第8話 我々、窮鳥にならねばっ


 そこで、直治どのが口を開いた。

「棟梁どの、お話を蒸し返してしまいますが、その下絵を描く者の身の保証はどうされるおつもりでしょうか。

 小蝶どのに対するお考えはわかりましたが、問題の根はそんなものではないはず。

 そもそもすでに、ここには見張りが付いているというお話でしたな。

 これは盗人、人さらいとは異なります。

 そのつもりになればわれわれを拐って、こちらが口を割るまで責め抜き続けることもしましょうし、いきなり斬られることもあるかもしれませぬ。

 信春殿にしても、私めにしても、それに対する覚悟があるから無手で良いというのは、ちと違いませんでしょうか」


 ……それはそうだ。

 こちらを襲う者の正体が三好殿の手の者の武士であれば、こちらが左介などの使用人を付けて常に二人以上で動こうが意味はなかろう。

 野盗などに通用する手段は通じまい。武士というのは、それだけ手強いのだ。


 俺は考え込んでしまった。

 ただ、長い時間ではない。

 ふと、思い出したことがあるのだ。

 太平記に、「ここに両度の臨幸を、山門に許容申たりしは、一往衆徒の僻事に似て候へ共、窮鳥入レ懐時、狩人哀レ之不レ殺事にて候」とある。

 すなわち、「窮鳥きゅうちょうふところれば狩人かりびとこれを哀れみ殺さざる」なのだ。

 懐に飛び込んできた鳥は、狩人すら殺せない。ならばいっそ、こちら側からその鳥になろうではないか。


「直治どの。

 ごく近い内に、俺は松永弾正少弼だんじょうしょうひつ殿のお屋敷に行ってこようと思うが、いかがなものか?」

「京の絵図を描くよう、将軍様に命じられたがゆえに、お屋敷を描く許可をいただきたい、ということでしょうか?」

 さすがに、直治どのは鋭い。


「そうだ、直治どのの読みのとおりだ」

「三好殿のお屋敷ではなく、真っ先に松永殿のお屋敷に伺うというのはなぜでございましょうか?」

くみやすし、と見ているからだ」

「あの松永殿を、でございましょうか?」

 直治どのの不安はよくわかる。

 松永殿の評判を知っている信春、小蝶も不安げな表情を隠さない。


「そうだ。

 あの松永殿を、だ。

 だから将軍様に、松永殿の塗輿使用を許されるよう、狩野の名を隠さず京の町衆として願い出てみようと思うのだ」

 俺は、そう返事をする。


 直治どの、驚きを隠せず小声でとはいえ語調が強くなった。

「なんと!

 それは、敵を利するにもほどがあるのではございませぬか?

 そもそも棟梁殿がそのようなことをなされれば……。

 なるほど、そういうことでござるか。

 さすがは棟梁殿」

「おい、直治、いきなり一人で納得するな。

 俺には、なにがなにやらさっぱりわからぬ」

 信春が、悲鳴に近い声を上げた。


 それに対し直治どの、俺に代わり、坦々と信春に説明をしてくれた。

「棟梁殿のお考えはこういうことだ。

 松永殿に働きかける利点はあまりに多い。

 まずは一つ目、あの松永殿が了承されたということになれば、各武家屋敷はどこも描きやすくなる。

 二つ目は、松永殿に話が通れば、我々が三好殿の手の者に襲われることはなくなる。実際、絵筆を握ること以外、絵師たる我々には身を守る手段すべすらないのだからな。その筆に害意がないことをわかっていただけば、将軍様と松永殿、両方の後ろ盾が並び揃うことから、その後は物取り、盗賊、人さらいに対してまでも安全になろう。これは、三つ目の利であろう。

 四つ目は、松永殿に恩が売れる。これは後々に効いてこよう。極端な話ではあるが、将軍様が三好殿に敗れたときですら、狩野の家は無事となる」

「我々の利ばかりではないか。

 将軍様、ひいては関白様にとって良いこととは思えぬし、将軍様から見たら我々が敵に回ったように見えるぞ」

 信春が口を挟んだ。


「信春、最後まで聞け。

 直治どの、続きを頼む」

 俺は、信春にそう釘を刺す。

 そこまで、俺も直治どのも考えていないわけがないではないか。


「はい。

 五つ目は、関白様、将軍様から見て、三好殿と松永殿の離間策になる。おのれの家臣が自分と同じ格式を持つことに、喜びを感じる主君などおりませぬからな。

 六つ目は、同じく関白様、将軍様から見て、三好殿、松永殿と抜き差しならぬことになるまでの時間を稼ぐ材料となる。

 七つ目は、そこまでの利点がありながら、織田殿が今川殿を討って以来、塗輿の価値が大きく下がっていることから、松永殿に渡す利としては、極めて少ないもので済む。

 棟梁殿のお考えは、こんなところかと」

 直治どのはそう言い終えると、腕を組んだ。

 言葉の深さとその姿勢はすでに老成すら感じるが、いかんせん姿形が若すぎて少し滑稽なものを感じる。めぐさ、可愛さをも感じてしまうからだ。


 俺は、さらに八つ目を足した。

「将軍様、どれほど腹の底では一物があったとされても、それを表にはされてこなんだ。現に今年のはじめには、三好義興殿と松永殿に御供衆の役目を仰せつけられている。

 この時点で塗輿を許し足しても、不自然さはなかろうさ」


「……なるほど。

 これはどうにも敵わぬ。

 だが、このようなことを考えていたら、おのれの絵を濁らせるだけではないか」

 信春が呻いて言う。


「なにも考えず、ただ描いた絵が売れる世がくれば良いが、の。

 だが、そのような世は永劫に来ぬよ。

 常に絵以外も考えねば、描く機会さえ失うのが現世の辛さよ」

 俺は、信春の慨嘆を切って捨てた。


 小蝶までもが、どことなく信春の慨嘆にため息を吐きたげだ。

 売れなくても良い絵を描くのであれば、それは絵師ではない。道楽であり、他に生計たつきの道を持たねばならぬ。

 もしかしたら、このあたりのこと、信春には一生わからぬことなのかもしれぬ。だから、同じようなことを繰り返し語るのだ。

 その画才があるがゆえに、どこででも絵筆さえ握れれば喰っていけるとごく自然に思っているのであろう。信春は過去、実際にそうであり、そうできてきたのだ。そこに思い上がりのないところが、余計にたちが悪い。

 反省のしようも、させようもないからだ。



 直治どのが続けて口を開く。

 信春の言は、まるっとなかったことにしたらしい。直治どのも苦労人だから、応対に困った結果なのであろう。

「まずは一つ目の、松永殿が了承されたということになれば、各武家屋敷はどこも描きやすくなる件でございますが……。

 まず、最初に松永殿に断られたら、他の武家からも軒並み断られてしまいますからな。

 このような筋立てで申し上げてみてはいかがでしょう。

『我々は将軍様の命により、京を描くにあたって武家屋敷も描きたい。それも京をお守りいただいている松永様のお屋敷は外せぬと考えております。

 そして、松永殿の了解を得たら、三好殿、細川殿と話を進めさせていただきたい。

 松永殿が、茶の道を能くする奥ゆかしい方だというのは知れ渡っております。

 なので、この話を進める順番が逆になると、松永様は主家筋に並んで家臣筋の屋敷が描かれることが畏れ多いとして遠慮されてしまうでしょう。

 そうなると、我々も将軍様の命を果たせなくなり、御用絵師の面目が保てぬことになってしまう』

 と、このような筋でいかがでしょうか。

 さらに言えば……」

 まだあるのか、直治どの。


「左義長に関して描かれるのであれば、久秀様の弟、長頼様に内意を得るのもよろしかろうと思われます」

 なるほど。

 久秀殿はあまりに油断がならぬ。

 ならば、そのように分散し、警戒されぬようにするのは一つの手であろう。


 俺、考えがまとまる。

「なるほど。

 内裏、花の御所、寺社から断らるることはなかろうから、すべての要は松永殿とも言えるな。

 直治どの。

 その案で、松永殿に話そう。

 さらに……」

 と、俺は続けた。


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