2.

 朝食を食べ終えると、ずっと部屋で本を読んでいたけど、不意に、

「みんな、お昼だよー!」

と芒の呼ぶ声がドアの向こうから聞こえてきた。時計を見ると、針は十二時過ぎを指していた。もうこんな時間か。


 私は読みかけの本に栞を挟むと、階段を降りリビングへと向かう。


 食卓に着くとテーブルの上には、そうめんが用意されていた。


 夏といったら、そうめんだよね。


 氷でひんやりと冷やされた麺にゴマだれを漬け、つるりとのど奥に流し入れる。すると熱を帯びた体が内側から冷えていく、気持ち良い。


 みんなも同じようにして麺をすすっていると、ふと芒が、

「藤助お兄ちゃん。僕、午後はお出かけするね」

と言い出した。


「出かけるって、どこに?」


「絵を描きに! 宿題で風景画を描かないといけないから河川敷の方に行って描くの」


「河川敷か……。水辺は何かと危ないからなあ。できれば俺も一緒に行きたいけど、でも、これからバイトだし……。

 それって今日じゃないとダメなの?」


「今日じゃなくてもいいけど、でも、早く終わらせたいから……」


「うん、そしたら別な日にしよう。やっぱり一人は危ないからさ」


 せっかくやる気だったのに、出鼻をくじかれた芒はしゅんと小さくなる。


 そのやり取りを傍から眺めていた私は一拍の間を空けてから、

「バイトって、藤助兄さんがですか?」

と訊ねる。


「あれ。そっか、牡丹に言ってなかったっけ。『指月院』って家の近所の喫茶店なんだけど、長期休暇の間だけ、いつも働かせてもらってるんだ。

 牡丹にも店の連絡先を教えておくよ」


 そう言うと藤助兄さんは、財布の中からお店の名刺を出してくれた。


「何かあったら、ここに連絡して……って、夕方には帰って来てるとは思うけどね」


「分かりました。あの、藤助兄さん。それなら私が芒の付き添いをしましょうか?」


「えっ……。いいの?」


「はい。今日は一日、本を読むつもりでしたから。本ならどこでも読めるので、芒を見ていられますし」


 という流れで話もまとまって、昼食を終えて支度を整えると、私は芒の手を取り河川敷へと向かう。


 歩くこと数十分――。


 河川敷に到着すると、芒は早速、草原一面に絵描き道具を広げ出した。


 その様子を遠目に眺めながら私は一人木陰に移動し、近くのベンチへと腰を下ろす。


 木々の緑を視界いっぱいに取り込みながら、はあと一つ、熱を帯びた息を吐き出した。肌からは薄らと汗の玉がじわりと浮き上がり、やがて静かに流れ落ちる。


 あー、暑い。やっぱり夏はあまり好きじゃない。


 汗ばかりかいて体がベタベタになって気持ち悪いし、蝉の鳴き声はうるさいし。それに、それに。


 なんだか余計なことばかり考えてしまいそうになる――。


 なんて。私は首を軽く左右に振ると、持って来た本をぱらりと開く。


 一ページ、また一ページとめくっていくけど、よそよそと流れる風が心地良く、汗ばんだ肌へ優しくしみ込んでいく。


 気付けば――……。


「……ちゃん……、牡丹お姉ちゃんってば!」


「う……ん……。あれ、私……。

 ふわあ、いつの間に寝ちゃったんだろう……」


「お姉ちゃん、そろそろ帰ろう」


「帰ろうって、絵は描き終わったの?」


 芒はこくんと大きくうなずくと、完成した絵を掲げて見せる。


 そんな弟からすっと視線を天に向けると、空は薄紫色に橙を塗り重ねた色をしていた。


 結局、居眠りしちゃって、ろくに本を読み進められなかった。あーあ、本当は今日で読み終えるつもりだったのに……。


 私は己を反省しながら来た時みたいに芒と手を繋いで帰路を歩く。予定がくるっちゃった。やっぱり夏は好きじゃない。


 家の前に着くと芒は私より一足先に、とたとたと足早に玄関の戸を開けその隙間をくぐって行った。


「ただいまー」


 芒がリビングの扉を開けてそう言うと、いつも通り藤助兄さんがキッチンから出て来た。


「二人とも、おかえり。芒、絵は描けたの?」


「うん、描き終わったよ」


「そっか、良かったね。

 あっ、そうだ。牡丹、友達が来てるよ」


「友達ですか?」


 誰だろう、美竹かな。それとも紅葉ちゃん? でも、約束なんてしてなかったよね。


 首を傾げながらも芒に続き、一歩、足をリビングへと踏み入れる。


 だけど――。


 刹那、私の手の内から、ばさりと本が滑り落ちる。ほんの一瞬だけど全神経が停止した。


 どくん、どくんと鼓動は自然と速まり。その音ばかりがはっきりと、脳内へと響き渡っていく。


 そんな私には気付かず、藤助兄さんは、「帰って来たよ」とソファーに座り込んでいた人物に声をかける。するとその影はゆっくりと立ち上がって、漆黒色の短い髪の毛を揺らした。


「どうして……?」


 吐き出したい言葉はのど奥でもだえ、声に出されることは決してない。生唾を飲み込んでみるけど、それはなんの慰めにもならない。


 他に術が思いつかず、私は力任せにぎゅっと拳を強く握り締める。


 一方、ソファーから立ち上がった青年は――引き締まった顔に、ちょこんと左の目元にある泣き黒子が特徴的な彼は、私の震えている拳へと視線を向けていたけど、ふっと面を上げた。


 真っ直ぐに私の瞳を見つめながら……、いや、にらみつけるように、ゆっくりと口角を上げていく。


「……久し振りだな、姉さん――」


 それは夏の始まりとともに、本当に突然なんの前触れもなく。


 嵐に似た何かが、夕暮れ時の天正家に訪れた。

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