第十六章「マラソン 前編」

研修二日目の朝6時。

前日の疲労を残しつつもなんとか起床した僕たちは、軽い掃除の後に座学を受け、朝食を摂ると駐車場へと集められた。


時刻はまだ8時頃。

この合宿自体に良い思い出は一ミリもないが、朝に吸う山中の空気だけは美味しかった。


「えー、それじゃあ今から、お前たちにはチームごとに分かれてマラソンをしてもらう」


突然外に集められて何をやらされるのかと思えばマラソンか。

昨日の“自己否定”に比べればなんでもマシだろ。


なんて気楽に考えていたが、それがどれだけ甘いかを、次の講師の言葉で思い知る。


「距離としては48キロ……まぁ大体フルマラソンだな。1位以外に意味はねぇから本気で走れよ」


……はぁ?


当時その距離を聞いた同期は、全員「正気か?」と思いながら困惑か苦笑いを浮かべていただろう。


高校の頃……まだバリバリ運動部だった頃は毎日10km走っていたものの、その時ですらフルマラソンに挑戦したことはない。


実際1からフルマラソンを走るぞ! ってなったら事前に長距離を走る訓練をするものだ。まともに運動していなかった人間がぶっつけ本番で走るもんじゃない。


だが、フルマラソン自体に抗議する同期は誰一人いなかった。

こいつに何か言ったところで無駄だろうと思っていたし、何よりも走ってる間はこの講師からは離れられる……というメリットがあった。


僕たちはコースの記された地図と、途中で昼飯を買う関係上所持を許された財布を持って、スタートラインに並ぶ。軽いストレッチを終えて走り出せば、心地よい風を感じた。


土地勘が全く無いので地図を慎重に見ながら進んでいき、森の中へと入っていく。

走り始めて数十分ほどで、既にチームごとに距離が開いていた。最初から飛ばすチーム、ほどほどのペースで行くチーム、様子見としてゆっくり行くチーム。


僕たちのチームは、比較的ゆっくり走ることにした。

ペース配分がわからない以上、最初からトバすのは危険すぎる。


走り始めてしばらくの間は、ハッキリ言ってこの合宿で唯一楽しい時間だった。

まだ雑談しながら走る余裕もあったので、周囲の景色を楽しみつつも親睦を深めていった。


しかし、走り出してから1時間半ほど経つと、その余裕もなくなってきた。

体力的な問題ではなく、純粋に足……正確には足裏へのダメージがキツくなってきた。

平らな道ならともかく、傾斜のある山道を長時間、それも普段走りなれてない人間が走れば、まず足裏がダメになる。靴ずれも出来て、走る度に痛みが走る。


マラソン前に走る訓練をするのは、体力づくりは勿論、足裏への負担が少ない“正しいフォーム”を習得するためでもあるのだ。


それでも、弱音を吐いたところで距離が短くなるわけじゃない。

表面上は平気なフリをして、僕より体力がなさそうなWや、

唯一の女子であるFさんを気遣いつつ、僕は走り続けた。


13、14時頃。騙し騙し走り続け、なんとか中継時点のコンビニへと辿り着く。

中継地点では30分のクールタイムが許され、皆コンビニでお昼を取ることになっていた。

疲労と痛みで食欲は全くなかったが、ここで食わなきゃ空腹で倒れるな……と無理やりおにぎりを詰め込んだ。


少しでも足の痛みを和らげるべく、飯を詰め込んだ僕は地べたに座り込み、靴を抜いだ。見なくても想像できていたが、足裏は皮がズル剥けで血だらけになっていた。指の間まで皮が剥けて、少し触れるだけでも痛みが走る。

コンビニで買った氷を足裏に当てて目を瞑る。


正直限界だと思った。ここがおそらく20キロぐらいの地点。残りの距離的に、耐えられる自信はなかった。


休憩空けても痛みが引かなかったら、辞退を申請しよう。

この痛みは根性でどうこうなる問題でもないし、足手まといの僕が居たんじゃチーム全体の順位も下がる。1位にしか意味がないというのなら、僕を切り捨てるのもまた戦略の筈だ。


十数分後。足を引きずって待機していた講師に寄ると、僕は辞退を申し出た。順位のことを考えても、僕以外でゴールした方がいいと。


だが講師は、僕に傷口を見せろと要求し、血だらけになった足裏を見てなんでもないように告げた。


「なんだ、なら余裕だろ。リタイアは認められん」


「……本気ですか?」


今まで従順な態度を取ってきたが、少しだけ反抗的になってしまう。

講師は険を含む僕に対し、

「ここでは俺の判断が絶対だ。反論は受け付けない」とキッパリ会話を打ち切った。


僕は自身の無力感に苛まれた。

ほんとは掴みかかってぶん殴ってやりたかった。

でも今のヘトヘトな僕では、掴みかかる前に倒れてしまいそうだ。

反抗すれば、この講師は容赦なく僕に暴力をふるうだろう。


ここでは常識や法律は通用しない。


僕は仲間のもとに戻ると、

「やっぱりもうちょっと頑張ってみるよ」と、虚勢の笑みで告げた。


血だらけの足を引きずって、マラソンの後半戦が始まった。

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