよろしくはない。町衆とも上手くいっていない。

 その四面楚歌の中、さらに厄介事を自ら抱え込もうとするほどの余裕はあるまい。

 俺とて気を抜くつもりはないが、もうしばらくは画業に専念できるというものだ。



 ただ、それはそれとして……。

 小蝶のことだ。

 差し出せと言われなくなったからといって、その身の振り方を考えなくてよいということにはならぬ。

 小蝶もよわい十六、そろそろ嫁に出すのに良い歳だ。

 嫁に出してしまえば、一番後腐れがない。

 再び三好殿、松永殿が力を取り戻したとしても、嫁に出した女を寄越せとは言わぬであろう。


 小蝶の俺に対する思いは察しているが、そのまま俺の嫁になどというわけにはいかぬ。

 ……いかぬであろうよ、たぶん。


 このあたり、とつおいつ考えた末に、いつも先延ばしという結論になってしまうのだ。あまり考えたくないというのが本音ではある。

 つまり、俺は逃げている。情と現実の間に横たわる、深く広い溝からだ。


 この二年で、小蝶はぐっと女らしくなった。

 髪はしっとりと黒く長く、切れ長の眼は青みがかったように美しい。

 相変わらず、信春や直治どのも頭が上がらぬほどのきゃんではあるが、直治どのなど自ら負けに行っているとしか思えぬ。また、時折見せるたおやかな様には、信春でさえもほいほいと言うことを聞く。


 年頃の女の凄みというものを、俺は今生初めて思い知っている。

 天下一の絵師とも言われるこの俺が、絵筆を持ってその姿を描きたいと思うほどに、だ。

 だが、俺の筆の跡は、よほどに気をつけないと誰かに見られるし、残されてもしまう。

 その結果として、狩野の棟梁が女絵ならまだしも、偃息図えんそくず※を描いたなどと誤解されてはたまらぬ。

 なかなかこれで、好きなものを好きなように描くというのは難しい。


 ……横道にそれた。

 ともかく、一度は妹という建前で家に入れた者を、棟梁である兄が手を付けたというのはあまりに外聞が悪い。小蝶が美しいということが、さらに悪評に尾ひれを付けよう。

 表向きは同父異母の妹なのだから、「犬猫にも劣る鬼畜の所業」と噂されかねないのだ。


 小蝶がさらにもう一年歳を重ねる間には、俺も結論を出さねばならぬ。

 嫁に出すならば、年増になる前に嫁がせてやらねば、嫁ぎ先で小蝶の肩身が狭かろうし。

 逆に、狩野の家に留めおくのであれば、俺には何らかの覚悟が、周りには納得させるだけの言い訳が必要となる。


 つまり、小蝶自身の思いについては……。

 気がつかぬ振りを、まだしばらくは続けねばなるまいよ。

 俺に父を説得できるだけの話の筋と覚悟がなければ、上手くはいかぬのはわかっているのだ。

 情など、父には通用せぬ。

 その話の筋が組み立てられるまでは、俺にも小蝶の思いは汲めぬのだ。

 そう、小蝶本人のためにも、だ。



 そして、さらにその三ヶ月後。

 夏にもなろうかという頃、ついに関白様がご帰京なされた。

 ついに、上杉殿への失望が期待を上回ったのだろう。名も前嗣から前久に代えられ、花押をも公家のものから武家に代えられたというのに、すべては巧くいかなかったのだ。


 信春と直治どのが遠足とおあしに出る前に、武蔵国における上杉方の松山城が落城している。

 上杉殿、援軍を出すのには相当の苦労をされたらしい。だが、それも間に合わなかったとのこと。

 越後から冬のさなか、関東に出るのは至難の業なのだ。


 それは逆も言える。

 冬の越後に関東から攻め込むのは難しい。

 上杉殿は、関東管領の名だけ取られればよかったのだ。そうしていらっしゃられれば、今頃京の都には上杉殿の家紋、「竹に二羽飛び雀」の入った旗印が翻っていたであろう。

 直治どのの知恵を借りなくても、そのくらいは俺でもわかる。


 関白様にはまことにお気の毒ながら……。

 これで京の都は、俺が十歳の頃の旧に復したと言ってよい。

 ただ、大きく違うのは三好殿の権勢が同じでも、あのときは昇り坂、今は下り坂ということだ。

 俺たちは、松永殿にさえ気をつけていれば、さらに絵筆を持つことに集中していくことができるだろう。

 まことに喜ばしいことだ。


 だが、三好殿の次が誰になるのか。

 それだけは考え、見極めておかねばならぬ。京の町衆たちも、皆同じ思いであろう。

 良き武将に肩入れし、京の静謐を守ってもらわねばならぬのだ。



※偃息図 ・・・ 危な絵、江戸時代ころからは春画とも。

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