第7話 立ち得る舞台は無限ぞっ

 

「そうは言うが、小蝶どの、そこまで私の絵は源四郎どのより下かな?」

 信春は、諦め悪く小蝶に再度聞く。聞くと言うより、愚痴だな、これは。

 まあ、この問いは、信春が直治どのの疑問を代弁し、救ったということでもあろう。一番年若き直治どのが、同じ問いを歳も立場も上の我らにできるはずもない。


「上下を思っている間は、決して兄上に勝てはしませんでしょうよ。下剋上は果てしなく難しゅうございましょう。

 ですが、そもそもなぜ、信春さまが兄上と同じ舞台で勝負されようとしているのか、小蝶には不思議で仕方ありませぬ。

 そこまでご自負がおありなら、自らの得意の舞台を作られて、そこに兄上をお呼びになればよろしいのではないでしょうか」

「俺の舞台……」

 そうつぶやいて、信春の目が空を泳ぐ。


 信春の絵筆は、仏画に育てられた。今はそこから離れ新たな画風を模索している最中だ。その苦しみを図星に指摘されれば、目も泳ごうというものだろう。

 見れば、直治どのも同じように目が泳いでいる。

 直治どのは、関白様からの言葉に自らの筆致の硬さを自覚し、水墨画から踏み出すべく同じく苦しみの中にいるのだ。


「小蝶、そういじめるな。

 狩野の場にいながらそれに呑まれず、染まらず、信春も直治どのもおのれの道を探し続けているではないか。これは、容易ならざることぞ。

 なぁ、お二方。

 狩野の絵が漢画と大和絵の中間にあるとすれば、小蝶の絵は、狩野と大和絵の中間にある。その舞台では小蝶は強いぞ。

 あくまで例えばの話だが、ぱあでれの持ってきた絵は、漢画とも大和絵とも違う。いにしえの波斯国ペルシアの絵もまた異なる。

 世界は広い。それぞれを混ぜ合わせることまでも考えれば、舞台はいくらでも考えられよう。

 さらに、精進次第では、それぞれを超えたものだって生み出せぬとも限らぬ。

 つまり、舞台は無限にある」

 俺の蛇足の言に、信春はうめき声をあげた。


 たぶん、信春の理想は、俺が例に挙げたものとは違う。

 おのれの才の趣くまま、自在に筆を動かしたい。ただ、ただ、これに尽きるのであろう。

 だが、そもそも孔子ですら「七十而從心所欲不踰矩」。すなわち、「己の欲する所に従えどものりえず」という境地に至ったのは「七十にして」である。

 信春がその歳になるには、まだ五十年かかる。

 それまで、試行錯誤を続けるしかないではないか。

 悟りの道は遠いなぁ、信春よ。



「だが……、信春。

 それはともかく、今回のことは手伝え。

 無限というほどの人を描き、建物を描くうちに、さまざまな試しができよう。結果として、一番早くおのれの舞台が見つかるやり方やもしれぬぞ」

「うむむ。

 なんぞ、うまく丸め込まれた気がしないでもないが、まあいい。

 絵師ならば、誰でも夢見るような仕事だ。

 生命の危険があってもな」

 信春は、そう言って首を縦に振った。


「直治どの。

 同じく助力願えるかな?」

「私はそのつもりでございます。

 国では父が戦っております。私は妾腹の身ですが、正妻より生まれた弟も命を懸けて戦っております。

 この世は、戦わねばおのれの居場所も得られぬもの。絵師となっても身に降り掛かったこのいくさ、逃げるわけには行きませぬ」

 直治どのにも手伝っていただけるのであれば、これほど心強いことはない。


「ありがたい。

 ただな、直治どの。

 これが絵師のいくさであれば、なおのこと勝たねばならぬ。もとより負けるつもりはないが、これからの世、ますます渾沌とするだろう。

 ぜひ助力をお願いしたい」

 歳下であっても、直治どのの考えは俺より辛い。


 俺の考えは甘く、それが足を掬うことも考えねばならないし、いつまでも父を頼るわけにも行かぬ。

 狩野の家に来るにあたり、さまざまな経緯のあった小蝶の方が俺より辛いくらいだ。

 ついでに言えば、信春にいたっては高価な砂糖ほども甘い。

 総じて我らは、歳を食っている者ほど考えが甘いということになる。これはなんともおめでたいことで、困ったものだ。


 まぁ、しっかり者の信春など想像もできぬのだが、強いて言えば、おかげで俺は誰にも甘えずにいられる。しっかり者の信春がいたら、無意識にも俺は頼りにしてしまうだろう。



「ならば、この場で申し上げます。

 長尾殿の入った洛中洛外図を描かれる予定であればこそ、さまざまな策がございます」

「おお、それは心強い」

 直治どのの策はなかなかに深い。

 これからは、さらにさまざまな策を考える必要があろう。それを考えるとなんともありがたい。


「たとえば、どのような策が……」

「あえて、このように呼ばせていただきますが、狩野の棟梁殿、『謀は密なるをもってよしとす』と申します。

 あとでよろしいではありませぬか」

「わかった」

 なるほど、直治どの、俺だけに話したいのだな。気を持たせてくれるではないか。

 これはなかなかに楽しみではある。



「小蝶、お前は……」

「兄上、小蝶はどこまでもついていきまする」

 随分と、食い気味に応えるではないか、小蝶。


「あ、ああ。

 だが、最後まで言うぞ。

 女子おなごの身には辛い仕事になる。わかっておるのだな?」

「はい」

 即答だな。

 本当の意味で、わかっているとは思えない。


「冬の寒さの中、ひたすらに筆を走らせねばならぬこともあるぞ」

「兄上は、信春さま、直治さまにはそのようなこと、仰いませんでした。

 やはり、兄上は小蝶に対してお優しい」

「いや、男などは、どれほど苦労しても構わぬが、女子にあまりつらい思いをさせたくはない」

「兄上、この小蝶、父から『女を捨てよ』と言われております。

 お気づかいなきよう、お願い申し上げます」

 滅気めげぬなぁ、小蝶。

 しかも、『女を捨てよ』という父の言葉、良いように使い分けていないか?

 本気で女を捨てるのであれば、俺にすり寄って来たりはしないものだぞ。


 存外に小蝶、しぶといのやもしれぬ。

 だが、俺としては、その方が気楽でよい。

 一言一言に傷つき、恨めしげにこちらを睨む女など、付き合ってはおられぬ。


 だが、俺はさらに言葉を積んだ。

「京の町は、物騒な場所だ。

 略奪に人さらいまでが横行している。

 さらわれて戻ってきた女、子供など数えるほどしかおらぬし、いずれの者も無事に帰ってきたとは言い難い。

 それどころか、女子の頻繁なる独り歩きは、命に関わることすらあろう。そこへの気配りも含め、できるのだな?」


 実際、小蝶には左介かだれかを、常に付けねばなるまいと俺は踏んでいる。

 それですら、安心はできまいが……。


「はい。

 ただ、甘えるわけではございませぬが、この四人の中で私が一日の長をもって描きうるもの、すなわち、童や犬猫花鳥を描くのであれば、そう危険な場所に足を踏み入れることもありますまい。

 もちろん、ご下命とあらば、どこへでも行きまするが」

 ……まぁ、小蝶の言うとおりではある。

 あまりに言うとおり過ぎて、次の脅しの文句が出てこない。


 赤子、童を描くのであれば、この四人の中で俺か小蝶しかおらぬ。

 仏画のような悟った顔の赤子でも困るし、やたらと硬い表情の童ではなにかに怯えているようにすら見えるであろう。

 この絵の下命の意味からして、どこかで安堵を感じさせるものに仕上げねばならぬ。静謐なる世が来るための、先駆けの使者なのだから。

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