第2話 この無礼者めらがっ
「おう、源四郎」
「なに用だ、信春」
この信春という男、俺より四つ年上のせいか、あまりに遠慮がない。
父の弟子だというのに、その長子の俺に対して馴れ馴れしいのにもほどがある。
人が一心に筆を動かしているというのに、「おう」もないものだ。「師筋に対して、少しは気を使え」とも言いたくなる。
信春の身につけている片身替わりの小袖※は、意図して注文したものではあるまい。というより、ありあわせの布で自ら作ったのだろう。
だが、色の感覚が良く、そのために端切れを寄せ集めたようには見えない。
こういうところにも、この男の才は滲み出ている。
そして、なにより腹立たしいのは、その無遠慮さにも関わらず、人に腹を立てさせない駘蕩たる雰囲気を持っていることだ。
つまり俺は、腹が立たないことに腹を立てているのだ。
「ようやく金を工面して、
「また、それか。
お主の筆力は認めるが、未だ『こんなもの』ですら、父の眼にはまだまだ適わぬのであろうよ」
俺はそう答える。
信春の言う「こんなもの」とは、書を真似て「真・行・草」で表す、祖父の作った粉本と呼ばれる絵の手本である。俺が幼いときに見たものからかなり様変わりしていて、祖父の試行錯誤が忍ばれる。
これは、様々な筆致の絵を描く修行には必須のもので、固い筆致から柔らかい筆致まで、無駄なく稽古ができるようになっている。真体は馬遠と夏珪、行体は牧谿、草体は玉澗の画風を元としているのだ。
俺と同年代の祖父、父の弟子たちは、未だ自由な運筆を許されていない。なので、手本に沿った画業の修行に不満を持つと、決まってこのように俺に当たってくる。
いくら俺が自由に筆を動かしていると言っても、俺はもうその粉本は
つまり、俺はいくら当たられても、それについて頷いてやる義理はない。
ただ、本当の意味でこの手本を理解できる者など、この日の本広しといえど十指に満たないだろう。
この手本を作った祖父の凄みは、我が父といえども受け止めきれないほどの質と量なのだ。
俺とて、この凄みの本質を理解するのに五年は掛かっている。
そして、ことは手本にとどまるものではない。
皆で一つの絵を描くには、同じ基礎を持つことが必要だ。それが派をもって仕事をするということだ。おのれの好みの絵は、おのれが描けばよい。だが、狩野で受けた下命は狩野が、派として描かねばならない。
依頼する方はそれを期待しているのだから、当然のことだ。
この信春という男、天賦の才だけに関しては俺以上だと思う。
だが、その才がこの男の道を踏み外させる。
その才をどう磨きたいのか、なにをどこに描きたいのか、さらにはどのように下命を受けていくのか、なにも考えていない。
描けば形になってしまうがゆえに、行き詰まった悩みなど持っていないのだ。
だが、心ゆくまで好きなものを描くといえば聞こえは良いが、それでは一派は立ち行かぬ。独りで大きな仕事はできないからだ。
まぁ、その無責任さが駘蕩たる雰囲気に繋がっているのではあるが、このままでは一派を立てるなど、夢のまた夢であろう。
だからこそ、俺はこの男の才の無駄遣いに対して、腹が立たないことに腹が立つのだ。
まぁいい。
そのうちにこの男も、一派を背負う重みを理解する日が来るだろう。そのときこそ、それ見たことかと笑ってやればよいのだ。
「源四郎どの」
「なに用だ、
結局、信春に興を削がれた俺は筆を置いていた。
それを確認してから声を掛けてくるのは、直治どの、やはり育ちが良いのであろう。
さすがは、一城の主の息子である。
直治どのは俺の四歳下。ようやく先ほど前髪は落としたものの、その剃り跡はまだ青い。
父に師事しており、信春と同じく上洛組だ。
年端も行かぬのに上洛しているのは訳がある。俺が生まれる少し前から備前国はあまりに不安定で、国主が家老に討たれるような騒動が繰り返されている。妾腹の生まれの直治どのなど、うかうかしているとあっという間に殺されてしまうのだという。
つまり、幼ささえ残るその姿に反して、直治どのは見なくても良いものを見ながら育ってきたのだ。
その育ちのためか、信春と違い、その身にまとうものに派手さはない。
出家者かと思うほどの鉄黒の墨染の小袖で、黙々と筆を動かしている。
だがこれは、目立たぬための心得だけではなかろう。
墨染は、布の最終である。
繕っては染め直し、繕っては染め直して、汚れ隠しに染め色は徐々に濃くなり、最後に墨染になるのだ。だから、墨染は古布の極致のはずである。
だが、めずらしくこの墨染は繕ったあとが少ない。
絵を描けば、着物は汚れる。なら、最初から墨染で良いと考えたのであろう。直治どのは年若いのに合理の人なのだ。
その直治どのまでもが言う。
「私も、この手本につき、意味がわかり申さぬ。
非才なるこの身なれど、もはやこのようなものを描かなくても良いとは思っているのでござるが」
武士の子だけあって、言葉遣いが固い。
さすがに俺、面倒になった。
このような不毛な言い合い、付き合っていてもなにも生まれない。
手近な紙を二枚引き寄せ、それぞれに円を描く。
「一枚ずつ進ぜよう。
手本を描き続けることでここまで行くし、さらに先がある。
これを見てなにも感じられないなら、筆を折るが良い」
面倒さが、俺にその言葉を吐かせた。
また逆に、この二人のことだ。この円から漂う香気と色気がわからぬはずはないという安心感もあった。
だが……。
直治どのは、ろくに見もせずに、ただ手付きだけは丁寧に紙を折りたたみ、無言で俺に背を向けた。
信春に至っては、一瞥したのみでおざなりに折ると袂に入れ、あまつさえ聞こえがよしの舌打ちをして踵を返す。
それはない。
それはないぞ、と思う。
祖父なり父なりの弟子でなければ、破門にしてやるところだ。
この二人、もう少し励んで狩野の運筆をものにすれば、我が身内として下命の障壁画の現場にも出せようし、京で暮らせる程度の賃銭も与えられようと思っていたのに。
俺の怒りが頂点に達する寸前で、蛤の殻を何枚も括ったものがそれぞれの後頭部に飛んだ。
相当に痛かったらしい。なんせ、そこそこの重みがあるし、当たったところの烏帽子が凹んでいる。
そして、二人共、頭を押さえてしゃがみ込む。
「兄上に謝りなさい!」
「小蝶、控えなさい」
こうなると、これ以上、怒るに怒れない。
妹の小蝶のいきなりの実力行使である。そして、その犯行を隠そうともしない仁王立ちなのだ。兄としては、内心はともかく止めるしかない。
まぁ、小蝶本人も心得てはいるのだろう。
工房には、危険なものから毒物まで様々なものある。
括った蛤の殻は、野外で風化させたものを運び込んできている。これを念入りに砕き胡粉としたものが白の絵具となるのだが、これは完全に無害なのだ。
だが、それだけではない。真に恐ろしいものもある。
石黄などは鮮やかな黄色を出す石だが、砒素を含み有毒だ。
ましてや、今工房の片隅で行われている
和紙に直接絵筆を走らせると、絵具も墨も染みて滲んでしまう。なので、ミョウバンと
そして、膠を溶かすには加熱が必要だ。
熱湯まではいかなくても高温で粘りがあるものが肌に付くと、流れ落ちるということがないので深い火傷になってしまう。
まぁ、よほどの恨みでもないと、そこまでのことをするはずもない。だが、小蝶のじゃじゃ馬ぶりが、こんなところで発揮されるとは思ってもみなかった。
小蝶は妹としてこの家にいるが、同腹ではない。
父がどこかで産ませ、連れてきた子と聞いている。同じ屋根の下に暮らしだしたのは二年前からだが、なにかと俺に絡んでくる。
完全に俺の代になったら、この家から追い出されるとでも考えて、手を打っているつもりなのだろう。
そのせいか、このような場合、俺の意を汲みすぎることがある。
俺の二つ年下の十四歳、猫のように丸い目を持った痩せっぽちの娘だが、髪は多く、それを幾重にも束ねて背中に流している。
桃色の柄の薄い小袖を着たきりにしているが、帯は日によって漆黒だったり鮮やかな朱だったりと、そこでおのれを出しているのであろう。
小蝶、女だてらに絵筆を能くする。
絵は絵具の調合からして重労働だ。筆を動かすだけが仕事ではない。ひたすらに岩絵具の鉱物を砕く重労働を伴なうし、障壁画ともなれば普請現場に出入りが必要だ。絵師が男の職人仕事とされているのは、理由があることなのだ。
小蝶は指先が強く、扇絵程度の絵具であれば自分で調合するし、俺たちに隠れて、祖父の手本もいつの間にか
やはり、狩野の血は争えぬのかもしれない。
そして、狩野一派の絵というより、父個人の画風を受け継いだためか、心潤わすような小品については目を瞠るようなものを描く。
そのために、狩野のもう一つの画業である、扇絵を描くために工房にも駆り出されているのだが、ただでさえ女というだけで風当たりは強い。
なので兄としては大人しくしていて欲しいのだが、なかなかにそうは行かないのだ。
兄としては、「派の工房はこのような騒ぎを起こす場ではない」などと、高弟共につまらないことを言われるような隙を作らないで欲しいのだが……。
さて。
この三人が、
三人共、描いたものが永遠に残るべき才の持ち主であるし、それを
※片身替わりの小袖 ・・・ 左右で違う柄の布を使った簡易的な和服。
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