第5話

 小高い丘の上から一望した街は曇り空の下にあった。

 少し吹き出した風が木々をざわつかせ、荒天の気配が漂い始めていた。

 開けた場所に位置する公営霊園の一角で、陸は口をぎゅっと結んだまま一点を見つめていた。

 視線の先には、陸の母が眠る墓石があった。

 この場所へ来ることも随分と久しぶりの様に感じられた。

 隣の墓石には、幼い男の子と母親と思われる女性が手を合わせて一心に祈る姿があった。

 二人の姿を陸は自身の幼少期と重ねた。

 陸の家は母子家庭だった。

 まだ物心つく前に両親は離婚していたので、父親の顔は全く記憶になかった。

 二人は木造平屋のアパートを借りて、そこに暮らしていた。

 築年数は40年を越えていて、夏は暑く冬は隙間風が吹きすさび、寒さが身にこたえた。

 陸の母は複数のパート職を掛け持ちしながら生活を支えた。

 幼少時の記憶には、疲れた母の横顔が多く残っていた気がするが、彼女自身は息子に余計な心配をかけまいと気丈に振舞っていた。

 忙しい身でありながらも幼少時の学校行事には必ず駆けつけてくれたし、家計にゆとりの無い中、中学生の頃には野球部での活動費用も捻出してくれた。

 暮らし向きが裕福でないことは十分承知していたが、この生活が普段通りであったため、陸は特段気に留めることは無かった。

 しかし母は息子へ満足な暮らしを与えられないことに幾何かの後ろめたさを感じている様であった。

 陸が二十歳の成人を迎えた年に母親が体調を崩す日が続いた。

 食が細くなり、嘔吐することが多くなった。

 母は年のせいだと力なく笑っていたが、傍目に見ても健康に異常を来たしているのは間違いなかった。

 陸は病院での診断を強く勧めた。

 しかし母は病院はあまり好きじゃないからと拒絶するのだった。

 桜の蕾が間もなく開こうとする初春のある日、パート先から陸の職場へ母が倒れたと連絡があった。

 病院へ緊急搬送された検査の結果、スキルス胃癌と宣告された。

 進行性が速く治療の難しい癌の一種で、腹膜播種ふくまくはしゅの状態が酷く、手術を施すのは不可能だと告げられた。

 そして、余命が長くないという宣告も。

 陸は主治医に余命のことは母に告げないようにお願いをした。

 入院となり抗がん剤治療を施すものの体調は芳しくなく、回復の兆しも見えないまま冬を迎えた。

 ある日の午後、病院より容態急変の知らせが届き、陸は職場を抜けて急遽病院へと向かった。

 この日が来ることを覚悟していたつもりではあったが、病院へと向かう途中の心中は穏やかでなかった。


「ごめんね」

 母が入院して間もない頃、見舞いに訪れた陸に対して謝罪の言葉を切り出した。

 母の入院生活が始まってから、陸は時間を見つけては見舞いに顔を出した。

 訪れる度に母は決まって謝罪の言葉を口にした。

 陸は気にするなと伝えたが、彼女は息子に苦労を掛けていることを非常に気にしている様だった。

 会う度に痩せ衰えていく母の姿を見て陸の不安は募るばかりだった。

 抗がん剤の副作用も強く、苦痛に悶えながらもベッドに身体を横たえる母の姿を眺めるのは辛いものがあった。

 持参した果物にも食欲がわかず、口をつけることも出来ずにいた。

 病院へ着いた陸は、主治医より厳しい状態にあると告げられた。

 病室には目を閉じて横たわる母の姿があった。

 既に意識は無い様子で、顎を小刻みに動かしながらか細い呼吸を繰り返していた。

 主治医からは当人に苦しさは無いと伝えられたが、一見苦しそうに呼吸を繰り返す母の姿を見て、陸は非常に動揺した。

 どれくらい時間が経ったのかが分からなくなった。

 室内には母の呼吸音が静かに響き渡っていた。

 だんだんそれが小さくなり、やがて室内に静寂が訪れた。

「ご臨終です」

 今となっては主治医のその一言だけが鮮明に陸の中に残された。


 母が他界してからおよそ8年の月日が経っていた。

 ふと我に返って横を見ると、そこには親子の姿は無くなっていた。

 生前は良い暮らしを息子に与えられないことを悔やんでいた母であったが、陸自身も母親に対する申し訳なさが今となっても残されていた。

 果たして母の生涯は幸せなものだったのだろうか。

 自分のことで心労を掛けさせたことが、非常に辛く思い返せるのだった。

 生前、彼女は事あるごとに陸へ貯金をするように言い聞かせていた。

 陸が定年を迎える頃は、年金なんてどうなっているか分からない。

 もしも結婚する時は、一定のお金が必要になると。

 薄給の身ではあるものの、少しずつ貯金をする習慣が身に付いた陸は、多少の金額を貯えることが出来た。

 お陰で職を追われた身でありながらも、暫くは何とか食いつなぐことが出来そうだった。

 陸は改めて母親へ感謝の気持ちを伝えた。

 そしてこの街を離れることも。

 世界を揺るがすウイルスによって自身や社会までもが一変したことも。

 もしも彼女がこの現実を目の当りにしたらどう思うだろうか。

 それでも前を向いてなんとか生きていかなければならないと言うのだろうか。

 これからどこでどのような生活が待っているかは、全く想像がつかなかった。

 そしていつまたここを訪れることが出来るかも。

 更に勢いを増した風を肌に感じながら、陸は再び丘を下る階段へと向かった。



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