第5話 そのようなこと、受けいれられぬっ
たっぷりとした間をとり、俺が冷や汗で下帯までを湿らせたころ……。
「
俺、再び頭を下げる。
軽い頭と思われても構わぬ。
俺一人の首と命ではない。頭を下げて派を救えるのであれば、いくらでも下げて見せよう。
今回、小田原城内の怯えを松永殿に伝えたものの、結果として北条殿はしのぎきった。
それをもって、こちらから出た話が可怪しいと言われるのが一番恐ろしい。
あくまで、そういう叔父の手紙をそのまま渡しただけではあるし、そこに小細工はない。ただ、どのような話であっても、それが正しかろうが間違っていようが、こちらに対して害意があれば言いがかりはどこにでもつくのだ。
かといって、事前に注を入れるような真似をすれば、さらに怪しさが増してしまう。
「ついては、だがな。
棟梁に礼をしようと思う」
「滅相もない。
松永様には、すでに十分にご恩義を受けております」
俺、そう言いながら額を床に押し付ける。
冗談ではない。
礼だの褒美だのと言われながら、それこそなにを押し付けられるかしれたものではない。
「棟梁。
まぁ、そう言うな。
棟梁にとっても良き話だ」
「いえ、ただの絵描きのこの身にはもったいないことにて……」
そこまで言ったところで、不意に背筋に寒気が走り抜けた。
「ふん。
お前の親父は狩野の棟梁ではあっても、絵描きではなかったぞ」
ああ、なるほど、父のせいでここまで疑われているのか。
となると、父はこの化け物と互角に渡り合っていたということだ。くわばらくわばら、としか言いようがない。
俺は再び平伏して、嵐が過ぎ去るのを待つ。
「いや、親父のことは気にするな。
棟梁の妹のことじゃ。
たしか、小蝶とか言ったな。
そろそろ年頃と聞く。
どうだ、この屋敷に預けぬか。
わしが自ら教え育て、末には良き縁談を見つけてやろう」
……おい、なにを教え育てる気だ?
さんざ弄んで、飽きたら捨てると言っているよな?
俺の頭の中で、ぷつんとなにかが切れる音がした。
この
「重ねて申し上げますが、滅相もございませぬ。
絵筆を持つこと以外なにもできぬ娘にて、狩野の家の恥晒し。松永様の御前に出せるような者ではありませぬ」
「そうかな?
棟梁、もう一度考えてみよ」
そう言う声に、
「棟梁、いいことを教えてやろう。
長野業正を知っているか?」
「申し訳ありませぬ。
寡聞にして存じませぬ」
これは嘘だ。
俺は知っている。
上野国は箕輪の城主。
上杉殿の関東での尖兵であり、守りの要だ。
「武田殿が関東になだれ込むのを防ぐ、栓の役割を果たしてきた猛将であった。
隠されておるがの、死んだぞ。
もはや上杉、関東を取ることは叶わぬ」
……目の前の、この糞爺の言いたいことがわかった。
つまり、だ。
もはや細川管領家はなく、将軍様も孤立した。
関白様も、わざわざ関東にまで出向いたものの、もはや静謐をもたらすどころかそのお命すらが危ない。
御用絵師として将軍様に仕え、忠義立てしても、もはやどうにもならぬ。
小蝶をこの糞爺のおもちゃとして差し出せば、三好、松永の陣営に属するものとして、狩野の派の存続は許そう。
そういうことだ。
小蝶めがいちいちすり寄ってくるのには、俺、心のどこかで辟易していたはずだ。だから、いっそこの糞爺に渡してしまえば清々する。
そう考えても、おかしくはなかったはずだ。
だが、この糞爺に渡すくらいなら他国に逃がしても、いや、いっそ殺してでも渡さぬ。
決して、渡さぬ。
俺の頭の中で、なにかが切れる音がしたあと、俺はそう決めていた。
だが……、決めただけではどうにもならぬ。
この糞爺の喉笛に噛み付けたとしても、あっという間にずたずたに斬り刻まれて終わる。いっそそれでもと、思わぬではない。
「悪いようにはせぬ。
明日にでも連れてくるがよい」
このような話をしているというのに、糞爺の雰囲気は色ぼけの
相変わらずに、蛇のようなぬめりと冷たさを身に纏い続けている。
この糞爺は、女を抱くにもその喉元に白刃を突きつけて、温もりなくことに及ぶのであろう。
そのぬめりが小蝶を汚すことを思うと、俺の中には無かったと思っていた激情が湧き上がる。
いつか、絶対殺す。
俺が殺してやる。
固く固く、そう思う。
だが……、やはり蛇の前の蛙の歯軋りに過ぎぬ。
とはいえ、いくら弱手であっても、せめて一矢を報いねば。
「妹は、絵筆を持つこと以外なにもできぬ娘にて、ただ、その筆を以って関白様にもお認めいただいております。
今、ご下命の絵を共に描いておりまして、それさえ終りますれば……」
「ほう、将軍様が、狩野に絵を命じておるのか。
それは、どのような下命なのだ?
わしのところに、その娘を差し出せぬほどの話なのか?」
くっ、やむをえぬ。
今この場で話したくはないが、この場はなんとしても逃げ切らねばならぬ。
「大和絵の技は……」
「そのようなことは聞いておらぬ。
どのような下命で、どこに使う絵なのだ?」
これではとても無傷では逃げ切れぬ。
だが、
俺がそう覚悟を決めたとき、屋敷内で凄まじいまでの悲鳴が轟いた。
家来の者たちが、一斉に走り出す。
さすがの松永様も腰が浮いた。
俺は、これ幸いと話を打ち切った。
「まことに良き話しながら、お取り込みのようなので、一度持ち帰らさせていただきたく。
それでは
俺はそう頭を下げると、さっさと逃げ出したのだった。
松永殿の屋敷を抜け出すと、逃げるような足さばきで工房に向かった。
ともかく、早くここを離れたい。とはいえ、狩野の棟梁が走る姿を見られるのもよろしくない。
気は急くが早足に留めねばならぬ。
軽く息を弾ませながら、俺は左介に何が起きたのかを聞いた。
「何匹もの
まぁ、女子としては騒がずにはいられませぬでしょう」
なるほどな。
ともかく救われた。
運が良かった。
あとで、どこぞの弁天様にでも鶏卵を供えようではないか。蛇は弁天様の使いと言うからな。
そう思いながら、俺は工房に帰り着いた。
水瓶から柄杓に五つも水を呷ると、ようやく落ち着いた気分になれた。
安堵のあまり、あらためて息を吐く。
松永の、あの糞爺の顔を見る度に、十年から寿命が縮む気がする。
俺は絵師だ。
絵師だというのに、あの糞爺のせいで、それ以外のことばかり考えさせられる。
ようやく棟梁の座に座り、工房内を見回すと信春がほぼ裸で寝そべっていた。
さすがに叱咤しようとして、違和感がそれを止めさせた。
よくよく見れば、隣に着物が干してありはするが、いつもの片身替わりの小袖の左半分がないのだ。
その右半分だけの着物で歩き回る姿を想像すると、ましてや左の落ち着いた柄がなくなり、残された派手な右半分だけだと、狂女の裸踊りの風情がある。安珍清姫、つまり「道成寺縁起」の清姫かとも思うが、乗っている顔が信春では様にならぬ。
「信春、馴染みの女に袖でも引かれたか?」
俺の問いに、直治どのが答えた。
「棟梁殿。
信春殿に、布地を買い与え給え」
「どういうことだ?」
俺がそう聞くと、信春は大きく息を吐いた。
「毎日京の町をうろついておるとな、堀川あたりの蛇の冬眠の巣にまで詳しくなってな」
「……なんと」
「小袖の左側を引きちぎって、袖の中に目についた蛇を詰め込めるだけ詰め込んでな、直治どのに持たせたのよ。
俺もな、半身の布をさらに引きちぎって丸めてな、目についた蛇をさらにそこに詰め込んでな、半裸で走ったのさ。
さぞや、ひどい狂乱ぶりに見えたであろうな」
ひょっとして、信春、落ち込んでいるのか?
だが、松永邸での蛇の出どころがわかった。
二人してここに戻り、小蝶から俺の行き先を聞き、俺の助けにと来てくれたのであろう。
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