第4話 愛梨ワールド

     ◆


 気のない様子で同人誌を投げ出して、愛梨ちゃんが首を傾げる。

「それで、彩夢ちゃんとはどうなったの?」

 まだ高校生の蛭田愛梨というこの少女は、チャンチャンが僕のところへ連れてきた。

 そもそもチャンチャンと同じアイドル志望で、愛梨ちゃんとは幼馴染らしい。

 第一にチャンチャンと僕がそこまで親しくなるのに、大きな関門がいくつかあり、例えばライブの後の握手会に毎回行くとか、そういうこちらからの動きもあれば、もっと意外な、偶然に街で遭遇する、ということもあったわけだけど、何はともあれ、僕とチャンチャンは、アイドルとファン、という段階を通過した。

 通過したけど、ちょっと気の合う友達、という感じだ。

 愛梨ちゃんがここにいるのは、チャンチャンが僕から借りていった小説を返しに来たのに、忘れた! と一度、家に戻ったからだ。

 偏差値ゼロなどと言っている割にちゃんと小説を読むあたりは、心憎い設定だ。

 結局、愛梨ちゃんは人質となったわけだけど、僕のようななんでもない男の一人暮らしのワンルームで、一人きりで、少しも警戒せずに伸び伸びとしているのは、なかなかできることではない。

 僕が猛獣になれば、どうなるやら。

 いや、ならないけど。

 断じてならないけど。

「ねえ、彩夢ちゃんとはどうなったんですか?」

 そう確認されて、「どうもならないよ」と僕は答えた。

「どうもならないって、案外、奥手ですね」

 案外、というあたりに、僕が侮られている様子もあるけど、実際、僕は奥手である。草食系というより、臆病と言ってもいいかもしれない。

「私だったら、もっと大胆にやっちゃいますよ」

 突然、愛梨ちゃんがキャラ崩壊するようなことを言い出したので、そちらを見ないようにしてコーヒーを啜っていた僕は、危うくそれを吐き出しそうになった。

 自分の手元にあるジュースの入ったグラスを揺らしながら、愛梨ちゃんはニコニコと僕を見ていた。

「私、よく大胆って言われますから」

「へ、へぇ」

 悪くない、と思うことは、ちょっと違うだろう。それに相手は高校生で、何よりチャンチャンの仲良しの幼馴染だ。

 僕にはチャンチャンという相手が設定されているわけで、ここで愛梨ちゃんに揺れ動いている場合ではない。

 断じて。

「そういうことは、その……、学校の友達に言うように」

 僕がかろうじて崩れるのを免れた理性でそういうと、愛梨ちゃんはちょっと強気な笑みに変わった。

「学校の友達もいいですけど、やっぱり、年上が好きかな」

 なんなんだ、この子は。

 最初からグイグイ来るし、ちょっと押しが強すぎないか。すでに僕が土俵際に詰まっているようなものだ。あと一歩、いや、半歩でも交代すると押し切られて僕が負けそうだった。

「そういうからかいも、なしで」

 あらん限りの自制心で静止しょうとするが、座っていた愛梨ちゃんの年齢の割に長く細い足が滑り、膝をついてこちらににじり寄ってくる。

 僕は座った姿勢で、ゆっくりと後ろへ移動した。その僕が座っていたクッションが横にずれ、次には愛梨ちゃんの手がそれに乗る。そしてそっと横へ退ける。まだ下がる僕の背中に積み重ねていた文庫本が当たり、崩れる。

 それさえも愛梨ちゃんはそっと横へ退ける。

 ついに背中が壁に当たる。

 逃げられない。

 目の前に愛梨ちゃんがいる。今は長い髪の毛をひとつに結んでいるので、変に首筋が色っぽい。本当にこれで高校生か? いやいや、別に僕は女性について一家言あるわけではなく、それ以前に何も知らないのだけど、とにかく、愛梨ちゃんは色っぽい。

 逃げ場を失った僕の前で、愛梨ちゃんの顔が近づいてくる。

「どうですか、ドキドキしますか?」

 ま、参った。

「するけど、これはいけないことではないかと……、愚考しますが」

「グコウ?」

 きょとんとしている愛梨ちゃんはどうやら愚行がわからないらしい。

 そんなところは、偏差値ゼロのチャンチャンに近いかもしれなかった。

「ま、いいかぁ」

 愛梨ちゃんは言葉の意味、僕の主張を理解する問題は脇に置いたようだった。

 ずいっと顔が近づいてくる。

 だ、ダメだ……。

 最後の一線を保持し続けるのを諦めた時、音を立てて玄関の扉が開いた。

「ただいまー!」

 チャンチャンの声がする。

 ちょっと愛梨ちゃんが顔をしかめて、すっと姿勢を元に戻して、座っている位置も元の場所へ戻った。素早くクッションの位置も整えている。僕は慌てて、倒れていた文庫の山を元通りに積み直した。

 チャンチャンの姿が現れた。不思議そうに首を傾げ、「どうしたの?」とこちらを見ているチャンチャンに、愛梨ちゃんは嬉しそうに笑いながら「なんでもないよ」と応じている。

 こういうところも、侮れないところだな。

 愛梨ちゃんにはちょっと、気をつけよう。

 大胆で、危うくて、うーん、妖しげだ。

 チャンチャンから貸していた本を受け取り、僕は目の前で二人の女の子がケラケラと話しているところを、チラチラと見ていた。

 こうして離れて見ているとチャンチャンも愛梨ちゃんも、どこか似たところがあるけど、やっぱりどこか違う。そういう個性がそれぞれの魅力なんだろう。

 でも僕は、チャンチャンを選ぶ、はずだ。

 愛梨ちゃんも、魅力的だけど。とんでもなく。

 でもでも、まだ子どもだ。僕と数歳しか違わなくても。それを言ったらチャンチャンもか。

 そう思った瞬間、愛梨ちゃんがこちらに流し目を送った。

 ドキリとして、思わず僕は顔を俯かせてしまった。

 やっぱり、この子は底知れない。

 僕の視界の外で、二人の女の子は声を上げて笑った。



(続く)

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