5.
「く、くくくっ、くま、クマ……!? なんでこんな所にクマがっ……!?」
いるのよ――!??
私は、ぱくぱくと口を開け閉めさせて、そして。
「ぎ……、ぎぎぎっ……、」
「ギャーッ!!」と喉奥から込み上げてきたものを素直に吐き出そうとしたけど、後ろから
とっさに口をふさがれた。
その手の主は菖蒲兄さんだ。
菖蒲兄さんは、
「牡丹さん、静かに」
と私の耳元でささやいた。
「クマは急に大声を出されると驚いて、飛びかかって来る可能性があります」
「飛びかかってって、そんなっ……」
「いいですか、絶対にクマに背中を見せてはいけません。その途端、おそらく襲ってくるでしょう。
クマは本来、臆病でおとなしい性格です。なのでクマの瞳をにらみ付けたまま刺激しないよう、ゆっくり後退してください」
私は兄さんに従って、ぎゅっと目に力を込めながら、そろそろと後ろに下がって行く。
だけど私達が一歩下がれば、クマは一歩前進し。私達が二歩下がれば、クマも二歩前進し……。
「兄さん。いくら離れてもクマが近付いて来るんですけど。これじゃあ、いたちごっこですよ」
「そう言われましても他に方法は……」
視線をクマに向けたまま後退し続けるけど、この調子じゃあ埒が明かない。
いつクマが襲いかかって来るかも分からない恐怖と対面しながら、それでも必死に逃げ続けていると、ふと後方から、「おーい!」と、この緊迫とした場とは不釣り合いな間延びした声が聞こえてきた。
「ごめん、ごめん。下駄の緒が切れちゃって。直すのに時間かかっちゃった……って、どうかしたの? 後ろ向きで歩いたりして」
「桜文兄さん! それが、クマが……!」
「クマ? クマって、ああ……」
私達の視線を辿り、クマに気が付くと、桜文兄さんは小さくうなずいた。
「……分かった。俺がおとりになるから、その間に二人は逃げて」
「逃げてって、桜文兄さん?」
一体何をするつもりかな。だけど問う前に、兄さんはその場から駆け出した。クマ目がけ一直線に突っ込んで行く。
突然の展開に、クマは動揺したのか。四つん這いの姿勢から立ち上がって、腕を大きく振るった。だけど桜文兄さんはそれを寸での所でかわし、勢いを殺すことなく、そのままクマの懐へと入り込んだ。
そして天に向かって蹴り上げた兄さんの足が、見事クマの鼻先へクリーンヒットした。クマは悲鳴を上げながらくるりと背を向けると、一目散に後方へと駆けて行った。
その一瞬間の出来事を見届けると、
「た、助かった……」
たっぷりの空気を含んだ情けない音を上げながら。全身に浮かび上がっている汗に不快さを感じる暇もなく、私はへにょりとその場に座り込んだ。
「……って。桜文兄さん、大丈夫ですか!?」
「うん。このくらい平気だよ」
立ち上がることすらままならない私に引き替え、桜文兄さんはけろりとした調子だ。その上、軽快に笑い出す始末で。
そんな兄さんの能天気な様子に私は感心を通り越して、あきれることしかできない。
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