青林檎の守護者/ingress

@kitanobunko

第1話


 伯母から小さな喫茶店兼自宅を受け継いでから、7,8年が経つ。駅と団地を結ぶ商店街の中にあるおかげで大繁盛とはいかないがどうにかやっている。なにをしても続かなかった私が曲がりなりにもやっていけているということはそれなりに向いていたのかもしれない。

 店の名前は喫茶・青林檎。命名したのは伯母で、由来は知らない。隣に小さなやしろがあるのでそれを目印に来てもらえるといい。引っ越して来たときに何人かに聞いてみたものの何の神様が奉られているのかは結局よく分からないままだ。こじんまりとして簡素な佇まいが気に入っている。当然店内から社は見えないが、カウンターの中に居ると向かいの寝具屋のショーウィンドウに反射して二重写しに見える。特にこういう雨の夕暮れは。

 店は伯母の時代からの常連さんが多く、出勤前にモーニングをとるサラリーマン、暇つぶしにコーヒーを飲みに来る近くの店の店主などが主な顔ぶれになっている。いましがたコートについた雨粒を払って入ってきた女性は数年前からの新規のお客さんだ。今日は仕事帰りのようだが、近所に住んでいるそうでたまに休日の昼間にも来てくれる。かるく会釈をしながら、彼女のお気に入りメニューのクロックムッシュのためにオーブンに火を入れた。

 彼女は基本的に物静かな人で、大抵は天気のことや最近封切られた映画のことなどを一言二言話す程度だ。だがいつだったか電話をうけて珍しく強い口調で「私のガーディアンが!」と言いながら店の外に出ていったことがある。それ以来心の中でこっそり『ガーディアン』さんと呼んでいる。


「青リンゴって緑色ですよね、なんで『青』リンゴなんだろう」

林檎の絵が描かれた紙製のコースターを弄びながらぽつりと『ガーディアン』さんが言った。クロックムッシュを食べおわり、いつものように半分残したコーヒーにシュガースティック半分を入れている。

「ときどき聞かれます。英語ではちゃんとグリーンアップルなんですよね」

レジの横にサービスで置いているキャンディの青リンゴ味はグラニースミスという品種が元になっているらしい。酸味が強くサクサクした食感で、アップルパイに向いているリンゴだそうだ。メニューを増やすのは気がすすまないが、喫茶・青林檎でアップルパイを出すのは良いアイデアかもしれない。

「考えてみれば、青信号も緑か」

と、彼女はすこし背中をひねるようにして外を眺めた。向こうの角の歩行者信号が窓ガラスに付いた水滴に映りこみ、緑色に明滅している。いつもは窓際のソファー席が定位置だが、いまは入り口近くのカウンターに座っている。先ほど一組のカップルが帰ったところで、閉店時間まではしばらくあるが、この天気ではおそらく彼女が本日最後の客になるだろう。

「青葉、青竹、それに青汁なんかも色は緑ですね。青は未成熟とか、よく言えばフレッシュって意味もあるみたいですよ」

「ああ!青二才とか。ケツの青い若者ってやつですね」

そういう彼女も年齢的には青い青春の真っ只中だろう。

「そもそも昔の日本で色を表す言葉は、赤、白、黒、と青の4つだけだったって以前テレビで見ましたよ。青は示す範囲がとても広くて、今でいう緑から紫や灰色みたいな色まで青と呼ばれてたらしいって」

淡い緑色で描かれたコースターの林檎は水を含んで、彼女の手の中でいまはグレーに見える。いつの間にか外はすっかり暗くなり、ガラス越しに見える隣の社の常夜灯にも明かりが灯っている。

「面白いですね。そういえばフランス語では蝶と蛾の区別がなくて、まとめてパピヨンだって聞いたことあります」

さっきからカウンターに置いた彼女のスマホがチカチカと着信を告げている。見なくて大丈夫だろうか。

「そういうふうに、もともとはひとまとめに済んでいたのに、名前が付くことで違うものになっちゃうの、変な感じですね。青と緑だっておんなじものだったのに」

 雨音が少し大きくなってきた。こんな雨なのに隣の社の前に誰かが立っている。いつから居たんだろう。そんなところに居たら傘を差していても足元はぐっしょりぬれてしまうだろうに。

「知らないものは存在しないことと同じ。気付かなければ平和だった、確かにそうかもしれない。でもだからってそれは、知らなくてもいいってことじゃないんですよね。そして、知ってしまった瞬間に、もう世界は変わっている」

窓に映る社は雨に煙っていつになく幻想的だ。照らされた雨は粒立って青白く光っている。社の常夜灯はあんな色だっただろうか。いや、あれは向こうの信号の色だ。でも青信号は緑色で……


 「ところでマスターは世界を守るなら青と緑、どっちを選びます?」


 彼女の目の奥が、青か緑に光ったような気がした。


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