娑婆

 カチカチという心地よい自転車のラチェット音に、退屈そうな声がした。


「あちぃ…」


 項垂れるような暑さをまとい、鉄の塊を押しながら、鉛のような足取りで田んぼを切り裂く一本の畦道あぜみちを歩かんとする男がいた。

 周りにはモヤにかけられたひどく青い空と、濃い翠をした山と、硬直して手を繋いでいる送電塔のみ。

 何でこんなところに…と湧き上がる汗に首筋を濡らし、終わりが見えないこの水平を、する。


 男はとある罪を犯して命からがら警察を撒き、そして路地裏に逃げ込んだはずだった。

 降り頻る雨を振り解くようにして細く薄暗い路地にしゃがみ込み、息を切らせ、しばしの休憩とぎゅっと目を瞑った。

 ところが、頬に突き抜ける生ぬるい風を感じて目を開けると、コンクリートジャングルというコンクリートジャングルはあらかた消滅していて、何故か夏の装いの田舎のど真ん中に居た。

 服装は半袖短パンに変わっており、両手にはハンドルが握られている。

 必死で逃げてきた後だったので、どこに行こうにも男は体力が続かず。おまけに謎の自転車もパンク、携帯は消えるという不幸に苛まれ、この状況下に至った。

 意識がボーっとしてくる。喉もカラカラだし、体もヘロヘロ。

 こんな様子では勿論、意識が朦朧もうろうとするのもおかしくはない。

 ノートにありったけ書き殴られた文字を消しゴムで粗く消すようにして思考も風景も白く霞んだ。まるで霧が立ち込める様に…

 のではなく、本当に周りを薄紅色の霧が覆っていた。

 男は突如として切り替わっていく世界に面食らって意識を自身の体に戻した。目を擦っても視界に変化はない。

 さっきまでの田園は全く見えない。冷ややかな空気とほんのりとした桃のような香りが嗅覚を刺激する。

 かろうじてついていた自転車のライトは、チンダル現象によって一筋の光を無限の霧に浮かべるだけだった。先は見えない。

 行き詰まった男は途方に暮れた。

 その時だった。

 桃の香が強くなってきて、霧は晴れないものの、心地よい風がどこからか吹いている。

 その風が吹いている方に意識を傾けると、何やら煌びやかな世界が現れた。

 春の声がする。

 生暖かい風は心地の良いものに変わっていて、桃の香りを漂わせている。

 あの夏の模様を遡上した先にあったものは幽玄なる理想であった。

 男は自転車を投げ捨てるように停めて歩き回った。

 木々には紅々と桃がなっており、麗かな雰囲気に心が洗われる気がした。

 しばらく歩くと、人影のようなものが遠くに見えた。近づいてみると、老人がいた。

 白い衣に身を包み、髪の毛は黄金のようで、皺という皺は積まれてきた年月を思わせた。まさに仙人のようである。

 男は恐る恐る声をかけてみることにした。


「ここは何処なのでしょうか。引き込まれるように気付いたらここに…」


 老人は驚いた面持ちで、


「ここに迷うのは貴方が初めてだ。どうせならここでゆっくりしていきなさい。私の家でもてなそう。」と言った。


 妙に落ち着く老人の声に男はすっかり安心してしまった。

 そうして、豪華な食事をご馳走になった。

 食事の席で老人が言うことには、この場所には自分だけが住んでいるとのことだった。ある時、天涯孤独になったために死に場所探しの為に旅をしていると、偶然ここを見つけたらしい。

 帰り方も忘れてしまったので住み続けているようだ。

 食事のあと、男はこれからどうすべきかを考え始めた。この不可思議な今について、夢か現かをまずは考え始めた。

 老人は「気が済むまでここにいるといい」と寛大な心で受け止めてもらった。かといってお世話になるのも申し訳ない。

 しかし、戻っても迷い込んだ世界を抜ける手立ては見つからない。どうしようもなく、暫くは老人の家に居候することとなった。Tシャツでは馴れんだろうということで居候に証として老人と同じ仙人のような衣服を身につけた。

 老人との談笑は思いのほか弾み、いつしか家族のようであった。

 男はよく食べ、よく眠り、よく働いた。

 畑を耕し、本をよみ、たまに空を見ては宇宙の事を考える。

 幾ばくかの月日が経った。

 朝、起きてみると老人がずっしりとしたものを渡してきた。


「もうすぐ頃合いだと思うておうた。これを。」


 渡されたのは何かが埋まっている土の入った鉢だった。 

 男は鉢の中の土を地面に埋め替えて育て始めた。みるみる成長した植物はやがて大きな幹を形成し、男の背を越したと思えば、新緑の葉をつけて風に靡いていた。

 植物は桃だった。

 さらに年月をかけてついた実はだんだんと色を塗ってゆき、熟したようにも思えた。果実は艶々と丸くたわわに成っている。


「食べごろだろう。どれ、一つ、あそこのを齧ってみなさい。」


 老人は一番良さそうな桃を見つけてやった。

 男は桃を両手で持って眺めた。何処をとっても美しい形をしている。

 しかし妙だった。重そうな見た目に相反して、あまりにも軽いのだ。

 男は首を傾げたが、甘美な匂いに誘われ、よだれが滝の流れのように流そうなのを抑えるようにしてどうしてもかぶりつきたくなった。

 そして…思いっきり大きな口で食らいついた。

 シャリっと心地よい音がした。

 しかし次の瞬間。

 男はむせて、口から桃を離した。

 齧った跡から見える桃の中身は白い粉だった。


「………………」


 連鎖的に男は眩暈がし、目の前が二重に見えて仰向けに倒れた。

 悲しそうな顔をして老人が男を覗き込んだ。


「やはり、まだそこに悔恨の積が残っておったか…桃に成りきれなかったようだ…またやり直そう。お前が私に……」


 男は泡を吹き、意識がそこで途切れた。

 途切れる前に見た、空に上がる一際煌々と輝く金星は、瞼の裏からでも焼きついたままとれないようにすら思えた。

 

 

 

 

 




 また、霧が男の中に吸い込まれて、田園風景に陽炎が溢れた。

 カチカチという奇妙な自転車のラチェット音に、鬱屈そうな、きごえがした。


「あちぃ…」


 また同じ場所で同じ言葉を呟く。

 大人の形をした鉛心頭の子供もどきが、パンクした鉄の塊を片手に青空が映える田園の真ん中でポツンと突っ立っていた。

 かつての少年の日の服装のまま。短パンとTシャツ。

 もはや無意識に歩くそぶりを見せた男は、また同じことを永遠の中に繰り返そうとしていた。

 自らを霧に巻いて、欺き続ける。

 空想の煙の中で幾度となく仙人、———理想の己との自問自答を何度も繰り返した。

 また甘香の霧が立ち込めた。男の中から再び放出されたのだ。

 どこか懐かしさに拘泥こうでいしようとして、懐古の象徴である田園に延々と生き続けたくて、死から逆行する感覚を掴もうとした。却って己を殺しているという逆説的証明になっているとも気づかずに。

 でも、何回も溺れるようにしてリセットを重ねた畢竟に、男は段々とわかってきた。

 つまらない、飽きた。

 それだけの単純な思考が、掴みかけた永遠を躊躇い始めた。

 その代わりに理性の仙人とは全く程遠い、快楽の傀儡くぐつは、気まぐれにらしくないことを思った。終点の一つである桃源郷ではなく、この霧の向こうには何があるのだろうかと。その好奇心ばかりが膨らんでいった。

 いつしか、自転車のライトに導かれるようにして、歩き始めた。

 あっさりと男は霧の中に消えていった。

 霧の先に進んだ男はどうなったか。

 それは誰も知らない…

 が、進んだ足跡が『無気力と怠惰の象徴の花』を踏んだ上にあったのは確かだった…

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