15. 今この世界にはない

 二学期の始業式があった次の日、夜遅くに学校からグループメールが届いた。

 『本校関係者1名が新型コロナウィルスに感染していることが確認されました』―――そのたった1行で、当面の臨時休校が確定したという連絡だった。

 恐怖は思ったよりも小さかった。渋谷や新宿で買い物、アミューズメントパーク……夏休み中のピンスタを少しでも見ていれば、どこで誰が罹っていてもおかしくないのは明らかだったから。

 その代わり、どれだけの間自宅待機になるのか、夏休み明けすぐの予定だった学内考査はどうなってしまうかを覚悟するしかなかったけど…保健所の指導によって校内消毒が実施され、濃厚接触者の調査が終わり、3日後に学校は何事もなかったかのように再開した。もっと大がかりで何日も続くものを想像していたのに、とてもあっさりと、うちの学校初のコロナ感染はそれで終わった。あっさりしすぎていて、本当に登校して大丈夫なのかと不安になるほど。

 『感染者の特定やSNSへの投稿はしないように』と学校から念を押されていたけど、数日後には、バスケ部の誰かだという噂がまことしやかに回ってきた。屋内で多人数且つ接触プレイをする、一番危険な部活のひとつだろう。遊び歩いていて罹ったならまだしも、夏休み中の部活でうつってしまったとしたら…きっと、誰も責める気にはなれない。たまたまコロナ禍に当たっただけで、私たちには3年間しかない高校生活のうちの貴重な1年なんだから、感染の危険をおしてでも部活を頑張りたい気持ちは当然だ。私の学年は練習も大会もほとんどが奪われて、泣きながら諦めるしかなかった同級生を沢山見かけたけど、下の学年たちはそうならないことを祈るしかない。そのためにできることが自粛とマスク消毒しかないのが歯がゆいけど、もう私はその無力感にすら慣れつつあった。ただひとつ、バスケ部は山咲くんが所属していた部活だったことだけが少し引っかかったけど……今となっては確かめる方法も必要もない。

 それだけのことがあっても、二学期の3ヶ月間、クラスの3つの勢力図は何も変わらなかった。普段の生活に戻った組は着々と活動範囲を広げつつあるし、今日もパリピ組は忘年会の予定を張り切って立てている。このはしゃぎっぷりなら、きっと年越しカウントダウンや新年会もやるんだろう。自粛組は片手で数えられるくらいに数を減らしていて、『クソ真面目ないい子ちゃん』としてクラスから完全に浮いていた。もちろん私にはそんなつもりは毛頭なくて、もうスタンスが違ってもお互いに攻撃しあうべきじゃないと思うようになっていた。正解なんてわからない、誰もが『自分の行動』を『感染』との秤にかけて、納得した上で過ごしているはずなんだから。ただ、私と陽奈はクラスでマスクを外すのがいよいよ怖くなっていて、空き教室を渡り歩いてお弁当を食べるようになっていた。

 それから…二学期になって、ひとり学校に来なくなったクラスメイトがいる。パリピ組ほど悪目立ちしてはいなかったけど、大学生の彼氏の話をよくしていた子で、……妊娠したという噂が静かに流れていた。退学したのか、まだクラスの誰も知らない。


 現実は一切の容赦なく私たちに襲いかかっている。――ただし、本質的にはコロナ禍であるなしに関係なく、ひとりひとりの行動次第で決まる。

 この夏にそう強く思っていたから、私は誰にも何にも流されることはなかった。学内考査を勝ち抜き、願書を提出し、面接を受け、私は指定校推薦枠で志望校に無事合格した。




 2020年、師走も半ばを過ぎた20日、日曜日。

 陽奈や大学志望の同級生はここからが受験本番だけど、私や専門志望の穂花の受験は既に終了、気分的には冬休みに入っていた。といっても、コロナはまた感染者数が第2波を越えて増え続け、年末年始に第3波が到来するとさかんに言われているから、自粛を続けるだけだ。こうしてみると、第1波は不慮の事態でしかなかったけど、2波は夏休み・3波は冬休みと、普段人が動く季節に起きているのが私にもわかる。しかもどんどん人流は多くなっていて、比例して波も大きくなっている。こういうところからも、クラスメイトだけじゃなく、既に多くの人が普段の生活に戻りつつあるのを感じる。

 でも、私はどこにも出掛ける気はなかった。何をおしても外出したいと思うのは今日だけ―――片桐さんに会う日だけだ。


 バイト最後の日に連絡先を交換はしたものの、受験合格の日に私がメッセするまで、片桐さん側から連絡が来ることはなかった。無茶苦茶に律儀なあの人のことだから、きっと受験の邪魔をしたくなかったんだと思う。その時にうっかり「受験は終わったけど、最後に指定校推薦合格者の保護者会がある」と言ってしまったのを最後に、また返事が途絶えたから間違いない。

 その保護者会も先週末に終わって、土曜には家族でささやかなお祝いパーティーをしてもらい、やっとひと心地ついた休日。ついに会える…とその前に私たちがぶち当たった壁が、このコロナ禍で『会う場所』だった。喫茶店でマスクを外すのはまだ怖いし、商業施設だと長時間過ごしにくい上に密が気に掛かる。バイクと自転車で一緒に出掛けるのも難しいし、ツーリングに行くには辛い季節。ここはやっぱり近場の森林公園かと話がまとまりかけた頃、片桐さんに急に片付けたい仕事が入ってしまったそうで……結局私は午後3時に、くすりのタナハシ本社ビルの屋上に向かっていた。

 この階段を毎日登っていた頃を、まだ昨日のように思い出せる。この上で階段に座ってカフェオレを飲んでいる、ボサボサ頭の人を見つける瞬間に胸を弾ませていた頃。休日出勤はよくないにしても、ここにもう一度来られるなんて考えてもみなかった身としては、思いがけないサプライズだった。色気なんて欠片もないけど、私たちにとってはかけがえのない思い出の場所。

 鍵は開けてあると言っていた。いつもの踊り場を越えると、私は初めて屋上の扉を開けた―――


 「…よ。元気そーだな」


 舞い上がるようなビル風と一緒に、心地いい低い声が聞こえる。カーキのモッズコートからはみ出した長い足を組んで、壁に寄りかかっていた人がこっちを向いた。その顔を見た瞬間、必死に我慢していたわけでもないと思っていた自分の『逢いたい』という気持ちが、本当はすごくすごく大きいものだったと今更気付く。私は咄嗟に涙を堪えて、近づいてくる恋人を見つめた。

 髪型は前髪の右が長く左が短いアシメに変わっていて、でも口元にはやっぱり私が作ったグレーのマスクを付けている。切れ長の美しい目が真っ直ぐに私を捉えたまま距離が少しずつ縮まる……改めて見ると、こんなに格好いい大人の男性が自分の恋人だという事実が嘘のような気がしてくる。真実を確かめる勇気がないままその場から一歩も動けなくなった私の、数メートル手前で片桐さんが止まった。

 「……あ、やっべ」

 そう呟くとコートのポケットに手を突っ込み、取り出したのは……スプレーのボトルだった。片桐さんは、それをシュッシュと手慣れた様子で自分の服と手に吹きかける。風に乗って、この1年であまりにも嗅ぎ慣れた匂いが私の鼻に届いた――消毒用アルコールだ。

 昭伯父さんから話は聞いていた。バイトを辞めてからも家同士での交流の機会は普通にあって、伯父さんはそのたびに会社や片桐さんのその後を私に教えてくれていた。秋以降、片桐さんはマスクだけでなく消毒やうがいに人一倍熱心になり、コロナにも誰より詳しくなっていったらしい。マスクやコロナ関連商品の売上以外にはあんなに疎くて、ソーシャルディスタンスも濃厚接触も知らなかった人が、マイ消毒スプレーを持ち歩くようになるなんて……信じられないような変わり様だ。

 きっと世界中でただ1人、私だけはその理由を知っている。『恋人と会うため、それまで自分が絶対にコロナに罹らないため』……私とまったく同じだから。

 「さすがに今日は制服じゃねーな」

 「…あ、はい……」

 目の前まで来た片桐さんに無遠慮に見回されながら、我ながらふにゃふにゃとした返事しか返せない。学校にも着ている紺のPコートの中に生成りのセーター、膝下丈のエンジ色のスカート、ブラウンのタイツとミドルブーツ。昨日一晩悩んでひねり出したコーデに、ボブが伸びたままセミロングになっているのを慌てて編み込みしてきたけど……。

 「クッソかわいーけど、寒くねーのか?」

 「………!」

 真正面からストレートに褒めてもらって、心臓が跳ね上がる。10歳年上の恋人と並ぶんだから精一杯大人っぽくしたほうがいいのかも?と、必死に似合いもしないアイテムやお化粧に悩んだりもしながら、結局等身大の私を好きになってくれた片桐さんを信じていつものかんじにまとめてきて良かった…!

 「どした?」

 「いえ…平気です。たくさん重ね着するのに慣れちゃってますから」

 「そーなのか?パッと見全然わかんねーけど」

 「換気のために、冬でも授業が終わるたびに教室の窓が全開にされるんです」

 「あー、密防止か…さみーけど仕方ねーな」

 「はい、だからすっごく厚着です」

 「ん、ならいい」

 よく晴れた休日の午後、誰も居ない会社のビルの屋上で、私たちは3ヶ月半ぶりに笑顔を交わし合う。逢えなかった長い時間が、あっという間にビル風に攫われて飛んでいってしまったような気がした。

 「タナハシの皆さん、お元気ですか?」

 「あー、変わりねーよ。今んとこ誰もコロナに罹ってねーし」

 それは何よりですね、と私がホッとしている隙に、突然片桐さんが爆弾を投げ込んでくる。

 「みんなお前によろしくってよ」

 「…え?!どういう、ことですか?」

 「ん?別に、そのまんまだろ」

 「そ、そうじゃなくて…片桐さんと、私が逢うって、なんで知って……」

 「あー…それな」

 こともなげに説明されたのは…私たちの関係に、社内の女性陣はとっくに全員勘付いていたらしいこと。完全に気付いていなかったのは小崎さんくらいで、今では伯父さんや男性社員もみんなで一緒に応援ムード一色らしいことだった。少しだけ事態をややこしくした小崎さんは、事情を知ると平謝りしていたそうで、なんだか申し訳ない…。それにしても、みんな中に知れ渡っていたなんて顔から火が出そうだけど……確かに、片桐さんがこうまで変わったのが、誰から見ても私がマスクの直談判をした辺りから急激にだから……むしろ気付かない方が難しいかもしれない。

 「で、クリスマスが近いんだから、合格祝いと兼ねてなんかプレゼントしろってよ。…つーわけで、欲しいもんねーか?今日渡せりゃよかったけど、どーせならお前の好きなもんの方がいーだろ」

 「え?!いえ、そんな、私は片桐さんに逢えただけで、全然じゅうぶんで…」

 「………ほんっと、お前は…」

 予想外の展開にあたふたしっぱなしの私に、片桐さんはまた目だけで思い切り笑ってみせると、私の手を取ろうとして………

 「…いけね、忘れるとこだった。その前に…………ほい、これな」

 またもポケットをガサゴソと探り、片桐さんが私の手の上に乗せたのは、分厚い封筒だった。宛名は『片桐周様』、差出人の部分には、知らない病院の名前が書いてある。

 「え………これは?」

 「いーから、見てみろって」

 こんなに分厚い病院からの通知って…楽しかった気持ちが一瞬で冷や汗に変わりそうになる。…けど、片桐さんの目はまだ優しげに笑っていたから、それだけを信じて私は封筒の中身を引っ張り出した。三つ折りになったたくさんの紙束を開くと、最初に目に飛び込んできた文字は―――


 「『診断結果』………?」


 「ん」

 それは、片桐さんの健康診断の結果表のようだった。ただし、どう見ても検査の種類が半端ない。まずは学校の定期検診でもやるような身長体重や視力・聴力・歯科検査、それから…見たこともないような検査結果が何枚にも渡って記載されている。尿検査や血液検査の数値も多すぎて意味がわからないし、ええと胃カメラと大腸カメラ、脳MRIに肺CT、内臓脂肪検査、ウイルス抗体検査、アレルギー検査、肝炎検査、ABC検査?、腫瘍マーカー?……半分以上が私にはちんぷんかんぷんだ。最後の方にはHIVや梅毒といった聞き慣れないものも並んでいて、よくよく見れば『性病検査』と書かれている……い、今更だけど、これは完全にトップクラスの個人情報の塊だ!私は焦って片桐さんに聞き直す。

 「これ、ほんとに見ていいんですか……私が?」

 「?そりゃそーだろ、そのために取ってきた」

 「……私に、見せるために???」

 意図がわからなすぎてぽかんとしてしまった私に、片桐さんが丁寧に解説してくれる。

 「この3ヶ月で、調べられるもんは全部調べてきた。結果からいうと、だいたいは異常なかった」

 「は…はい」

 「んーと、水痘とおたふくの予防接種を打ってなかったっぽいんでそれ打ったのと、身長181で60ちょいは痩せすぎだっつーから肉喰いまくって増やした、とりま今65な」

 「え……はい、大事ですよね」

 「それとカシューナッツってやつを喰うとやべーらしい、喰ったことねーけど」

 「あ………聞いたことあります、ナッツアレルギー」

 「ん、でもナッツオイル?は平気だったから、そんな酷くねー方らしい。あと引っかかったのはタバコのせいで肺が汚ねーのと、もっと野菜喰えってくらいか。その他は全部問題なし」

 「はい…………」

 とてもわかりやすい説明だったけど、私が聞きたいのはその部分の説明じゃない。なんでこんな検査を……と、そこでおもむろに片桐さんがスマホの画面を見せてくる。そこには、一通のメール画面が映し出されていた。

 「『PCR検査結果:陰性』……これって」

 「信憑性はピンキリらしいけどな、一応俺でも名前知ってる製薬会社のやつ取り寄せてやってみた」

 半信半疑ながらも、陰性と聞けばやはり安心感がある。コロナ検査キットのことは噂には聞いていたけど、本当に使った人の話を聞いたのは初めてだった。だいたいのものは、こうやってメールで結果が送られてくるんだそうだ。くすりのタナハシでも取り扱いはあるらしいけど、片桐さんが使ったものは、小売店には出回っていないちょっとお高いものらしい。事態がうまく飲み込めていないまま、私はぼけっと感想をそのまま口に出す。

 「というか…こんなに検査したら、すごくお金がかかりそうですよね」

 「そーだな、30ちょいくらいだったか?生まれて初めて人間ドックとかいうやつ入ったら、ヘンな服着て、3日ぐらい検査検査で病院ん中這いずり回ってよ、まあけっこー面白かったな」

 「さんじゅう………って」

 まさか、30万円……?!え、そんなに、ていうか生まれて初めてって、なんで急に?!まさか、どこか悪いところに心当たりが…?!

 「……っ、………」

 聞きたいことは山ほどあるのに、驚きと不安で声も出せない。マスクの中でぱくぱくと口を動かす私の手から紙束を取り上げてポケットに戻すと、片桐さんは再び消毒スプレーを出して自分の服と手にかける。

 「ってことで、これで大丈夫だろ?」

 「な、何が……?!」


 「お前に触っても、だろーが」


 気付けば私は思いきり抱き締められていた。むせかえるようなアルコールの匂いの後に、少しごわごわしたコートの肌触りと、じんわりとした温かいぬくもりがやってくる。回された両腕は力強く私を包みこんで離さず、何度も撫でるように背中を上下している。

 「…やっとだ………」

 頭ひとつぶんは下にあるはずの私の耳が、すぐ傍で吐息と一緒に吐き出された小さな本音を拾って――それで私にもようやく実感が湧いてくる。

 世界を脅かす感染症の流行真っ只中に、恋人になって3ヶ月半、私たちはやっと抱き合えた。心から安心して私を抱き締める、ただそれだけの為に、片桐さんは自分自身を徹底的に調べてきてくれたんだ―――私は手を伸ばすと、片桐さんを精一杯抱き締め返した。

 「…!」

 応えて、片桐さんの腕の力が強くなる。吹き付けていたはずのビル風の寒さも音も、時間さえも消えた屋上で、私たちはそのままお互いを抱き締めていた。

 「………な、ニレケイ」

 「…はい」


 「マスク、外していいか?」


 降ってきた提案に、私はわかりやすく大動揺してしまう。マスクを外すということは、つまり…マスクを外さないとできないことをするわけで………。

 「嫌なら言えって」

 「嫌じゃないです!!嫌じゃないんですけど、片桐さんは大丈夫でも、私は、検査とかしてませんし……」

 「別にあんなん2週間経ちゃノーカンだし、お前のことだからずっと自粛してたんだろ?」

 「それは勿論です、けど……」

 「ん、色々考えたんだけどな…お前はよくねーか?」

 「………?」

 またも片桐さんの真意を計りかねた私は、少しだけ身体を離すと彼の目を見上げた。

 「お前が罹ったとして、お前だけ苦しいのはダメだろ。そん時ぁ俺もうつる」

 「なっ何言ってるんですか?!だめに決まってます!!もし重症化したら命に関わるんですよ?!」

 「んな怒んなよ、例えだよ例え」

 「例えでもなんでも、言っていいことと、悪いことが……」

 片桐さんのマスクの中から、くつくつと声を殺した笑い声が聞こえる。なんだか毒気を抜かれてしまった私は、言葉を切ると片桐さんの笑いが収まるのを待った。

 「…お前はさ、バイトん頃からずーっと、俺んこと心配するよな」

 「それは…生意気なのは承知の上です」

 「ちげーよ、そーじゃねえ」

 「……片桐さん?」

 「俺ぁ、死ぬのもシャクだからっつー程度の理由でこの年まで生きててよ。だから、お前が本気で心配してくれんのがやったらくすぐったくてな…」

 言いながら、片桐さんはマスクのゴムに手をかけた。久しぶりに見られた片桐さんの顔は、相変わらず完璧なバランスで綺麗な目鼻立ちが並んでいて見惚れるようだったけど……それよりも、こんなに優しくて穏やかな表情を見せてくれていることが、本当に嬉しい。

 「自分のことなんざどーでもよかったけど、お前がそんなに大事にすんならちゃんとしてみっか、って初めて思ったんだよ」

 「それは、片桐さんが、元々…私みたいな年下バイトの話を、真剣に聞いてくれる人、だったからで……」

 涙が溢れそうになって、私の言葉が止まる。だって、そうでしょう?


 私を大事に想ってくれることが、片桐さん自身を大事にすることに繋がっていた―――そんな奇跡が起きていたなんて。


 「泣くなっつーの………外すぞ?」

 もう何も言葉にならなくて、私はただ頷いた。

 涙を拭いてくれたあとの片桐さんの両手が耳に伸びて、そっと私のマスクが外される。現実と夢の境界にいるようなふわふわした心地で、私はゆっくりと目を閉じる。結婚式でベールをめくられる花嫁さんの気持ちがわかったような気がした。

 ……もう、いいんだ。

 コロナ禍になって10ヶ月、大好きな人とこれ以上ないほど安心して濃厚接触できる機会は、きっと今この世界にはない。


 初めてのキスは、少しだけうがい薬の匂いがした―――紛れもなく、これも片桐さんの愛情の証だ。

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