少女達

福津 憂

少女達

 空想上の銃には、空想上の重さがある。空想上の手触りがあって、それには空想上の冷たさが伴っている。握る手には空想上の震えがあり、空想上の後悔を重ねたり、空想上の決意を固めたりした後に、空想上の弾丸を手にする。空想上の弾丸は、空想上の小ささを持っていて、空想上の可愛らしさすら感じる。空想上のシリンダーを引き出し、空想上の薬室の中に、空想上の弾丸を詰める。空想上の機構が空想上の連鎖の末に、空想上の撃鉄を引き起こす。空想上の深呼吸をして、空想上の口内に咥え、空想上の引き金を引く。空想上の弾道を通り、空想上の弾頭は空想上の脳幹を引き裂き、空想上の死を与える。空想上の数秒間の間に。

 「自分によって、自分に向けられた、耐え難いほどの殺意」

 読み終えた小説を机に置くと、クボは深いため息をつきながらそんなことを考えた。小説などの作品には、時折こういった感情を引き起こすものがある。「感動」とか、「衝撃」と言う言葉に押し込んでしまえれば良いのだけれど、そうは行かない時もある。耐えられないほどの感動というものも存在するのだ。電撃が走る、だとか、胸が震える、だとか。そう言った表現を使ってもまだ足りないほどの感情。「全身と精神を強く打ち……」と言った方が良いのかもしれない。報道で使われるような婉曲表現だ。優れた作品を読み終えた彼の心はもう原型をとどめていない。このような感動は、時として侮蔑の対象とされることがある。「社会経験の不足」「感動ポルノ」「感受性が豊か(笑)」創作物に触れた程度で心を酷く揺さぶられるなんて、そいつが貧弱な証拠だ、と言うのだ。その論説が正しいかどうかはわからないし、正直に話すとどうだっていい。確かにクボは社会経験に乏しく、弱い人間だったけれど、そう言った話はどうでもいいのだ。

 クボは作家を志望していた。それを夢見るまでの経緯はあまりはっきりとしていないが、時が経つにつれ、いつの間にか、彼は作家になることを夢見ていた。そうして、たまに小説のようなものを書いたり、書き上げられ無かったり、書くことを諦めたり、やはり諦めきれなかったり、そう言ったことを繰り返しながら、クボは生き続けていた。彼は机の上に置かれたハードカバーの本を眺めた。買うべきではない、読むべきではないと分かっていたけれど、買ってしまった小説。彼が好きな作家の新刊だった。もしかすると、彼が物書きを夢見るきっかけとなった作家の新刊。彼はその小説を読むことによって、自分は苦しむことになると分かっていた。そして、自制の甲斐もなく小説を買い求め、懸念の通りに苦しんだ。どうして自分にはこれが書けなかったのだろう。自分が書きたかったのはこれだ。この通りの作品を書きたかったのに。何年もの間、これを書くために生きてきたのに、それは今机の上に置いてある。クボはそう言ったことを思いながら、自虐的な側面を持つ感動に浸っていたのだ。彼は小説の表紙を眺め、もう一度ため息をついた。


「良いため息だ」クボの背後で声がした。「昔を思い出すな。お前のそのため息は」

クボは驚き、しゃっくりのようにか細い悲鳴を上げながら振り向く。彼の背後には、背の高い男が立っていた。

「お前の原点はそのため息だった。そうだろう?でも昔はもっと甘いため息だったぜ」

クボは動揺し、恐怖を感じていたが、男は気にする様子もなく続けた。

「お前の甘いため息から全てが始まったんだ。それがどうだ、今のお前のため息は。煙草の煙みたいだ」男はその体を覆った革のジャンパーから煙草を取り出す真似をし、手に持ったライターで火を付けるふりをした。男は自分の顔をクボの鼻先へ近づけると、「ふー」と息を吹きかけた。クボは驚き、あのしゃっくりのようなか細い悲鳴をまた上げた。

「あなたは、誰、ですか」クボは振り絞るように呟く。動揺と恐怖で切れ切れの呼吸の合間を縫い、男の機嫌を探るような丁寧さとともに。

「死神だよ」男はそう言った。革のジャンパーに似合う、四角い顔に生やしたいかにもな無精髭を撫でながら。

「何が何だかよくわからないですよ。いきなり現れて、ため息がどうとか、原点がどうとか、挙句自分のことを死神と名乗ったり。そもそもどこから入ってきたのですか?」クボはそう言った。彼自身、自分が何を話しているのかよくわからなかった。

「俺の足元を見ろよ。そうしたら何もかもが分かる」死神はそう言い、地面を指差す。そして、そこにあるはずの足は二本とも存在しなかった。幽霊なのか?妖怪?まるでこの世の真理を告げたかのように満足げな死神とは対照的に、クボは余計に混乱していた。

「ひょっとして、お前まだ理解できていないのか?幻覚だよ、幻覚」死神は呆れたような表情を浮かべ、ジャンパーについた埃を払った。煉瓦のような赤茶色のジャンパーは、どこに埃が付いているのかわからない程に傷だらけだった。

「お前、人が死ぬ作品が好きだよな。少なくとも、自分ではそう言うふうに言ってるだろ。だから俺がいるんだよ。別に難しい話じゃない。論理的じゃないけれど、理解できないわけじゃない。お前が好きなもののために、俺がいるんだ」

クボはまだ戸惑ってはいたが、死神からは実在性を感じていた。つまり、死神が幽霊か妖怪か幻覚なのかは分からないけれど、存在は存在として、彼の目の前にいることは確かだった。

「僕が、人が死ぬ作品が好きだから、あなたがいるのですか?」クボの呼吸はほとんど平常時と同じほどにまで落ち着き、目の前の状況を受け入れようとし始めていた。

「そう。やっと分かったな。お前がさっきまで読んでたその小説も、人が死ぬだろ」死神が机を指さす。漁師のような彼の太く逞しい人差し指が、クボをすり抜けて小説を指し示していた。

「でもなぜなんです。なんで僕はあなたの幻覚をみてるんですか?」クボはそう聞いた。幻覚としての死神の存在は理解できたけれど、その理由がわからなかった。死神は呆れた様子で天井を見上げ、大きくため息をついた。それは吐息というより、うなりのようなものだった。

「それにしても、涼しい部屋だな」彼は天井に設置されたエアコンと、その白く清潔な箱から流れ出る冷たい風を感じながらそう言った。「お前の書いた小説は全部読んだよ。この部屋で書いてるんだよな。夏の暑さとか、雲の白さとか、そういうやつを」

クボは彼の方を見て、頷いた。そして死神の方を見ると、彼もまたクボを見下ろしていた。

「お前は知らないかもしれないが、この国には夜祭というものがある」死神はクボを見下ろしたままそう言った。もちろんクボは夏祭りのことは知っていたが、黙って頷いた。

「そしてお前はこれも知らないかもしれないが、今夜がその夜祭だ」

クボはそのことを知らなかった。気づいた時には、死神はエアコンの電源を落とし、部屋の窓を目一杯開けていた。部屋に小さく響いていた送風音が消え、その代わりとして、風と蝉の鳴き声が流れ込んだ。

「お前は知らないかもしれないが、夏は暑いんだ」死神はそういうと、クボが着たシャツの襟元を掴み、思い切り引き上げた。クボは椅子から飛び上がり、部屋の外へ投げ出される。

「暑さを感じるんだ。網膜を焼け。紫外線を浴びろ。皮膚癌になるかもしれないが、そんなことは気にするな」死神はそう言うと、煙草に火をつけて笑った。今度は本物の煙草で、彼は本物の煙を吐いた。死神の振る舞いは、ありきたりな「荒々しさ」で満ちていた。世の作品に満ち溢れた、荒っぽい男としてのテンプレートのような死神だった。


 死神はクボの少し前を、とても楽しそうに歩いていた。夜祭を今夜に控えた街だったが、すれ違う人々にそんな様子は一切見られなかった。浴衣を着た子供もいなければ、誘導のための警備員も立っていなかった。ただ掲示板に貼られたポスターと、公園に並べられたテントの列だけが、数時間後の夜祭を暗示していた。

「どこへ行くんですか」クボは少し歩調を早めて死神の隣へと行き、そう聞いた。まだ昼前だったし、夜祭の始まりまではまだ随分と時間があった。

「どこへも行かない」死神はまるで聖書の一節を読み上げるかのような荘厳さを持ってそう言った。それが世界普遍の教義でもあるかのように。

「何で足があるんですか」クボはまた質問をした。部屋で見た時は宙に浮かんでいた死神だったが、道を歩いている今ではちゃんと足が生えていた。黒いジーンズを履き、29cmはあるような大きな足には白いビーチサンダルを履いていた。

「何でって、俺は今この世界に存在しているからさ」死神はそういうと、少し先に落ちていた小石の元まで駆け寄り、それを蹴飛ばした。小石は勢いよく飛んで行き、道端に止められていた自転車のスポークにぶつかると風鈴のような音を立てた。それは死神が物理的な存在としてここにいることを表すものだった。そんな死神を見ていると、クボは何故か懐かしさや安心感というものを感じた。この落ち着きはどこから?幻覚だか何だか分からない男を前にしていても、クボは何故か自分が落ち着いていることに気がついた。「親戚」クボはそう思い付いた。死神はまるで、クボの親戚のようだった。具体的な名前は分からないけれど、法事に集まると見かける親戚のような、そんな顔をしていた。それは死神が(少なくとも彼が自分で語る限り)クボの思考から生まれた幻覚だからなのかもしれない。

 結局、彼らは夕方になるまで歩いた。同じ駅の周りを、何周もした。その間、死神はほとんど一言も喋らなかった。ただ静かに歩き、時折小石を蹴飛ばし、頻繁に周囲の様子を覗った。警官の目を気にする犯罪者のようでもあったし、犯罪者の存在に目を光らせる警官のようでもあった。とにかく、死神は何かを探しているようだった。

 駅前のロータリーを通ったその時に、十七時を告げるチャイムがなった。クボは驚いた。彼らが部屋を出たのは十一時前後だったから、もう六時間も歩き続けた事になる。クボの体感では、まだ三時間程度しか経っていない気がしていたのに。けれど、足の震えは確かに六時間分の疲労を表していたし、喉も酷く乾いていた。渇きどころじゃない。頭痛が酷く、目眩もした。そして吐き気も。クボは明らかに脱水の症状を呈していたが、今になるまで全く気がつかなかった。それは今この一瞬で起きたことかのように降りかかったのだ。クボは思わず、その場に座り込んだ。死神が振り向き、驚いたような表情を浮かべる。

「おい大丈夫か」死神はクボの脇に腕を回し、彼の体を抱え起こすと、近くのベンチまで運んで座らせた。

「何か飲むものを買ってくる」死神はそういうと、顔を上げて周囲を見渡した。駅の中にはコンビニか自販機か、とりあえず何かがあるはずだった。死神は構内へ続く階段を駆け上っていった。クボは目を瞑った。目を開けていると、ひどい頭痛と共に視界が歪んでいく様子が見てとれたからだった。それに、十七時とはいえ、真夏の日差しはまだ強かった。彼は体内を渦巻く動悸と吐き気を抑えるように、じっと目を閉じる。蝉が鳴き始めた。あれ、今まで鳴いてなかったっけ?歪み、揺れる意識の中で、クボにはそれだけが不思議に思われた。

 

 クボが目を覚ますと、二つの顔が彼に影を落としていた。無精髭の生えた四角い方が死神で、もう一つは?死神よりはずっと丸い、小さな顔だ。その小さな顔に開かれた、綺麗な目が彼を覗き込んでいた。

「大丈夫?」女性の声だった。

クボは少し頭を起こし、周りの様子を見た。太陽は随分と傾いたようで、ロータリーはすでに赤い夕日に染まっていた。彼は体を起こそうと力を入れたが、腹筋がまるで働かない。彼は力なくまた倒れ込んだ。後頭部をベンチにぶつけ、滲むように鈍痛が広がる。彼はその鈍い痛みの中で、先ほどまで感じていた、刺すような痛みはすでに消えていることに気が付く。クボが後頭部へ手を伸ばすと、体から何かが落ちていった。それは地面に落ち、一メートルほど転がっては止まった。クボを覗き込んでいた女性が立ち上がり、それを拾いに歩く。彼の体から落ちたのは、ペットボトルだった。

「脇の間に挟んで置いたの。熱中症だろうから、体温下げないとね」彼女はそう言うと、ポケットから取り出したハンカチでボトルの水滴を拭った。

「ほら、温くなってるけど、これ飲んで」彼女がそのボトルをクボに持たせる。

「ありがとうございます」クボはそう礼を言ったが、喉が酷く乾燥しているようで、その声はほとんど吐息と変わらなかった。彼は受け取ったボトルを傾け、一気に半分ほどを飲み干した。それは生ぬるい普通のスポーツ飲料だったが、脱水のせいか、とても美味しかった。

「どうだ、もうだいぶ良くなったか」クボの背後に立った死神はそう言い、彼の顔を覗き込む。

「あー。多分、もう結構大丈夫です。吐き気も治ったし、めまいも多分しないですし」クボは頬を伝う汗を拭きながら、そう言った。

「そう、なら良かった」女性が少し目を細めたように見えた。彼女は手に持ったままのハンカチで自身を扇いでいたが、クボが彼の着たシャツの裾で汗を拭っているのを見ると、そのハンカチをクボの額に当てた。クボはどのようにしたら良いか分からず、されるがまま、ただその場に座っていた。

「おい、何か言えよ。汗拭いてもらってるんだぜ」死神が僕に言った。「なんかこうさ、お礼を言うなり、こう言う時はとにかく何か言うんだよ」

死神はそう言ったが、クボは使うべき言葉を選びかねている様子だった。いや、そもそも、彼はこう言った場合に使う言葉を知らなかった。

「名前を聞いても?」死神が言った。クボにではなく、女性に。

彼女は開けていた白いシャツのボタンを一つ閉め、死神の方を見たが、すぐにその視線はクボへと移された。こいつは何を言っているのか、とでも言いたげな表情だったが、死神は怯まずに続けた。

「飲み物や諸々のお礼をしたいのですが」死神はこれまでの乱暴な言葉遣いから打って変わった、酷く丁寧な口調でそう述べた。

「どうでしょう。確か今夜は夜祭です。かき氷でも何でも、お礼に何かいかがですか?」

死神はそう言うと、続けて女性に何かを耳打ちした。これまで警戒心を露わにしていた彼女だったが、死神が耳元で何かを囁くと、大きく吹き出した。

「はは!君、結構面白いね」彼女は文字通り腹を抱えながら、とめどない笑いの中で苦しそうに言った。

「私はヒイロ」ひとしきり笑った後、彼女は呼吸を整えながら、乱れたシャツの裾をズボンに入れ直してそう言った。

「ヒイロさん」少し嫌悪感を覚えるほどにゆっくりと、死神が復唱した。

「君の名前は何て言うの?」ヒイロはクボにそう聞いた。

「クボ、です」彼はベンチから立ち上がり、彼もまた乱れた服装を整えながら言った。立ってみると、ヒイロの身長はクボとほとんど変わらなかった。

「クボくん」ヒイロは呟くように復唱し、クボの頭から爪先まで、一通り観察した。

「では」わざとらしい咳払いの後に、死神が告げる。「行きましょうか」


 ロータリーに設置された時計の針は、十八時を示していた。きっかり一時間ほど、クボは横になっていたらしい。歩くたびに彼の頭は少し痛んだが、意識せずにいれば忘れられる程度のものだった。甲高い声に振り向くと、浴衣を着た幼い女の子たちが、彼の横を駆け抜けていった。そしてその後ろを、彼女らの父親らしき男性が走って追いかける。いつの間にか、彼らは人混みへと合流していた。駅から流れ出す人混みは群体として楽しげで、警備員の降る誘導棒に操られるかのように夜祭へと向かう。ヒイロも、死神も、楽しそうに彼の前を歩いていた。

「この街にこんなに人がいたんだ」ヒイロが感心したように呟く。

「この街だけじゃない。半径二十キロ圏内の人が集まってるんだ」死神がそう言った。ヒイロに話しかけるときの彼の口調は、クボと話すときのそれと違い、荒々しさが少し抜けているようだった。

「だからなんだね。だからこんな馬鹿みたいに……」ヒイロはため息をついて呟く。「馬鹿みたいに人が多い」


「行くのやめよう、お祭り」そう言ったのはヒイロだった。実際に、露店が立ち並ぶ大きな運動公園へ入るために、とても長い行列ができていた。警備員の赤い誘導棒がそこかしこで光り、人々はじりじりと、這うような速さでしか前に進めなかった。死神は残念そうな表情を浮かべたが、この混雑具合ではヒイロがそう言い出すのも無理がなかった。現実的に考えて、これでは公園に入る前に祭りが終わることだってあり得そうだった。

「それにクボくん」ヒイロがクボの方を振り向いた。「君、多分まだしんどいでしょ。顔色悪いし」

クボは頷いた。彼女の言う通り、クボの頭痛は少しずつ酷くなっていた。


 ヒイロの住む木造のアパートはかなり古かった。「涼しい部屋でちょっと休んで行きなよ」彼女はそう言い、クボと死神は彼女の部屋へ上がり込んだ。彼女の口ぶりとその振る舞いから、「そう言う」関係を求めてクボを招いたわけではないことはよく分かった。彼女は完全な善意から、クボを部屋へ案内したのだ。

「飲み物とか買ってくるから、ちょっと待ってて」ヒイロはクボにそう告げ、一人で部屋を出ていった。クボと死神だけが、彼女の部屋に残された。

「XX荘か」死神が、壁面に塗装されていたアパートの名前を呟いた。「今時珍しいよな、何とか荘って」

両膝を抱えながら床に座っているクボとは対照的に、死神は部屋の中のあれこれをいじり回っていた。冷蔵庫に貼られた書類を一枚一枚めくって確認し、机の上に重ねられた封筒の中身を物色した。水道料金にはじまる各種請求書、支払いの督促、引き出しにしまわれていた通帳までのぞいていた。

「おお、ちゃんと記帳してる」死神は通帳のページを繰りながら、楽しそうに言った。

「そんなことするの、辞めたほうが良いんじゃないでしょうか」クボは出来るだけ死神の機嫌を損ねないように気をつけながら、そう言った。

「お前だって同じことするさ」死神はクボの提案に耳を貸すことはなく、彼の方を見ることすらせずに覗き続けた。死神は、開けられる扉は全て開け、ヒイロにまつわるありとあらゆる活字を読んだ。文章を読んでいないと時間を潰せない人間は存在するが、彼の真剣さはそれとはまた違った様子だった。彼は枕元に置かれた日記帳らしきものを全て読み通し、プラスチックの衣装ケースを開け、中の衣類を全て引き摺り出した。部屋着に印字された英文を音読し、下着のタグに書かれた素材を読み上げた。

「あの、そろそろ本当に辞めたほうが良いですよ」クボは床に座ったまま、ヒイロの服を凝視する死神に言った。

「あのな。これは別に趣味でも何でもない。俺はこれをする必要があるんだ」死神は心から鬱陶しそうな表情を浮かべ、そう言った。

「何でそんな必要が」

「前にも言っただろ。俺は死神なんだ、お前が作った死神だよ」彼は怒りを押し殺すような口調でそう述べると、ジャンパーの内ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。

「俺はお前の死神だ。お前のためにあれこれ漁ってるんだ。お前は彼女を知る必要があるだろ」彼はそう言ったが、クボには全く意味が理解できなかった。

「そういえば、彼女、何買いに行ったんだろうな」先程までとは正反対の、子供のような口調で死神は言った。

「飲み物ですよ」

「本当にそう思ってるか?」死神は煙草を咥えたまま、クボの隣に腰掛ける。

「他のものも買ってくるかもしれない、そう思ってないか?」

「他のものって何ですか」彼の口元から漂う煙を避けるように顔を遠ざけながら、クボは聞く。

「もっと他の『モノ』だろうよ」死神は心の底から侮辱するような目でクボを見る。

「正直に言えよ。ちょっとは期待してるだろ。夏祭りの夜に女の子の家に呼ばれて、お前は期待してるはずだ。俺にはわかるぜ。だって俺はお前から出てきたんだから」

 彼はクボの体に顔を近づける。彼の四角い顔に盛り上がった高い鼻が、クボの首筋に触れる。クボは反射的に身を捩ったが、彼の鼻はぴったりと付いたまま離れない。

「脈拍も血圧もめちゃくちゃに上がってる」彼はひどく不機嫌そうに、クボの耳元で囁く。

「少し期待している、どころじゃ無いよな。めちゃくちゃに、馬鹿みたいに期待してるよな。お前の書いた小説みたいだもんな。小説の中では隠してるけれど、本当のお前はめちゃくちゃに期待してる。俺には分かるんだ。ずっと前から、お前はこうなってたよな」

クボは目を瞑り、聞こえないふりをする。死神はそんな様子を見て、呆れたようにため息をつく。死神の手が、クボの体に伸びた。顎の下をなぞり、首筋をくすぐる。胸骨を突き、肋骨の一本一本の段差を降りていく。そして、彼は突然、クボのズボンの中へ手を入れた。

「何だよ」クボは驚き、彼の手を払い除けようとする。しかし、彼は思い切り力を入れ、それを拒否する。

「目を逸らすなよ」死神はクボに目一杯顔を近づけ、ほとんど叫ぶような口調で言った。

 死神はクボのズボンの中で何かを掴み、一気にそれを引き摺り出した。


 長い髪の女性。その死体だった。女性の着たスーツは土埃に汚れ、彼女の目は虚ろに開かれていた。死神は立ち上がり、彼女の髪をつかんでいる。彼女の足は宙に浮き、その体が左右に揺れるたび、スーツに付いた砂が地面に落ちた。

「お前が初めて殺したのって、この子だっけ」死神はそういうと、女性の首元から垂れている名札を手に取った。

「そうそう。この子だ。名前はないんだよな。『彼女』だ。記念すべき『彼女』一号だ」彼は思い出話を懐かしむかのように言った。

「そうだよそうだよ。この子は研究所に勤めてたんだよな。地球に隕石が落ちることになって、もう人類はだめだから、主人公とこの子が毒物を作るんだよな。ラストシーンが良いんだよ。主人公とこの子以外はもう眠りについた後で、彼らは星を見にいくんだろ?綺麗な星空の元で、隕石のかけらが降ってくるのを眺めるんだ。それはそれは、夜空に金平糖をこぼしたように綺麗で、二人は仲良くキスをして、ズドン‼」死神は女性の髪から手を離し、彼女は床に落ちる。不自然な角度で曲がった腕が、座るクボの足に触れた。クボは彼が何を話しているのかよく分かっていた。クボが書いてきた小説の中で、初めて「死んだ」ヒロインの話だ。彼はその作品について話しているのだ。

「あれはまだ良かったよな。少なくとも俺はあの小説が好きだった。あれは仕方ないよ。だって隕石が落ちるもんな」死神はクボの前にしゃがみ込んだ。「でもよ、死んだのはこの子だけじゃないぜ」

 彼はもう一度、クボのズボンに手を入れる。

「まだまだいるよな」彼はまた何かを引き摺り出した。クボは耳を塞いだ。目を瞑った。固く、固く。しかし、彼がどれだけ聴覚や視覚を遮断しようとしても、死神の声は聞こえ続けた。目を瞑っているはずなのに、目の前の景色すらはっきりと見てとれた。次に死神が引き摺り出したのは、薄桃色の患者衣を着た、十代らしき女の子だった。彼女もまた、死体だった。

「この子は可哀想だったよ。物語が始まってすぐ入院することになったよな。持病が悪化したんだっけ。主人公の書く小説を楽しみにしてたのに。病気だけじゃないよな、この子は。所属してた劇団を辞めさせられたんだっけ?可哀想に」死神は心の底から哀れむような視線を彼女に向けた。そして、また地面へ落とす。その後も、何度も繰り返し、彼はクボのズボンの中から死体を引き摺り出し、哀れみ、落とした。何人も、何人も。出す、哀れむ、落とす。出す、哀れむ、落とす。出す、哀れむ、落とす。クボは耳を塞ぎ続けた。目を瞑り続けた。けれど死神の哀れみは終わらなかった。少女達は一人、また一人と引き摺り出され、積み上げられて行った。

「この子はもっと酷いな。体が半分しかない。名前は何だっけ」彼はそういうと、こめかみに指先を当て、大袈裟に歩き回りながら、手にした死体の名前を思い出そうとした。彼が歩くたびに、彼が機敏なターンをするたびに、腰から下のない彼女の体から血が飛びだした。クボは彼女の血を浴びながら、ただ耳を塞ぐ。

「思い出した‼七沢だ‼」死神は叫んだ。「七沢‼そうだ七沢さんだ‼可哀想な七沢さん。音楽を作ってたよな、彼女は。主人公と文通をしてたんだ。本当に可哀想だ。だって、半分しか残ってないんだぜ。お前のせいなのは分かるよな。お前が途中で書くのを辞めたからだ」

「もう辞めろ‼」クボは俯いたままそう叫ぶ。「お願いだから‼」

「いいや、やめるわけないだろ。別に俺はお前を責めてるわけじゃないんだ。分かるだろ?途中で書くのをやめることは犯罪じゃない。でもお前の作ったプロットにはちゃんとラストがあるよな。言ってみろよ、この子に何が起こるかを」死神はクボの眼前で喚く。

「辞めてくれ‼」クボは叫ぶ。

「お前は、この子を、爆死させようとしてたよな。広い実家でガス栓を捻って。家のキッチンごと吹き飛ばす予定だったよな‼『七沢さんは、失敗のない確実な方法を選んだ。それはとても、彼女らしかったと言える』とか何とか書こうとしてたよな‼何でだよ。何で彼女をそっとしておかなかったんだよ。ギターを握らせたままで良いじゃないか。彼女は歌い続け、主人公はラジオから彼女の歌声を聞けば良いだろ。何でなんだよ」

「なんでこんな。なんでこんなこと……」クボは呟くように言った。

「何回言わせるんだよ‼俺はお前が作った死神なんだよ‼」死神は叫ぶ。

「そうだよ、何でなんだ?何でおれは死神なんだ?」彼は立ち止まり、壁を見つめながらそう言った。神に問いかけるかのように、ゆっくりと、優しく。

「もっと他の男でも良いはずだ。寮の上級生とか、叔父とか、バイトの同僚とかさ。そういう現実的な男でも良かったはずなのに、こんな変な無精髭を伸ばし、汚い革のジャンパーを着せて、触りたくないのに死んだ人間をベタベタ掴ませて‼何でおれを死神にしたんだ……?」彼はクボの隣に座り、身を寄せる。

「彼女達だってそうだよ。もっと他の女の子でも良かったはずなんだ」彼はその四角い顔を、クボの肩に乗せる。

「これが最後。この子は主人公に撃たれて死んだ。五十口径の重機関銃だったから、破片しか残ってないな。プラスチックの薄い破片だ。彼女はアンドロイドだったっけ。お前に取ってのアンドロイドって、このポテトチップスみたいなプラスチックのことなのか?そんなの、あんまりじゃないか」死神はクボの腕に顔を埋める。「あんまりだよ……」

彼がプラスチック片を投げる。床には何十体もの死体がうず高く積み上げられていた。


「もうすぐヒイロが帰ってくる」死神がそう言った。クボは何も言わず、ただ座っている。死神はふらつきながら立ち上がり、キッチンへと向かう。蛇口をひねり、冷たい水を手で掬って飲むと、シンク下の扉を開いた。数本並んだ包丁の中から一番細いものを手に取り、床に座ったままのクボの元へ戻る。彼はもう一度クボの隣に座り、煙草に火を付ける。彼が深く息を吸うと、チリチリと音を立てて煙草が燃えた。彼は数回煙を吐き、火がついたままのそれを指で弾いて飛ばした。

「燃えるよ」クボは力無い声でそう言った。

「お前そう言うの好きだろ」死神が言った。

「ヒイロのことも好きだろ。お前の小説に出てくるヒロインそっくりだ。背が同じくらいで、少し年上で、目が綺麗で、肩の少し上で髪を切りそろえて、お前のことを『君』だとか『クボくん』だとか、そう言う呼び方をする。お前の書くヒロインそっくりだよ」彼はそう言いながら、手に持った包丁の柄でクボの頭を小突いた。

「俺がなんでこの家の全てに目を通したか分かるか?」彼はそう聞いたが、クボは何も答えなかった。

「ヒイロのことを知るためだよ。あれほどお前の小説みたいな女の子は中々いない」

「彼女のことを知ってどうする」クボは呟くように聞いた。

「お前がいつもしてることを、彼女にもするんだよ。もうすぐ彼女はここへ戻ってくる。ほら、よく聞け。彼女の足音が聞こえる。今は正面の駐車場にいるな。砂利の音がするだろ。そして……今は階段だ。軋む金属の音が聞こえる」

死神がそう話す間、クボは首を振り続けていた。

「やめてくれ……やめてくれ……やめてくれ……」

彼の願いが叶うはずはなかった。ヒイロは一歩ずつ階段を昇り、ゆっくりと廊下を歩いた。そして、ポケットから鍵を取り出し、それを鍵穴に差し込む。鍵の形に合わせてピンが押し上げられ、小さな金属音とともに鍵は回された。扉が開く。重く冷たい金属の扉の隙間から街灯の光が差し込み、散らかった床を照らす。

「ただいま」暗い部屋に向かって、ヒイロが声をかけた。「クボくん?」

彼女は無邪気な声でクボの名を呼んだ。

「やめてくれ……こっちへ来ないでくれ……僕を見ないでくれ……」クボは溢すように呟く。

「諦めろ。今に全部、光の中に引き摺り出される」死神がクボの耳元で囁く。彼の言う通りだった。ヒイロが部屋へ足を踏み入れた瞬間、全てが明るく照らされた。ほんの一瞬の間、床に座り込むクボの姿も、積み上げられた「少女達」の死体も、死神が握った包丁も、全てが照らされた。ヒイロは口を開いたまま、部屋の様子を見つめていた。数瞬の空白があり、彼女はそこで起きていることの一端を理解した。彼女が手にしているビニール袋を落としたとき、部屋はすでに暗くなっていた。同時に、窓の向こうから、空気の震えがやってくる。部屋にある全てのものが揺らされる。一瞬の光と、遅れて訪れる振動。それは花火だった。

 次々と花火は打ち上げられた。部屋は何度も明るくなり、そして暗くなった。ヒイロは後退りし、扉に手をかけて外へ出ようとする。死神がにわかに立ち上がり、彼女の髪を掴んだ。彼女は声にもならないような悲鳴をあげたが、死神はそのまま彼女を床へと引き倒す。倒れ込んだ彼女の二の腕を掴み、死神は彼女を部屋の中へと引きずり戻す。彼女は叫び声とも雄叫びとも取れるような声を漏らしながら、手足をばたつかせる。必死に立とうとしているのだ。彼女はどうにか立ち上がる。空中を泳ぐようにして部屋を出ようとしたが、死神が頭を掴み、彼女をもう一度引き倒す。骨と床がぶつかる音がした。彼女は荒い呼吸を繰り返しながら、力なく手を動かす。床に置かれていた辞書とぶつかり、彼女の手の方が弾かれた。

「よく見て、よく聴けよ」死神はうつ伏せに倒れる彼女の上に跨り、クボを見てそう言った。

「今日の夕方、駅前のロータリーで、俺はヒイロになんて言ったと思う?『僕の書いている小説のヒロインにそっくりなんです』って言ったんだ」

打ち上げ続けられる花火によって、部屋は何度も明滅を繰り返していた。

 彼は包丁の刃をヒイロの首筋に当てる。

「やめてください、やめてください、ごめんなさい、ごめんなさい」ヒイロが懇願するように叫ぶ。ごめんなさい?なぜ?クボはそう思った。彼女は何を謝っているのだろう。彼女は何のために、今ここにいるのだろう。クボはその両手で耳を強く塞ぐ。目を強く瞑る。けれど、まるで意味がなかった。どれだけ見えないふりをしていても、クボにはありありとした実感が伝わっていた。彼自身の手でヒイロの首を掴んでいるかのようだった。彼女の首はとても柔らかかった。始め、刃はとても簡単に入っていった。彼女は痙攣を始めた。釣り上げた魚を掴んだ時のような、手の中に感じる筋肉の痙攣。そして、やがて伝わる骨の硬さ。クボには、ヒイロの体から何かが抜けていくのが分かった。何かが溢れ、何かが滴り落ちた。暖かくて、生臭い何かが。


「起きろ」死神が呟き、クボの肩を揺さぶった。

 彼はヒイロの体を持ち上げ、クボの腕の中へ包ませる。赤ん坊を抱き上げた助産師が、産声をあげるその小さな命を母親の元へ返すように。クボは彼女の体をかかえ、ベッドへと下ろした。彼女はまるで眠っているようで、先程までの筋肉の硬直が嘘みたいだった。そして、その頃にはもうすでに、花火は終わっていた。


 「何でヒイロは死んだんだ」死神が呟いた。それはクボに問いかけられた疑問ではなかった。

「何でなんだ?ただただ可哀想なだけじゃないか。それに、ただただむごたらしいだけじゃないか。これがお前の好きなことなのか?」死神は続ける。

「何でこの家に来ようとしたんだよ。一緒に夜祭を回って、それで終わりで良いじゃないか。昔のお前は、それで良かったじゃないか。何でヒイロは死ななければならなかったんだ?まるで意味がないじゃないか。お前は救いがない話が好きなんだろ?お前は救いの何を知っている?救いのない世界の何を知っている?こんなこと、間違っていると思うんだ。だって……彼女達は何のために?誰のために?」

「『自分によって、自分に向けられた、耐え難いほどの殺意』だったっけ。作家になりたかったお前はそう言っていたよな。本当は誰に向けていたんだ?殺意なんて、初めは感じていなかったのに。ただ甘いため息をついて、憧れていただけなのに。いつからこんなことになった?」

 クボはただ耳を塞ぎ、目を瞑ったまま、座り続けていた。いつもこうしていたし、これからだってそうするつもりだった。死神は彼の目の前にしゃがみ、耳を塞いでいる彼の手を掴む。死神の太い指が、彼の手を頭から外して行く。ゆっくりと、優しく。


 「窓辺に行こう。そして花火を見よう」死神はそう呟き、クボの手を引く。

「花火はもう終わったんだ」クボは俯いたまま呟く。

「また上がるんだよ」死神は話す。


 この部屋にはもうお前しかいない。お前が望めば、俺は今すぐここから消える。お前さえ望めば、もう一度夜祭へ行くことだってできる。もう一度列に並んで、やり直すことだって。ここに居たい?ならそれでもいいさ。この部屋から花火を見ればいい。遠くの空で破裂するその火を見るんだ。夜空の隅まで広がる明かりを。ビルの影に隠れていたって見える。目を瞑っていたって見える。そして、ガラス窓を揺らすその震えを感じるんだ。しっかりと手のひらを添えて、ずっと遠くで起きている爆発に触れるんだ。お前が望むなら、彼女と手を繋いだら良い。さぁ、彼女の元へ戻ろう。ベッドで横になり、小さな寝息を立てている彼女の肩を揺らそう。そうすれば、彼女はきっと目を覚ます。薄く開いたあの澄んだ目でお前を見て、慌てて体を起こすだろう。焦った様子で前髪を整え、枕に涎がこぼれていないかを確認する。そんな彼女の様子を見て、お前は小さく笑えば良いんだ。笑うお前に気付いて、彼女は少しだけ怒るだろう。それでいいんだ。彼女の手を取って、優しくこちらへ引けば良い。二人でガラス窓に向き合え。そうして、彼女の目を見るんだ。何度も屈折し、そして反射した光が照らす彼女の目を。名前のない、ひどく不確かな輪郭の彼女を見ろ。それだけがお前に出来ることなんだ。


お前は初めから、そうするべきだったんだ。

ビルの影に隠れた花火。

それだけを思い続けるべきなんだ。

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少女達 福津 憂 @elmazz

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