第7話 絵師とて、動かねばならぬっ
「去年の将軍様の御成りを覚えているか?」
俺は、そう切り出していた。
「おお、忘れられようか」
と信春。
「それは棟梁殿、松永殿の御権勢、案外脆いという仰っしゃりたいのでしょうか?」
と、これは直治どの。
俺の言いたいことを先読みしたらしい。
「そうだ。
去年の小田原での
俺たちには盤石と見えていても、少なくとも松永殿自身はそうは考えていないということではないだろうか」
「そうか?
もはや、三好殿の世がひっくり返ることなどありえぬと思うが……」
俺の言に、信春が異を唱える。
「やはり……。
尾張の織田殿の件が尾を引いておりますな」
と、これは直治どの。
俺の言いたいことを、正確に察してくれたらしい。
直治どの、俺の顔を見ながら言う。
「棟梁、こういうことでよろしいか?
三好殿、京での権力は絶大。
だが、京の武士は弱い。東から来た武士には勝てたためしがない。まして、少数をもって大国の主を討ち取った織田殿のような存在もあり、まだまだ油断がならぬ、と」
「そうだ、そのとおりだ」
そう俺は応える。
織田殿の桶狭間でなされた戦さは、世の常識を変えた。
大国の主でさえ、戦さで負ければ一日にして簡単に命を落とすのだ、と。
俺は続ける。
「まして、三好殿の本拠は四国。
一朝ことあらば、京を抑え続けられることはできぬかもしれぬ。ただ、そうなっても四国に逃げればよい。捲土重来もできようというもの。
ただ、それも松永殿の立場に立てば、不安の元。
三好殿が四国に逃げたら、松永殿は京の周りで置き去りにされることも考えられる。そもそも居城が大和北西の信貴山城だしな。
三好殿よりも、用心深くもなろうというものではないか」
俺の言葉に、三人は頷く。
さらに俺は続ける。
「将軍様もわかっておられる。
御成に合わせて、御供衆にし、従四位下に昇叙、塗輿の使用の許可を与えられた。
恭順の意を示した以上、その分の礼は返されているが……」
「殿上人になったわけではなく、今川殿以来、印象の良くない塗輿使用でございますな」
と直治どの。
「そうだ。
実質としてはなにも与えておらぬ。
御供衆など、どうとでもなるからなぁ。
たとえば、織田殿のような方が上洛なされたとき、対抗しうる力の源になるものは一つもない」
「つまり、松永殿の怯えは、何一つ救われてはおらぬということですね」
小蝶も理解したようだ。
「なるほど。
その松永殿の怯えと、勝軍地蔵山の六角殿の軍勢、どう繋がる?」
と、これは信春。
「直治どのは知っているかもしれぬが……。
先程の織田殿の桶狭間での戦さ、六角殿が織田殿に加勢の軍を出したのは知っているか?」
俺は、敢えて質問に質問で返した。
信春と小蝶は首を横に振った。
実は、俺も最近知ったのだ。本能寺で、六角殿の陣に兵糧を融通している町衆仲間に聞いたので、間違いないことだ。
ただ、小蝶は俺の質問に質問で返した意図を察したらしい。
つまり、六角殿と織田殿が通じているとなると、松永殿の怯えはより具体的なものになったといえるのではないか?
そして、小蝶を人質に取りたいというのも、その怯えの発露ということもできるかもしれない。
我が狩野は、今日の町衆の中でも最有力の一画を占めていると言ってよい。
そして、小田原城攻めで、宗祐叔父の手紙は切羽詰まった内情を知らせてきた。
つまり、松永殿にとって、我々は使える相手ということだ。
ただ……。
武将でもある松永殿に、町衆の意地はわかって頂けないようだ。
恩義と友誼をもってすれば、俺も
だが、松永殿は、上下の立場の強要と人質を取る方法を選択された。
これを飲めと言われて、素直に飲む町衆は少なかろう。
まぁ、中には人質を出すことさえも、位階を持つ者と関係を結べたと喜びを感じる者もいようが、それでも妹を玩具にされるとなれば話は別であろう。
つまり、松永殿はやりすぎたのだ。
「ということは……。
なんという……」
小蝶も何やら思うところがあるらしい。
「そうだ。
そこにつけ込めば、我らにできる策がある」
との俺の言葉に、返したのは直治どの。
「そして、棟梁殿の策と、我が思いつきし策、同じものかもしれませぬな」
「さらに、おそらくそこにはない考えが私にも」
と、さらに小蝶が言う。
なるほど。
手の打ちようは様々にありそうだ。
俺たちの練策は、そのまま深夜に及んだ。
− − − − − − −
策はまとまった。
こうなるとあとは急げ、だ。
松永殿からの使者が、俺に再度の呼び出しを掛けてくるだろう。
ずるずると引き伸ばし、与えられる餌を渡し、時を稼がねばならない。
病気だという言い訳も使おう。
伸ばせて三ヶ月。
それ以内にすべてを終わらせねばならぬ。
小細工をするのに、絵師の家というのはなかなかに便利だ。
紙と絵の具、すべて揃っている。
唐人とのつながりもある。色はあざやかな明るい藍は、
まぁ、コネというものは、使えるときにこそ使わせてもらおうではないか。
とはいえ、削られるのは寝る間。
最後の三日など、俺はともかく小蝶までもが疲弊しきっていた。
− − − − − − −
計画実行の前日の夕方。
信春はぶつくさ言いながら薄墨で染めた紙子を着て、頬かむりをしてどこかの下人かという風体になった。
これから密計を果たしに行くのに着飾ってどうするのだとは思うが、それが信春なのだから仕方がない。
紙子とは紙で作られた着物だ。
よく揉んで、がさがさと音がせぬようにしてある。
背には、地味な小袖と紙の束を背負っている。
直治どのも同じようなものだが、打竹と小袋を持ったのが違うところだ。
打竹は、火種を懐にしまっておける道具で、伊賀などで使われているものだ。近頃は種子島とも呼ばれている鉄砲というものが出回りつつあり、火縄の火種を保たせるための道具もさまざまに考案されている。
銅で作ったものもあるが、竹でできた物が今日の目的には適っている。
信春と直治どのは今日から二日から三日前の二晩は徹夜となっていたが、今日だけはよく寝させておいた。
これから山の中を走り回るのに、三日三晩寝ないままで行くというのはあまりに無謀だからだ。
俺が行くと最初は言ったのだが、信春と直治どのからきつく止められてしまった。
それより、俺にしかできぬことがあると。
そして二人共、小蝶の身を差し出せという松永殿の要求に、俺に劣らず怒りを覚えているのだ、と。
二人の言う俺の役割を聞けば、俺も頷かざるを得ない。
ただ、それでもひたすらに申し訳ない。
一方で小蝶は、くうくうと寝入っていた。
最後の三日間、ひたすらに徹夜を続けて、俺の部屋で絵筆ならぬ木版画の刷り具を握っていたのだ。ようやく信春と直治どのの準備が整い、それを見届けると崩れるように板の間に頬を直接乗せて寝入っている。
材料の準備は事前から行えるが、実際の製作は短期間で済ませねばならない。物証となってしまうからだ。
小蝶こそが、自らの身を守るため本気で戦ったのだ。
これでいて、木版画の刷りは力の必要な体力勝負だ。
小蝶は成し遂げたのだ。
畳んだ手拭いを頬の下に挟んでやり、小袖を掛けてやる。
あとでなにか、温かいものでも食べさせてやらねばならぬだろう。
もっとも、俺も、ほぼ似たようなものだ。気を抜くと膝が抜けそうになる。
俺も、ひたすらに徹夜で竹ひごに糸と紙を貼り付けていた。
だが、俺はこのまま寝るわけにはいかぬ。
これから俺は、工房から見て、自室で信春と直治どのと共にいるふりをせねばならないのだ。
本来ならば、日が落ちれば仕事が終わる時間なのだが、そうも言っていられない急ぎの仕事があるという体で、四日目の徹夜に突入するという状況を作るのだ。俺が倒れる前に、小蝶には起きてもらわねばならぬ。
信春と直治どのは、小蝶の倒れているさまを無言で窺い、そっと抜け出していった。
俺は、灯火の芯を切り、四日目の徹夜に備えた。
いよいよ、意地をかけて動くときが来た。
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