第6話 いっそ、こちらから仕掛けようぞっ


「しかもな……」

 信春は続ける。

「狩野の派の者が半裸で走って逃げたということが噂となると、松永家中のだれかの耳に入るかもしれん。なので、直治は方違えをして戻った。俺は、小路を通らず掘割の水の中を帰ってきた。

 帰ってきてざっと水を浴び、小袖も濯いで干して横になったが、片身しかないのを見たら泣けてきてな」

 これは確かに、布の一反や二反は買ってやらねばならぬ。

 そして、半裸で京を駆け抜けたことに対する心の痛みにも、なにか考えてやらねばならぬであろう。


 なお、方違え、これは陰陽の道の言葉だが、ここへ帰るのに直治どのは、方向違いのどこかを通って遠回りしてここまで戻ってきたということだ。

 より人目につきやすい姿になってしまった信春は、京の町を数多く流れる北から南の流れのどれかに沿って、ずぶ濡れになりながら帰ってきたのだ。


 京の町の水の流れには、常に人がいる。

 水を汲む、ものを洗う、晒す、淀みの泥鰌を取る者もいる。

 そこに半裸の者がいても不思議ではないし、片身しかない小袖であっても最初から水辺で脱いでしまっていればまったく目立つことはない。

 京の町を歩き回り、知り尽くしたからこそ考えつけたことなのだろう。



「とりあえずだが、信春、直治どの、小蝶、話がある」

 俺は、三人を自分の部屋に呼び上げた。

 とりあえず、信春と直治どののやったことについては、後顧の憂いはないとして……。それでもこの先のことは話しておかねばならない。

 また、いずれ信春に布を買うにしても、それより今は風邪など引かぬようにしてやらねばだ。


「小蝶、俺の小袖を信春に出してやってくれ」

「源四郎の小袖は、地味でつまらん」

「だまれ、信春。

 地味でも風邪をひくよりはよかろう」

 まったく、この冬の時期、裸でい続けられるものではあるまい。

 やせ我慢で肌に粟を生じさせているくせに、困ったものだ。

 こちらにしても、唇を紫色にして震えている男と、顔つき合わせて話など続けられるものではないではないか。


 とりあえず、俺の言葉を受けて小蝶が小袖を持ってきた。そして、半裸の信春の背中を思い切り、音高く叩いた。

「痛てぇっ!」

 みるみるうちに、信春の背中に小蝶の手形が赤く浮き出してきた。

 その背中に、小蝶は小袖を投げかける。

「お地味ではございますが、お召しを」

 小蝶、今の打擲ちょうちゃく※は、俺が地味と言われたことに対する意趣返しなのだろう。


 いつものように、ため息を吐きかけて……。

 不意に、涙がこみ上げてきた。

 小蝶を奪われてはならぬ。

 この当たり前の営みを奪われてなるものか。

 強く強く、そう思う。

 そして、悔しい。この悔しさを晴らすためなら、どのような外道に堕ちても良いとさえ思う。


 俺の涙に、信春、直治どの、小蝶、三人揃ってぎょっとした顔になった。

「どうした、源四郎?」

「……棟梁?」

「……兄上?」

 口々に俺に問いかける。

 そして、小蝶は、つと立ち上がると襖を開けて回った。

 密談の用意をしてくれたのだ。

 小蝶は気が利く。ありがたい。


 口に出すと、現実がそのようになってしまいそうで恐ろしい。だが、言わねばますます窮地に追い込まれる。

「……あの松永の糞爺、小蝶を差し出せと。

 派の存続はそれをもって許す、と。

 信春、直治どののおかげで返答せずに逃げてこれたが、このまま済むとは思えぬ」

 俺、ようやく喉から言葉を絞り出す。


 奮然と、風を巻いて信春が立ち上がった。

「派など潰してしまえばよいっ!」

「馬鹿か、信春っ!

 派を潰したら、それから悠々と小蝶を手に入れられるだけだ。派を潰し損になることくらいわからないか?

 派の後ろ盾を失った小蝶がどれほどの目に合うか、わからないのか?」

 俺は、座ったまま信春を睨めあげる。


「……くっ、なんと理不尽な」

 どかりと信春、座り込んで胡座をかく。

 がりがりと頭を掻きむしり、ため息を吐いた。

 どうやら、なることは理解したらしい。


「兄上、私、覚悟は……」

「小蝶どの、いきなりそれでは、棟梁が救われませぬ。

 その覚悟は、我々でまずは手を尽くし、その上での話でござる」

 直治どのが、小蝶にそう言ってくれた。


 ありがたい。

 直治どのの言葉に、俺は救われた気がした。

 普段から小蝶にしてやられているはずの、信春も直治どのも、同じく憤慨してくれているではないか。

 そうだ、我々もまったくの無力ではない。


「……前の棟梁殿ならばなんとされようか?」

 信春がまずは切り出す。

「親父殿に聞いてはならぬ。

 小蝶を差し出せと言って、話は終わる」

 そう俺は答えた。


 小蝶は、父が他所の女に産ませた妹ということになっている。

 だが、実はそうではない。俺にとって小蝶は、はとこにあたる。

 だから、小蝶も図々しく俺に張り付くのだ。

 だが、自らの子でもない小蝶と派を比べれば、親父殿が小蝶を取ることはあり得ない。

 むしろ、小蝶に対して、「今日まで養われし恩を返す時が来た」ぐらいのことは言うだろう。


「では、他国に逃がすというのは……」

「独りでか?

 女子おなごの一人旅ができる世でないことは、わかっておろう?」

「ですが……」

 直治どのの案の方が信春より良いが、それでも無理なものは無理。

 一日も保たず、身ぐるみ剥がれた上で犯され、売られるか殺されて終わりだ。

 よほどに屈強な武装した男の同行がなければ、逃げることすらも難しい。

 さらに追手がかかれば、ことごとく関所で足が付く。


「とならば、ここで匿うしかないし、男装させるか」

「いや、とてもではないが、隠しきれるものではない。それならば、寂光院なりの尼寺で出家して見せても……」

「還俗させろと命ぜられたら、結局は逃げたことにならぬではないか。

 いっそ、鳥辺野に送った※と……」

「それはあまりに非道い」

「だが、確実ではないか」

「いや、それで見つかったときは、死人だからな。

 言い訳できぬぞ」

 さまざまに言葉は出るが、これぞというはかりごとが出ない。


 いっそ……。

 いっそだが……。

「なにを考えている、源四郎?」

 信春が、無言の俺の顔色を窺う。


「念の為に言う。他言は無用」

「言わいでか。

 なにを考えた?」

「いっそ、こちらから仕掛けようぞ。そして、お隠れいただいたらどうか、と」

 しん、とした。

 誰もなにも言わぬ。


 一番驚いているのが信春。

 どことなく予想していたという顔が直治どの。

 小蝶に至っては、どうやら別種の感慨があるらしい。目には溢れんばかりに涙を浮かべている。


「本気か?

 そもそも、そのような手立てがあるのか?」

 上ずった声で信春が聞く。

「……なくもない」

 俺の言葉に、その場の誰もが目を見開いていた。




「三好殿と松永の糞爺は、管領の細川殿を幽閉しているのは知っておるな?」

 小蝶が人数分の茶を入れてきた。

 皆があまりに冷静さを欠いたように見えたので、間を開けたのだ。もちろん、俺も冷静さを取り戻す必要がある。

 全員で茶をすすり、話は仕切り直しだ。

 信春も、小袖を着て温かい茶を飲み、人心地が付いたようだ。


「ああ、知っているもなにも、もはや三好と松永の権勢に逆らえる者はおらぬ。

 管領の細川殿が幽閉されてしまえば、将軍様とて裸も同然。天子様ですら無理と京中の噂ではないか。

 その細川殿をお救いしようと六角殿が兵を出しておられるものの、京の東の将軍地蔵山に陣を構えたまま動けなくなっているし、だから、どうなるというのだ?」

「信春、珍しいな。

おまえが京の町の噂を聞き、覚えているとは……」

「ば、馬鹿にするなっ!」

 思わず、皆で笑いあう。


 ふと思う。

 やはり、この面々であれば、松永の糞爺を出し抜けるかもしれぬ、と。

 


※打擲 ・・・ 打ち殴ること

※鳥辺野に送った ・・・ 死んだ

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