第5話 なんと、求められぬ絵になるとっ
信春が口を開いた。
「だから大丈夫というのは、絵師の仕事に対する姿勢として良いものなのか?」
「よいさ。
そもそも、元々の下命の意が絵ではなく、符牒を描けということではないか。
それを、俺が勝手に、絵師の仕事としてより良いものにしようとしているだけだ。俺としては、絵具代をいただいた上で、時間が許す限り良いものが描ける自由を確保した。
期限が来てしまえば仕方がない。だが、時間があればあるほど完成度をあげることができる。
そこに、なにか問題があるか?」
「源四郎、今初めて、お前には敵わぬと思った」
は?
今更なにを言っているのだ、信春。
だから、「お前も派を率いたときのことを考えておけ」と前々から言っているではないか。
派を保つことと絵を描くことは、うまく摺り合わせられるものなのだぞ。
「源四郎どの。
納期については、私も思うところが」
と、直治どのも言う。
「なんなりと」
俺はそう答える。直治どのの考えはぜひお聞きしておきたい。
「まずは……。今川が討たれたとなると、長尾殿は北条をお攻めになると思われますが……。
関白様も、そのご助力をされることになるかと」
「……直治どの、それは、どこからお聞きになられた?」
俺は、驚きに少しぎくりとしながら聞く。
「いいえ、どこからも。
ただ、長尾殿は管領待遇を受けておりまする。
その視野は、関東管領に並ぶものとなっておりましょう。
つまり、今川なき今、後ろ盾のなくなった北条を討つ好機と長尾殿はお考えになるのではないか、と。
周りもまた、それを期待しましょう」
やはり、直治どのは一城の主の子だ。
京の町衆の中で、密かに囁かれ始めていることに自力で考えが及ぶとは。
我ら京の町衆は、法華の門徒が多い。
だから、大本山の本能寺で顔を合わせることも多く、寄り合いまで行かなくても情報は密に得られるのだ。
実は、狩野の縁故によって得た情報も同じことを示唆しているし、その情報は他の町衆とも共有している。
だが、信春はこのようなこと、思いつきもしないであろう。
「直治どの、そのとおり。
実は、宗祐叔父から便りがあった。
その他、上州からもだ。狩野の弟子は全国にいる。それらの者たちが便りをくれることがあるのだ。
それらの便りによると、大きないくさになるらしい」
「長尾殿が相模まで攻め込むとなれば、これは容易ならざること。
関白様と将軍様のお
……これは一度、直治どのと父上で論じさせてみたいものだ。
俺は座り直して問う。
直治どのの読み次第では、その話を他の町衆にも伝えねばならぬ。
「直治どのは、この先をどう見る?」
「相模小田原は、絶対に落ちませぬ。
長尾殿は虚しく退却されることになるやと思われます。
その結果、関白様は長尾殿をお見限りになるやもしれませぬ」
これが、俺の四つ歳下の、元服したばかりの男の物言いか。
今まで国元で、どれほどのものを直治どのは見てきたのであろう。
それとも……。
武士の子とは、このような教えをどこまでも徹底して受けながら育つのであろうか。
考えてみれば、武術の鍛錬は日常のものであろうし、一城の主の子ともなれば軍略についても習うのであろう。我ら絵師の、否、町衆の子が育つのとは訳が異なるのであろう。
「理由を聞かせていただこう。
小田原城は予想以上の堅城と、宗祐叔父からの便りの中に記されていた。だが、それは長尾殿もご存知のはず。それなりの手立ては講じられようと思うが……」
「簡単なことでございます。
北条と手を結んでいるのは今川だけにあらず、甲斐の武田も、でございまする。位置的に見れば、長尾殿が小田原まで遠征する軍の横腹を、甲斐の武田は食らいつき放題でございます。長尾殿は当然のように対策されてはおりますでしょうが、その横腹の距離はあまりに長く。
それだけでなく、信濃は川中島から、長尾殿の本拠地である越後に直接攻めかかることもできましょう。長尾殿は、三国いや、五国を守るほどの兵を持たねば安心できますまい。
長尾殿が何度もいくさをしながらも、武田を叩ききれなかった憾みがここへ来て噴き出しましょうな」
俺は、頭の中で日の本の国割を思い浮かべる。
なるほどな。
これは、納得せざるを得まいよ。
「それだけではございませぬ」
そう直治どのは続ける。
まだあるのか……。
「長尾殿が北条を討った場合、次は武田となるは必定。
武田がそれをわからぬはずはありませぬ。北条に味方して、二対一の態勢を崩さぬようにするでしょうな。
ただし、長尾殿がいなくなれば、武田の夢は海を得ること。
越後に出るか、駿河に出るか、どちらかになりましょうな。
ただ、それはまだまだ先のこと。
ですが、そのような事態は必ず参りましょう」
うむ、多数の大名の思惑をすべて読み解かねばならぬのか。
ただ、なんとなくわかってきた。地の利と各大名の欲は密接に関係している。当然、それぞれの地の産物もだ。そして、そこから10年後を予測するのだ。
「直治、なんでそこまで考えられるのだ」
信春が聞く。
さすがに、直治どのを見る目つきが、後進を見るものではなくなっている。
「……京にいて、京から見ておるからかもしれませぬ。
地方にいてはなかなかわからぬでしょう」
うむ、京にいるという意味では、ここにいる全員がそうなのではあるが……。
これにはなかなかに敵わぬが、そのうちに俺も少しは学んでおきたいものだ。
「では、関白様が、長尾殿をお見限りになるというのはどういうことか?」
俺、話を戻した。
「越後から上州を経て相模。九十里はございましょうな。
越後から京までが百三十里。
長尾殿のことですから、さぞや相模では善戦なさるでしょう。
ですが、城を落とせぬ以上、負け戦でござる。
その残念なる思いが、否応なく関白様にこう考えさせるのでございます。
『九十里を矛先の向きを替えて、少し距離を増した百三十里、京であったらどうなっていたか』と。
『小田原ほどの城を持たぬ三好であれば、一蹴できたのではないか』と。
長尾殿が善戦なさればなさるほど、関白様のこの残念なる思いは強くなるのでございます。
あとはもう、言うまでもないこと」
……いちいちもっともだ。
よくもまあ直治どの、少ない材料からここまで考えたものだと思う。特に、長尾殿が善戦すればするほど、関白様との間に溝が生まれるというのに説得力がある。
「そうなると、長尾殿とともにではなく、長尾殿を見捨てて関白様は京に戻られることになるやもしれぬな」
「はい。
そうなると、このご下命の絵、将軍様にお納めする日は来ないやもしれませぬ」
「なるほど、ようやくわかった。
それが直治どのの読みか。
これから描く絵は、納期どころか求められぬようになる、と。
ならばよい。
どうせ絵具代は前払いだ。皆で、ゆっくりと良い絵に仕上げようではないか」
俺の言に三人は頷くが、直治どのはまだ言いたいことがあるらしい。
「納期が来ない絵だとしても、でございますが……。
必ずや、必要とされる日が参りましょう」
「それは、直治どの、どうお考えになっているのか」
さすがにうすうすと直治どのの考えが俺にもわかるようになってきたが、あえて聞く。答えは突合しておかねばならぬ。
「今回の発端となった、尾張の織田でごさいますが……。
関白様、将軍様、共にこのような新しく現れた強き者に縁を作られようとするでしょう。
そのための道具として、今回のご依頼の絵は使い回されることになりましょう」
「なるほど」
そう言って俺、笑いだしてしまった。
「なるほど、では、描くだけ描き、例えば長尾殿を描くのは一番最後にした方が良さそうだ」
「で、ございます。
お納めする三日前に真の完成を見るのでも良いかと」
「よかろう。
さすがは直治どのだ。
そう致すとしよう。
さらに言えば、その時の織田殿には『一月で納品できる』と、値を吊り上げてくれよう」
俺の言葉に、信春以外は笑った。
まったく、信春は人間としてはいい加減なくせに、こと絵に関しては禁欲的だ。
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