第4話『おいでシャンプー』
4『おいでシャンプー』
「摩耶です、よろしくね」
その一言で、その人は、うちの同居人になった。
若すぎる…………それが、最初の印象だった。
お父さんは四十六歳。お母さんは……居ないってか、覚えてもいない。わたしが二歳になる直前に交通事故でなくなった。それ以来、お父さんは、男手一つでわたしを育ててくれた。
中学のころは、イッチョマエに反抗期ってのもやってみた。
塾の帰りに友だちと喋って遅くなり、お父さんが心配して迎えに来て、「遅くなるならメールぐらいよこせよ」の一声をシカトして、一晩帰らなかった。ま、その程度には。
「今日から、洗濯物、お父さんとは別にするから」
「あ……ああ、いいよ」
お父さんは平気な感じで言った。でも、その時手にしたスポーツ新聞は上下が逆さまだった。
洗濯物を別にすると言っても、洗濯はわたしの係だ。小学五年の冬から、わたしが、自分で言い出してそうした。
「お父さんも、たいへんだろうから」
というのが表面的な理由だけど、わたしは、なんとなく予感があった。そろそろアレが始まる。アレが始まることは、光子伯母ちゃんが説明してくれていたし、学校でも、女子だけを集めての健康学習でも習っていた。だから、予防線を張って、自分がやるって言った。予想は当たって、アレはお父さんの盆栽の梅がほころぶころにやってきた。でも、あのころは、お父さんのパンツをいっしょに洗うことに抵抗はなかった。
ただ、中学に入ると、友だちが、冷やかされていた。
「え、あんた、まだお父さんのといっしょに洗濯してるの!」
で、わたしは別に洗濯することにしたのだ。
だから、自分のはナンチャッテ反抗期。でも、学校での付き合いなんかでは――わたしも反抗期――と、思えて気が楽。
三十過ぎから、男手一つで子どもを育てることの大変さは、顔にこそ出さなかったけど分かっている。
「新しいお母さんができるわよ」
光子伯母ちゃんから、そう告げられたときは正直ショックだった。
お父さんから直接聞いてもショックなんだろうけど、最初に光子伯母ちゃんから言われたことが寂しかった。
でも、その週末に焼き肉食べながら、お父さんから、改めて言われたときは、わりに平気で聞くことができた。
そして、その日がやってきた。
「摩耶です。よろしくね」
どう見ても若すぎる。おずおずと歳を聞くと。
「三十二。でも、他の人には内緒ね。それと、わたしのこと、無理にお母さんなんて呼ばなくていいからね」
「……じゃ、摩耶さん」
早手回しに摩耶さんが言ってくれて、少しホッとした。
でも、表面はともかく、心の中では、お母さんどころか家族としてもしっくりこない。
摩耶さんも、家の中を自分色に染めるようなことはしなかった。家具や水回りの配置など、そのままにしてくれていた。
摩耶さんがやってきて初めて三人で買い物を兼ねて食事に出かけた。買い物を終えて駐車場に戻ったところで、クラスメートのノンカに出会った。
「おーい、真由!」
ノンカは親友なんだけど、気配りがない。こういう無防備な状況で声かけるか……。
「あら、真由のオトモダチ?」
「あ……親友のノンカ」
「あ、榊原紀香です、真由の親友やらせてもらってます……」
ノンカは、キョウミシンシンむき出しの顔で、わたしたちを見た。
「妹が、お世話に……わたし真由の姉の摩耶。姉妹っても腹違いなんだけどね」
「お、おい、摩耶」
お父さんも、さすがにビックリ。ノンカは目を丸くした。
「ハハ、うっそピョン(^_^;)。ほんとは新しいお母さんなの。なりたてのホヤホヤ、ほら、ノンカちゃん、こっちから見て、湯気がたってるでしょ!」
「ほんとだ……!」
「まさか……」
わたしも、ノンカと並んでみた。
「……なーんだ、カゲロウがたってるだけじゃん」
「ハハ、ばれたか」
摩耶さんは、そんな風に、自然に、わたしたちの中に溶け込んできた。
ある日、摩耶さんはお風呂椅子を買ってきた。
「ジャーン、カワユイでしょ!」
それは、ほのかなピンク色で、ハートのカタチをしていた。
「ええ、それに座ってシャンプ-とかすんのかよ!?」
お父さんがタマゲタ。
「これは、女子専用。お父さんは、今までのヒノキのを使ってください」
わたしは、摩耶さんが来てから、お風呂椅子は使っていなかった。それまでは、お父さんと共用のヒノキのを平気で使っていたけど。わたしは摩耶さんのお尻が乗っかったお風呂椅子に自分のお尻を乗せる気にはならなかった。別に摩耶さんのことが生理的に受け付けないということではなかった。
お父さん × 摩耶さん × わたし=あり得ない……になってしまう。
お父さんと摩耶さんは夫婦なのだから、だから、当然男女の関係にある。で、同じお風呂椅子にお尻を乗っけることができない。わたしは、摩耶さんが来てから、お風呂マットの上に座ってシャンプ-とかしていた。
摩耶さんは、どうやら、それに気づいていたらしい。
わたしはグズなので、お風呂は一番最後になることが多い。その晩、お風呂に入ると、ハートのお風呂椅子に使った形跡がない。まあ、買ってすぐなんで、摩耶さん忘れたのかと思った。
でも、明くる日も、その明くる日も使った形跡がなく、なんだか、わたし専用のようになってしまった。
その数週間後、わたしは恋をしていた。むろん片思い。彼は二か月前、転校してきて、わたしが所属する軽音に入ってきた。バンドが違うので、話をすることなんかなかった。そいつは敬一っていうんだけど、すぐに、みんなからケイとよばれるようになった。
「あ、ごめんケイ」
新曲のスコアを取りに部室に入ったら、練習の終わったケイが上半身裸で汗を拭いているところだった。
「男の裸なんか気にすんなよ」
制服に着替えて、ケイは爽やかな笑顔で部室から出てきた。ケイはな~んも気にせず、白い歯を見せて笑って、下足室の方へ行く。後にはメンズローションと男の香りが残った。
――なんだ、あの爽やかさは――
これが始まりだった。そのケイに、こともあろうにノンカが想いを寄せてしまった。
「わたし、ケイのこと好きだ!」
堂々と、わたしに言った。
「真由も好きでしょ?」
「いや、わたしは……」
「ホレホレ、顔に、ちゃんと書いてある。ね、お互い親友だけど、これはガチ勝負しようね!」
で、グズグズしているうちに勝負に負けた。今日ノンカが校門でケイと待ち合わせして帰るところを見てしまった。
「どうかした?」
家に帰ると、摩耶さんが、ハンバーグをこねながら聞いてきた。
「い、いや、なんでも……」
「そう……じゃ、使って悪い。シャンプーの中味詰め替えといてくれないかなあ。紫のがわたしの、イエロ-が真由ちゃん用。わたし、こんな手だから。お願い」
摩耶さんは、ハンバーグをこね回して、ギトギトになった手を見せて、笑った。一瞬魔女だと思った。
「アチャー……」
オッサンのような声をあげてしまった。
シャンプーをしようとお湯で髪を流し、手を伸ばした定位置にシャンプ-が無かった。
詰め替えたときにボンヤリしていたんだろう。わたしってば、自分のシャンプーを高い方の棚に置いてしまった。
立ち上がれば、直ぐに手が届くんだけど、ハート形のお風呂椅子はプラスチック。立ち上がって座り直せば、冷やっこくなる。そんなものほんの一瞬のことだ……そう思っても、今日の失恋で心にヒビが入っている。こんなことでもオックウになる。
で、そのシャンプーを見上げた一瞬にお湯が目に入り目をつぶってしまった。
――おいで、シャンプー!――
理不尽なことを思った。
「あ……」
目を開けると、自分のシャンプーが目の前の下の棚にある。
――見間違い?――
まあ、目の前にあるので、深く考えずに使った。で、不覚だった。
「これって、摩耶さんのシャンプー……詰め間違えたんだ」
摩耶さんのシャンプーはナンタラピュアというもので、わたし的には香りがきつい。ほんとに今日はついてない。
「別に詰め間違えてないわよ」
めずらしく、わたしの後にお風呂に入った摩耶さんが、髪を乾かしながら言った。
「え、うそ……」
念のため、風呂場にいって確かめてみたら、たしかに、それぞれのシャンプーが入って、定位置に置かれていた……しかし、自分の髪から漂う香りは、摩耶さんのナンタラピュアであった。
そして、明くる日、学校で奇跡が起こった。
「真由、シャンプーとか変えた?」
ケイが、理科実験室前の廊下ですれ違いざまに声をかけてきた。
「あ、ちょっとあってね……」
二人の後ろでじゃれ合っていた男子がロッカーを倒してしまった。理科のロッカーなのでかなりの重量がある。
「危ない!」
ケイは、わたしをかばうようにして、廊下を転げた。
気がつくと、二人抱き合って廊下に倒れていた。そして、ケイのクチビルが、わたしのホッペにくっついていた。
「あ……痛あ……」
わたしは足を捻挫していた。ケイが肩を貸してくれて、保健室まで連れていってくれた。
痛かったけど、とても嬉しかった。廊下の向こうの方でノンカが「負けた」という顔をしていた。
「今度倒れるときは、クチビルが重なるといいわね」
その日は、ケイが自転車に乗せて家まで送ってくれた。で、ドアを開けた瞬間摩耶さんから、この言葉が出た。
「え、どうして……」
「あ……学校から電話あったから」
そして数か月後、ケイとわたしは自他共に認めるカップルに。
摩耶さんのことは、やっと言えるようになった。
「お母さん……」
そして、お風呂椅子は、お母さんも使っているよう。シャンプーは、その日次第で中味が違う。でも――おいで、シャンプー――と思うと、思った通りのシャンプーになっている。
ほとんど、このお母さんは、魔女じゃないかと思ってしまう……。
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