第3話 勝負でござるっ
まずは、俺と信春、直治どの、小蝶の
俺のような根が気楽な男であっても、偉大すぎる祖父を持つと、ただ単に生きるということだけのことが際限なく厳しくなってしまうものだ。
俺が十六の歳のとき、その偉大なる祖父、狩野元信はついに倒れた。
狩野の家は、絵師としての襖絵などの依頼も引きは切らなかったが、それ以上に町衆相手の扇絵でも稼いでいた。これは祖父の始めた事業であったが、より儲かる形なるよう影で暗躍したのは父である。
俺の見るところ、父は祖父に画才では劣ったものの、商才では遥か上を行っていた。一派を背負い、飯を食わせていくだけでも日々の出費は馬鹿にならない。
また、良き色を出すためには良き絵具が必要になるし、良き絵具は高価なものだ。青など藍銅を使うとなれば、さじ一つで米一俵もの値がする。
まして、近頃の金泥を多用するようなものともなれば、下絵の段階からして膨大な金が必要となる。
だが、すべてを前金でなければ絵が描けないなどというのは、狩野の名が廃るというものだ。
そうは言っても、父の絵を見る目は確かであったし、
そもそも京の町衆に好まれる扇絵は、父が原画を描いたものも多いのだ。
そして、その筆によって稼いだ金は、よからぬ目的にも使われていると俺は見ている。
俺は、父が何人の女を隠れて囲っているのか、相当に疑っているのだ。
現に、どこかの女に産ませた俺の妹が、同じ屋敷内にいる。
その父が俺を呼んだのは、いよいよ祖父がいけないということが判明した
「源四郎、話がある。
狩野の家の屋台骨は、我が父の作ったものだ。
その父がいけなくなったとき、派を率いるにわしの力では足らない。天賦の才において、わしは息子のお前に劣る。
だから、わしは早々にお前に家督を譲ろうと考えているし、それ以前からして工房と絵師たちについてはお前に任せたい。
わしは、引き続き五摂家、寺社、武家に顔をつなぎ、下命を受けられるよう働こう」
そう言われたからと、息子としては調子に乗って、「はい」と頷くわけにも行かない。
しかも、父の言はどこか奥歯に物が挟まったようであった。
「お待ち下さい、父上。
俺はまだ若輩。
せめて、あと十年は父上の元に」
俺は、ひとまずそう言って逃げた。
だが、父は許さなかった。
「わが父が
それを見届けてこそ、父も安心して逝けようというもの。
父に幼少より可愛がられしお前ならばこそ、その力がある。
狩野の家名はお前が守るのだ」
……ひょっとして父は、俺をけしかけているのか?
それとも、逆かも知れない。
父を侮る者たちが、祖父が倒れたのを機に良からぬ蠢動を見せているのかも知れない。
父は、そのような人心を見るに敏であるし、筆のみを誇る者たちでは父に替わって派を支えることできないだろう。
だが、絵筆の真髄以上に、そのような機を見ることができる者は少ない。
派を構えることと、芸や道楽との区別もつかぬような者が牛耳を執れば、狩野の家は潰れてしまう。
「父上、なにをお考えで?」
俺の問いに、父は俺が状況を察したのを悟ったのだろう。にんまりと笑った。
この笑みだけ見れば、祖父に生き写しである。
俺も、歳を重ねるにつれ、このように笑うのやも知れない。
「狩野を名乗ることが許された高弟のみならず、工房で扇絵を描いている者、鄙より上洛して学んでいる者、そのような者たちの中から我と思うものに花鳥図を描かせる。
源四郎、お前も描くのだ。
そして、近衛前嗣様にこの絵競いの
俺、さすがに驚いた。
「近衛前嗣様といえば、関白様で五摂家筆頭。
そのような方にこのような話を持ち込むこと自体が……」
「構わぬ。
実はな、関白様、数年先にはなるであろうが、襖絵の下命をお考えのようなのだ。
その際に描く者は、関白様の目に適い、その好みを知るものでなくてはならぬ。
ならば、今、その者を選んでおかれるのは自然なことであろう。そのために、見本絵をお見せすることに、なんの不都合があろうか。
それに関白様は乗馬と鷹狩を好み、武家に生まれたかったと公言されるだけあって、勝負事には目がない。
逆に喜ばれようぞ」
なるほど、さすがは父だ。
狩野の派の者から、関白様の好みに合わせて専属に描く者をお付けするとなれば、関白様も悪い気はせぬであろう。京には狩野の家以外の絵師もいるが、派の規模からしてそこまでのことはどこもできまい。
つまり、派内のみならず、京の絵師全体の中でも狩野の家は優位に立つことができるのだ。
そして、関白様のお気に召されたということであれば、その後ろ盾は絶大なものとなる。
俺が狩野の家の後継ぎとして、父を差し置いて普請現場や工房を差配しても、どこからも不満は出まい。
「長子というだけで、ろくに絵も描けない」と、そう言われることだけは封じておかねばならないのだ。
「父上。
この絵競い、賽の目は決まっておりましょうや?」
つまりは、俺が勝つことは決まったものなのかと聞いたのだ。
「決まっておらぬ。
関白様といくら
それにな……」
「それに、なんでございましょう?」
俺は聞く。
父の悩みの筋は、ここにこそある。
「弟がな……」
「宗祐叔父が?
たしかに、宗祐叔父の描くものは祖父のものに似て、油断ならぬというより恐るべき相手とは申せますが」
「なのでな、奴には勝負に参加させぬよう役割を与えた。
高弟共が納得する勝負のためには、よき立会人が必要なのだ、と。
宗祐であれば、だれもが異を唱えられぬ適任者なのだが……。
あやつの堅物ぶりは、誰もが認めるところ。
だが、それゆえに、腹芸は無理」
俺、このような場でありながら、父の言に吹き出さぬよう苦労した。
あの叔父は堅物過ぎて、笑みすらまともに浮かべられない。口元がひくひくするだけなのだ。ましてや女を口説くことなど、とてもではないが覚束ない。
その叔父が勝負の立会人になるとすれば、たしかに異を挟むものは誰もおるまい。
「どうだ、源四郎、勝てるか?」
「工房、各現場、派内のすべての者の筆さばきは覚えております。なので、勝てるとは思いまするが……」
いつか派を率いる以上、全員の筆癖を覚えておくことは俺にとってごく自然なことだ。
「そこまで見えていて、なにが不安なのだ?」
「父上。
先ほど、『鄙より上洛して学んでいる者』と仰せられましたな。
その中には、まだ一度もどのような絵を描くか見たことがない者がおります。
その中に、思わぬ伏兵がおるやもしれず……」
俺の言に被せるように父は笑った。初めて、なにかに安心したように、だ。
「源四郎、さすがにそれは考えすぎじゃ。
田舎絵師にどれほどのことができようか」
「そうでございましょうか?」
「我らは狩野ぞ。
安心せい」
俺の心配は、父によって一笑に付されて終わった。
かくて話はまとまり、俺以外ではもっとも筆達者な宗祐叔父は、厳格な立会人役を顔中をひくつかせながら引き受けてくれた。
おそらくは、「世の理がひっくり返っても、宗祐の公正さは失われぬ」という父の
俺、この時点ではまだ父の本当の恐ろしさを理解できていなかった。
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