第5話 北条の人質
今川館 一色鶴丸
1550年春
この春、今川家にとって大きな話が纏まった。
竜王丸様と北条氏康の娘である早川殿の婚姻が決まったのだ。このようなことになったのにはちゃんとした経緯があった。
義元様の父である氏親様の代より、駿河東部にある河東地域をめぐって北条と戦が起こっていた。
それは今川・北条両家の当主が替わった後も続き、5年前には第二次河東一乱が勃発。義元様はその頃から北条との和睦の道を探っておられたのだが、竜王丸様と早川殿の婚姻の成立という形でようやく終結に舵を切ることが出来たのだ。
「ご婚約、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
家中の者が話していたのを聞いた俺は、算術の稽古を受ける前に竜王丸様にお祝いを申し上げた。
側には竹千代もついていて、一緒に頭を下げる。
竜王丸様は困惑されていて、だがどこか嬉しげであった。
「2人ともありがとう。だが麻呂が北条との繋がりを維持する証となるのは少々荷が重く感じてしまうな」
「そのように気負われずともよろしいのではないでしょうか?それに早川殿も未だ5才と聞いております。どうとでもなりましょう」
俺の言葉に竹千代が首をかしげる。
「随分悟られたことを申されるのですね」
「そのようなことはない。思ったことを申し上げたまでだ。それより竹千代からも何か無いのか?」
「竜王丸様、おめでとうございます」
「それは俺がさっき言っただろう」
俺と竹千代とのやり取りをおかしげに見られていた。そんなこんなをしている内に、今回の婚約話の立役者である雪斎が部屋へと入ってくる。
どこか体調が優れぬようで、顔色が僅かに悪い。
俺達3人からも何度もゆっくり休むように言っているのだが、雪斎は頑なに俺達の師として休むことを選ばない。
記憶が確かであれば、雪斎の死は1555年。つまり5年後である。
ここまで史実通りにことが進んでいる。だからもし記憶違いでなければ、雪斎と過ごす時間も残り僅かであることをなんとなく予感づけた。
「お師匠様、おはようございます」
「うむ。今日もみな揃っておりますな」
「はい。しかし今日も今日とて具合が悪げにございます。お休みになられては如何ですか?体調を崩しては元も子もありませぬ」
珍しく本気で心配して雪斎を気遣ったというのに、雪斎は僅かに口角を上げると、
「儂がおらぬ内に勝手をしようとしているのではありませんかな?」
「・・・そのようなことは」
僅かにでもその心があったために、しかし本気で心配しているのも事実であったから絶対にバレないと思っていたのにまた雪斎に見抜かれる。
一瞬の間を空けたことで、雪斎は苦笑いを漏らして定位置に腰を下ろした。
「今日もいつもと変わらず、各々研鑽に励むのです。儂はお3人を立派に育て上げなければなりませんからな」
「そう言われると思いました」
既に席に着いていた竹千代の隣に俺も腰を下ろす。
竜王丸様も膝掛けのようなものを雪斎に渡してから、いつもの位置へと腰を下ろす。こうしてまたいつもの授業が始まるのだ。
今川館 一色鶴丸
1550年夏
この日、北条家からとある子供が送られてきた。
その者の名は北条助五郎。後の北条氏規である。竜王丸様の婚姻が決まったものの、早川殿は未だ幼い。年でいうのであれば、俺や竹千代の4つ下。竜王丸様から見れば9つ下である。
ちなみに助五郎の1つ下であるため、妹の嫁ぎ先に人質として出されたこととなるのだが、その助五郎の身柄は義元様の御母堂様である寿桂尼様が預かることとなった。まぁ助五郎は寿桂尼様の娘である瑞渓院様の子であるため、血の繋がる孫なのだから当然といえば当然の待遇と言えよう。
「助五郎殿はそこまでであるが、ついてきたあの者らの態度は目に余る」
「鶴丸様までそうお思いですか?」
竹千代の困惑した顔に俺は首を振る。
「思う。他家にきてあのような態度、場合によっては刃傷沙汰になりかねん。だが今川の認識も最早古き時代のものであると思う」
「今川の認識、にございますか」
竹千代が知らぬのは仕方が無い。いっても三河の出身であるからな。
俺も過去の知識が無ければ、今川と北条の因縁めいた部分なんて調べなかっただろう。特にこの身に生まれてからはな。
「色々と短く話すぞ?今川氏親様、つまり先々代今川家当主であったその御方の母は、北条の祖である伊勢宗瑞という男の姉なのだ。その女人の夫であったさらに先代の当主、今川義忠様は戦場で討ち死にされ、その後継者を決める際に揉めた。氏親様は当時幼く、義忠様の従弟であった
「伊勢家が北条へと名を変えたのですか?」
「あぁ、宗瑞の跡をついた子の氏綱が姓を北条としたのだ」
今川からすれば北条は引き続き配下であるという認識であったが、北条はそうでは無かった。そのズレが後々河東での戦の一因であるとも言える。
「北条は対等の同盟。むしろ今の今川があるのは北条のおかげであると思っている節がある。対して今川からすれば、そもそも配下であった北条との同盟ということでおもしろくは思っていない」
「思った以上に両家の因縁は深いようにございますね」
「そうだな。だがいたずらに戦をしなくて済むのであればそれで良いと思うのだがな」
俺の言葉を意外気に竹千代は見てきた。なんとなくそれが不快に思えた。
だが竹千代と同じ事を思っている人物が他にもおられたようで、
「まさかあの乱暴者で、儂の言葉もまともに聞かぬ鶴丸殿にそのような心があったとはな。驚きで声も出ぬ。のう?竹千代殿」
「お師匠様、まったくその通りにございます」
竜王丸様が雪斎を伴って俺達の元へとやって来られた。
「そのいいよう、あまりに鶴丸が可哀想にございます。鶴丸、麻呂はそのような事思っておらぬからな」
「・・・いえ、そのように笑いを堪えられながら言われても嬉しくはありませぬ」
堪え切れぬと竜王丸様は声を上げて笑われた。それにつられるように他の2人も笑う。やはり俺としては不本意だ。
俺のこれまでの言動は、此度の発言となんの因果関係もない。
にも関わらず、ここまで笑われるのか?・・・不本意だ。
だが今の俺はあまりに楽観視していたのかも知れない。両家の深き因縁は、笑い話で済むような状況ではないということに。
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