第四章 洛中洛外図、仕上げるぞ

第1話 これが棟梁の仕事ぞっ


 そろそろ絵師の本分に戻り、筆を持つ日を重ねばならぬ。

 信春、直治どの、小蝶とともに、洛中洛外図屏風を仕上げねばならぬのだ。


 ここまできて、ようやく俺は自分のやりたいことが掴めた気がするのだ。

 武家の障壁画、その勇壮さ、豪放磊落さ、そういったものは当然良いものだ。

 だが、俺という人間は、その一辺倒ではない気がする。

 美は極めて些細なものにも宿る。

 一度はそのような些細なものに、うつつを抜かすほど没入してみたい。

 大から小なるものを作るのではなく、小を積み上げて大としてみたい。


 俺の心の中のどこかにあったその欲が、俺にこの絵を描く選択をさせた。

 このような機会、そうそうあるものではない。

 この欲を満たし、小を積み上げて大とする描き方を得ておくことは、俺がこれから絵師として生きるのにあたり、大きな財産となるだろう。

 ならば、たとえ狩野からの持ち出しになろうとも、この絵は完成させようではないか。


 一つのはかりごとを終え、俺は自分の仕事についてもそう決断をしていた。

 将軍様のご下命の意思である、上杉殿を京に呼ぶためという状況はすでに崩れた。

 そのためか、未だこの絵がどうなったかというご下問もない。

 本来であれば、こちらから伺いを立てるべきなのはわかっている。

 だが、ご下命の状況が崩れた今、伺いを立てれば、押し付け、売りつけるための意と取られることにもなる。それは避けたい。

 したがって、空に浮いたこの絵、派の棟梁として仕上げるべきか悩んでいたものの、その思いは晴れた。


 俺は、派の棟梁として、この絵を仕上げる。

 売れなくともよい。

 ようやく、俺はそう割り切ったのだ。


 

 ならば……。

 三好殿が京を追われた、今この時の姿の京を残すのがよい。

 俺の考えに三人共が賛意を示し、いよいよ下絵を本絵に写し出すことになった。

 将軍様の御所には、六角殿の家紋入りの幔幕まんまくを描く。隅立て四つ目すみたてよつめ、後々まで残る絵として、この家紋は良いものだ。


 そして、これを描いたということは、戻れぬ橋を渡ったということになる。

 三好殿の三階菱に五つ釘抜さんかいびし に いつつくぎぬきの家紋を描いた方が、無難なのは間違いないのだ。

 この絵を三好殿、松永殿に見られれば、不興を買うことは間違いない。

 狩野の派の存続にも関わる。

 俺が隅立て四つ目を描くということは、その覚悟を、信春、直治どの、小蝶にも示したことになる。


 ひそかに、父も描きかけのこの部分を見たらしい。

「源四郎、賽子さいころの目はまだわからぬぞ」

 そう言いながらも、「もはや隠居の身」と俺の決断に口を挟むことはなかった。

 おそらくは、我が部屋のすべての絵を見てそう判断をしたのだろう。


 

 だが、楽しい。

 絵を描くことは、俺にとって糊口をしのぐ技でありながら、楽しい。

 ひたすらに、細かく細かく、信春、直治どの、小蝶の描いた下絵を写し取っていく。

 その中で、すべての下絵は俺の筆のものになっていく。

 ただ、あまりに実際の姿からかけ離れてはならぬものゆえ、下絵を書いた三人とは常に話す必要がある。


 それぞれの下絵を描いたときの話は、みな楽しい。描かれる者たちのそのときそのときの動きや意思がわかっているのは、下絵を描いた三人だからだ。それにより、京の人々の表情までも描き込むことができる。

 話した結果、当然のようにこの三人と共に描きこむこともある。

 直接見ていない俺には描けぬ、そう思うこともあるからだ。


 やはり祖父は偉大だった。

 このような合作のときでも、狩野の画法の教本というべき粉本を学んだ俺たちの筆致に違和感は生じない。



 だが、何しろ細かい絵なので、根を詰めねばならぬ。

 五尺三寸に十二尺、これが二つで一双の屏風となるわけで、そこに細かく細かく描くというのは、描いても描いても終わらぬということだ。


 膨大な空間に、根を詰めた筆を走らせ続ける。いつの間にか、自分の意識が筆に乗り、どこか別の世界を窺っているような気になる。

 ひたすらに筆を走らせ、我に返ればぐったりと疲れている。

 その疲れる頃合いには小蝶が茶を淹れ、皆で話しながら、稀には「びすかうと」などの南蛮菓子をつまむなどの贅沢もする。

 その際の話も楽しい。


 この洛中洛外図は、使う色数も多い。

 色数が増えると、至るところに絵具皿が並び、使う筆の本数も増える。そして、いちいち筆を持ち替えるのも面倒なので、いたるところで替え筆を持つことになる。

 右手で赤を描きながら、他の指には黒の筆をはさみ、左手には緑と青の筆を持ち、口には黄色の筆を咥え持っているという姿にもなる。

 描きかけの上に絵筆を落とすなど、絵師としてあるまじきことだ。だから、無意識に顎には力が入る。

 作画中にそのような感じで固まってしまった顎をほぐすためにも、他愛のない話はありがたいものなのだ。


 信春の能登国、直治どのの肥前国に伝わる話なども飽きない。

 いずれの場所も戦乱とは無縁とは言えぬ場所だ。

 それでも、日々の生活は続けられているし、そこからこぼれてくる話は可笑しくも微笑ましい。


 いにしえに今昔物語集を聞き取り、そして書き遺した者もこのような楽しさだったのではないか。

 思いの外、この国は広く、その地方ごとの生活は奥深いのだ。


 ほとんど京から出たことのない小蝶にとっても、これらの話はやはり楽しいらしい。屈託なく笑う姿は、ここのところあまり見なかっただけに、俺としても喜ばしいものがある。


 小蝶は、俺らの中でもっとも忙しい。

 小蝶は俺たちを気遣い、手伝いながら、家業の扇絵にも余念なく筆を走らせている。

 その筆は円熟味を増し、めぐい中にも描かれる生き物の本質を宿すようになってきた。鷹などを描くとき、愛さと眼光の鋭さとの共存の様は驚きと言ってよい。

 これを見るたびに、俺は絵師として密かに嫉妬する。


 小蝶の筆からにじみ出る愛さは、俺自身の筆にもなくはない。

 祖父の筆にもあった。

 でも、その愛さをためらいなく描ききれるのは小蝶なのだ。



 小蝶が描く扇絵は、おそらく後世に残ることはないであろう。だが、洛中の人々の中に愛され、持たれるのはこちらなのだ。

 つまり、使われるからこそ残らない。

 本当に良きものは、使われてしまう。しまい込まれないし、予備に買われたとしても、その予備も使われてしまうのだ。


 そして、使われることに意味がある。

 結局は、派を支えるような日銭を稼ぐのもこちらの絵なのだ。これも、使われるからこそ、である。

 現に、この洛中洛外図など、本当に儲けが出るのか怪しいものだ。これほど気を使い、労力を注ぎ込んでいるにも関わらず、である。


 そして、これは使われるようなたぐいの絵ではない。

 だから残るだろう。

 そして、決して「これをもう一枚欲しい」とは言われない絵なのだ。

 絵描きの欲を満たす絵ではあるし、満足はしている。だが、小蝶の絵のように愛されることはないのかもしれぬ。

 この疑念は心に痛い。



 信春の絵、直治どのの絵、こちらもともに、この2年の間に俺の届かぬところへ登りつめている。

 もちろん、俺の絵も彼らの手には届かぬ高みに登ったと思う。

 同じ粉本での修行がなかったら、異なる頂にいる者同士、このように同じ紙の一つの絵の上で語り合うこともできなかったであろう。


 だが、いつの日か、それぞれがたどり着いた頂点をそれぞれで共有し、すべてを越えて融通無碍に筆を交わらせられる日が来るのやもしれぬ。

 それができたときこそ、画道の悟りを得て、真の絵描きになれたということなのではないか。

 俺はそう思うことで、自らの心に芽生えた嫉妬と痛みをねじ伏せる。

 

 俺は狩野の棟梁だ。

 そのような嫉妬、おくびにも出すわけにはいかぬ。

 棟梁には棟梁の仕事がある。

 すべてを飲み込み、危険も負う。それが、棟梁の仕事だ。

 それを負うことで、みなの描く絵も救われるのだ。



 結局、大名の城の障壁画などもそうだが、武家からの注文は実入りも大きいが持出しも大きい。ましてや描いたものが気に入られないとなれば、支払いがされないどころか命の危険すらある。

 名誉なことではあるが、常に薄氷を踏む思いでもあるのだ。


 かといって、この箔がなければ扇絵などの町衆相手の絵も売れはしない。売るためには値を大幅に下げざるを得ないだろう。そうなれば、足らない日銭に汲々せざるをえず、派を支えられず求美の心も失う。


 俺の棟梁の仕事は、皆の絵と共に狩野に欠かせぬ両輪で、派という大きな車を支えているのだ。

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